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第九章 けむるような距離が、一番痛い。けれど、それでも近付きたい。

 久し振りに大学へ行くと、友達が言った。

「暫く見なかったけど、どうしてたの?」

「インフル」

 短く言って、会話の端を切る。

 切ったのに、切れない。

「飲み会行こうよ」

 忘れるためにも、飲み会。

 私は笑って頷いた。

 笑いはいつも、答えの代わりになる。


 四人。前と同じ。女の子が一人、男の子が二人、私。

 その並びが、同じであることだけを頼りに、同じじゃないものを誤魔化している。

 懐かしい、と言えば優しくなるはずの形が、今日は少し苦い。

 夕方の空は、思ったより早く暗くなる。

 臨海ターミナル駅に着くと、看板の白い光が目に刺さった。

 駅の傍にある『笑笑わらわら』。


「ここ、逆に落ち着くよね」

 女の子が笑う。

 逆に、の中に何が入ってるのか、私は聞けない。

 聞けないまま、入口のタッチパネルを眺める。

 入口のタッチパネル。いくつも並ぶメニュー。

 居酒屋特有の、甘い油の匂い。

 店員さんの「いらっしゃいませぇー!」が、照明の白さで膨らんで、頭の中まで入り込んで来る。

 こういう場所で黙っていると、黙っていることが騒がしくなる。

 四人掛けの席に通される。

 仕切りの薄い壁。背後の笑い声。グラスが当たる音。

 全部が近い。

 近いのに、誰にも触れられていないみたいで、少し寒い。

「インフル明けなんだから、無理しないように」

 女の子が私の前のグラスを見て言った。

 笑っているのに、目だけは真面目。

「大丈夫。もう治ったし」

「治ったって言う奴、大体治ってないんだよね」

 冗談みたいに言うから、私は冗談みたいに頷く。頷きが、一番簡単な嘘だ。


 男の子のひとりは、距離を詰めるのが上手い。

 悪意が無いまま、当たり前の顔で人の境界を跨いで来る。

 彼は「俺」と言って、「お前」と言う。

 その呼び方に棘がないのは分かる。分かるのに、肩が少しだけ固くなる。

「お前、ほんと急に消えたよな。LINEも返ってこねーし」

「ごめん。熱出て寝てた」

「だからって返せよ。俺、心配したんだぞ」

 心配、の言い方が軽い。

 軽いクセに、私の心の壁を、叩く音だけは大きい。

 私の壁は、叩かれると薄くなるんじゃなくて、硬くなる。


 もうひとりの男の子は、踏み込まない。

 空気の端を乱さない。

 そういう人がいると、私は呼吸が出来る。

 なのに私は、そういう人にだけ甘えられない。

 甘える場所だと分かった途端、怖くなるからだ。


 乾杯が始まる。

 最初の一口が喉を通る。

 アルコールが体の角を丸めていくみたいで、私は少しだけ『普通の顔』を思い出す。

 思い出すほど、忘れていたことが分かってしまう。

 枝豆、ポテト、唐揚げ、出汁巻き玉子。

 油と塩が、会話に滑りを付ける。

 グラスがぶつかる音が、何度も鳴る。

 笑い声がそこで増幅する。

 増幅するほど、私の中の静けさが、輪郭を持って浮かび上がる。

「ねえ、最近どう?」

 最近、は困る。

 私は答えを選ぶ間に遅れてしまう。

「どうって……インフルだった」

 また、それで終わらせようとする。

「それは知ってる。治った『後』だよ」

 女の子は笑いながら、逃げ道を塞ぐみたいに言う。

 優しさは、時々檻になる。外に出さないためじゃなく、隠れさせないために。

 私は笑って誤魔化す。

 胸の奥は冷えている。

 冷えたところに、居酒屋の熱だけが当たって、痛い。

 痛いのに、痛いと言えない。痛いと言える人が居ない。

「最近さ、恋愛とか無いの?」

 『笑笑』の名前みたいな軽さで女の子が言う。

 場がそれを待って居たみたいに反応する。

「無い無い」

 私は早口で言う。

 無い、と言うために、無い顔を作る。

「絶対嘘」

「嘘じゃない」

「じゃあ、誰かに告られたりは?」


──その瞬間、『俺』の人が黙った。

 黙ると存在感が増える。

 ザワザワの中で黙っている人は、何かを抱えているように見える。

「おい、止めろって。そういうの、本人困るだろ」

 もうひとりが空気を戻す。

「えー、良いじゃん。飲み会っぽいじゃん」

 女の子は笑って、でも私の顔を見て、声を落とす。

「ごめん、嫌だった?」

「嫌じゃない」

 私は直ぐに言う。嫌だった自分を、先に消す。


 お酒が進む。話題が雑になる。

 教授の愚痴、レポートの締切、変なお客さん。

 笑える話ほど救われるはずなのに、笑えば笑うほど、笑っていない時間が浮き彫りになる。

 私は、笑い方の癖だけがグラスの中に残っていて、心だけ置いて行かれている。

「お前、もっと飲め。今日、来た意味なくなるぞ」

 俺の人が言う。

 意味、という言葉が刺さる。

 私は、意味を探しに来たんじゃない。消したい意味を薄めに来ただけだ。

「無理」

 言い切るほど強くないから、私は笑って誤魔化す。

 誤魔化すのが上手い人ほど、誤魔化しが下手になる瞬間がある。

