第三話 揺らぐ境界
その名を見たとき。
ほんの一瞬だけ、手が止まった。
——お雪。
あの女。
自分が選んだ女。
利用し、試し、そして——残した存在。
帳面の中で、その名だけが、まだ線を引かれていない。
指先が、わずかに震える。
ほんのわずかに。
だが、それだけで十分だった。
異常だと分かる。
ここでは。
迷いは、不要。
感情は、邪魔。
それを、誰よりも知っているはずなのに。
なぜ。
この名だけ——
違う。
そのとき。
声がした。
「……どうした」
障子の向こう。
あの声。
すべてを見ている存在。
「いえ」
すぐに答える。
迷いを消す。
「問題ありません」
そう言って、筆を取る。
だが。
動かない。
ほんの一瞬。
ほんの一瞬だけ。
あの夜の記憶がよぎる。
怯えた目。
壊れかけた心。
それでも、生きようとした姿。
——昔の自分と、同じ。
その瞬間。
彼女は理解した。
これは、危険だと。
この感情は。
この迷いは。
すべてを壊す。
だから——
消すしかない。
彼女は、ゆっくりと筆を動かした。
線を引く。
ためらいなく。
まっすぐに。
それで終わり。
お雪という存在は、ここで消える。
そう決めた。
それが、正しい。
それが、ルール。
だが——
線を引いた瞬間。
胸の奥で、何かが軋んだ。
音がした気がした。
壊れる音。
それでも。
止まらない。
止めない。
止めてはいけない。
ここでは。
揺らいだ者から、消える。
そのルールを。
誰よりも知っているのだから。