 今日はその瞬間が、どこかで待っている気がした。


 終電が近付き、会計を済ませ、店を出る。

 臨海ターミナル駅の前は、夜でも明るい。

 コンビニの光、夜道のライト、タクシーの待機列。

 酔いが、光の粒みたいに視界の端で揺れる。


「じゃ、俺こっち」

 もうひとりが違う路線へ行く。

 三人で改札を通る。

 女の子も手を振って、軽い足取りで別のホームへ。

 その背中が、何も引き摺っていないみたいで眩しい。


 隣に残ったのは、俺の人だけだった。

「……お前、ちゃんと帰れんの?」

 お前、の一言で、私の肩が少しだけ固くなる。

 本人は気付かない。気付かないまま、距離を詰める。

「帰れるよ」

「送る。危ねーし」

「大丈夫だって」

「大丈夫って言う奴、大体大丈夫じゃねーから」

 同じ言葉が、別の形で刺さる。

 さっきと優しさの形が違う。

 包む優しさと、掴む優しさ。

 私は掴まれると、呼吸が浅くなる。


 ホームで電車を待つ。

 彼はスマホを触っている振りをして、触っていない。

 画面の明るさだけが、彼の顔を照らす。

 私は線路の向こう側を見る。

 向こう側を見ると、ここに居なくて済む気がする。

「なあ」

 声のトーンが変わる。

 飲み会の延長じゃない声。

 それだけで、酔いが少し醒める。

「……何?」

「今日さ、こうやって二人になったの、多分初めてだろ」

「うん」

「お前、いつも笑ってるけど、どっか遠いんだよ」

 遠い、と言われると、私は何も言えない。

 正しいからだ。

 正しい言葉は配慮が無くて、言い返せない。


 電車が来て、乗る。空いている車両。

 私が座ると、彼も隣に座る。

 隣が『自然』だと思っている距離感。

 私は、自然な振りをしているだけの距離が怖い。

 数駅。会話は途切れ途切れ。

 彼はどうでも良い話をしながら、ずっと私の反応を見ている。

 見られていると、私は『ちゃんとした私』を作らなきゃいけなくなる。

 作っている間に、本当の私は薄くなる。


 杜ノ宮駅で改札を出る。

 人が減り、駅前の広さが急に寒い。

 ここで終わらせたい。

「ここで良い。ありがとう」

 私は言う。

 終わらせたいのに、俺の人は終わらせてくれない。

「待て」

 彼が改札を出る──その重さが、私の足首に絡む。

 改札の光を背負って、彼の影が少しだけ濃くなる。

 濃くなった影の方が、本人より先にこちらを見ている気がして、私は視線を逸らした。

「……俺さ」

 息を吸って、吐いて、もう一度吸ってから。

「ずっと前から、お前のこと好きだった」

 私は足が動かなくなる。

 その言葉が重いからじゃない。

 重さの方向が、私の胸の中と違うからだ。

 好き、は正しい。

 でも、私が欲しいのは、その正しさじゃない。

 私が欲しいのは、呼び方の温度だった。


 『お前』じゃなくて、『君』が良い。

 『俺』じゃなくて、『僕』が欲しい。

 誰かの口から落ちる『君』と『僕』は、押して来ない。

 差し出して来る。

 受け取れるだけの距離を先にくれる。


 目の前の彼は真面目だ。

 真面目なのに、私の胸は反応しない。

 反応しない代わりに、私の胸の奥──『呼べない名前』だけが浮かぶ。

 呼べないから、ずっとそこにいる名前。

「……考えさせて」

 私は、やっとそれだけ言った。

「考えるって、何?」

 彼が食い下がる。

「今、直ぐ答えられないってこと?」

 答えられない理由を、彼は知らない。

 知らないから、詰める。

 詰められると、私は更に黙る。

「ごめん。今は……」

「今は何だよ」

 今は、の先を言葉にした瞬間、全部が壊れる気がした。

 忘れるために来た夜が、忘れたかったモノの輪郭だけを濃くする。

 好きと言われるほど、私は『好きと言ってほしかった人』の言葉を想い出す。

 僕、と言って、君、と呼ぶ人。

 その呼び方一つで、心の膜が薄くなる人。


 俺の人は、真っ直ぐだ。

 真っ直ぐだから、私の曲がったところを照らしてしまう。

 照らされると、影がくっきりする。

「……帰るね」

 私は言って、歩き出した。

 背中に声が飛んで来た気配がしたけれど、振り向かなかった。


 夜風が頬を冷やす。

 冷えるほどに、私の中の静けさだけが戻って来る。

 静けさは、救いみたいで、罰みたいだった。

 煙るような距離が、一番痛い。

 近付かない方が楽なのに、私は近付きたいモノの方を、いつも間違える。


 改札の向こうで、終電のアナウンスが流れた。

 その音は、誰の名前も呼ばない。

 呼ばないのに、私の喉の奥だけが、何かを呼びたがっていた。

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― 新着の感想 ―
単純に上手いなぁと思いました。 正直、ずっと重い展開が続いていて、救いが無い作品なのかな?と思っていたところです。 ここで、"彼"以外にも登場人物が出てきたことで少しずつ変化が出るのかな?と思いまし…
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