第八章 だれにも見せない顔を誰かにだけ見せたくなる。
何日か同じことを繰り返して、私は思った。
彼は車通勤に変えてしまったのかも知れない。
引っ越したのかも知れない。
私の居ない朝へ、ただ移動しただけかも知れない。
それでも私はスタバへ行く。
会えないのに行く。
会えないから行く。
ある日、店内で聴いたことのない大きな音がした。
スチームがいつもより荒い呼吸みたいに鳴っている。
その音の最前線で小さな女の子が固まっていた。
──あまねちゃん。
目が泣きそうだ。
私には何が起きているのか分からない。
分からないけれど、彼みたいに一歩だけ踏み出してみた。
「大丈夫?さえさん、裏から呼んで来な」
「でも、でも……」
あまねちゃんの声が震えている。
「大丈夫。私見てたから。あまねちゃんが機械壊した訳じゃないよ」
それを言った瞬間、自分の声が誰かを守る声になっているのが分かって、胸が少しだけ締め付けられた。
あまねちゃんは覚悟を決めた顔で頷き、バックヤードに駆けて行く。
その背中を見送りながら、私は失敗してしまったことに気付いた。
さえさんの名前を呼んでしまっていた。
さえさんが出てきて、機械を確認して、問題無いことが分かった。
あまねちゃんが息を吐く。
「ありがとうございました……不安だったんです。マストレーナは凄く高い機械だって聞いてて……」
マストレーナ。
私はその名前を覚えた。
覚えることで、少しだけその機械が私の傍に来た気がした。
さえさんが言う。
「ご迷惑をお掛けしました。最近、よく来てくれてますよね?」
さえさんの笑顔が眩しい。
「……あ、はい」
私は、ゆうきさんのことを知りたい。
「フラペチーノが好きなんですか?」
──最近、スタバに来てない?今、どこに居るの?
「それしか分からなくて……」
──さえさんなら知っているの?
「それなら、マンゴーパッションティーフラペチーノにホワイトモカシロップ追加──とか、どうですか?桃の味になるんです」
──ここで待って居たら、ゆうきさんに会えるの?
「それ、凄く美味しそうですね。頼んでみます」
──さえさん、教えて。
私は帰りに、さえさんに聞いたフラペチーノを持ち帰りで頼んだ。
あまねちゃんが作ってくれる。
必死で、丁寧で、怖がりながら、一つずつ確認している。
でも、ミキサする四角い大きなピッチャに、フラペチーノが引っかかってグラスに落ちてこない。
あまねちゃんが必死に振る。
顔が真剣で、泣きそうで、それでも諦めない。
世の中には、こんなにも一所懸命に生きている人が居る。
私はその姿に、少しだけ支えが落ちて行くのを感じ──この子と仲良くなろう。そう決めた。
そう決めた次の日、私はインフルエンザに罹った。
熱で身体が重くなり、外出も出来ない。
会えない時間は『忘れる』じゃなく──濃くする方向に働く。
思い出は薄まらない。
寧ろ発酵して、匂いになる。
夕方、薬を飲んでも身体の芯が熱いままベッドの上で天井を見ていた。
部屋の隅だけが冷えて、布団の中だけが季節を間違えている。
汗で首筋が気持ち悪いのに、起き上がる力が無い。
起き上がれないから呼吸だけが浅くなる。
玄関の方で、鍵が触れる音がした。
次にドアが開く。
「起きてる?」
小さな声がして、私は瞼だけを動かした。
焦点が合わない。
熱の膜の向こうで輪郭だけが近付いて来る。
「熱、大丈夫?」
返事をしようとして、喉の奥が痛む。
声が出ない。出ないから頷いた。
足音が離れて行く。
水を汲む音。コップを置く音。
一つ一つの音が私の身体の中のざわつきを少しずつ平らにして行く。
戻って来て、枕元に座った。
ベッドが沈む。沈み方で近さが分かる。
近いだけで頭が忙しくなる。
熱のせいなのか、距離のせいなのか分からない。
分からないまま胸の奥が変なところで熱い。
額に手が当たる。
冷んやりした手の平が熱を測るみたいにゆっくり動く。
「大丈夫。無理して喋らなくて良いよ」
その言い方があの電車の音色のままで、私は息の置き場を失う。
泣くのは嫌なのに、涙だけが勝手に溜まって、目尻を撫でて耳を擽る。
──名前を呼びたい。
呼べば距離が決まる。
呼ぶことは線を引くことだから。
なのに線を引く前に失った気がして、余計に呼びたくなる。
「水、飲める?」
コップが唇に近付く。
私は少しだけ身体を起こして、口を付けた。
水が冷たくて、喉の痛みの奥まで届く。
飲み終わると、彼はそれをテーブルに置く。
その動きが丁寧で、丁寧なのに迷いが無い。
「色々買って来たから」
袋の中から出て来たのは解熱剤と、スポーツドリンクと、小さなゼリー。
それから、青い熱さまシート。
枕の横に置かれただけで布団の中の熱が少しだけ逃げ場を見付けた気がした。
「……来て、くれたの?」
掠れた声で言うと、彼は少しだけ口元を緩めた。
「暫く見なかったから。心配した」
胸の奥が、きゅっと縮む。
縮んだまま、解けない。
解けないのが怖いのに、解けないことが救いでもある。
私は布団を握る。
握って、指に力を入れる。
ギュッと小さく鳴って、その音が私の中の不安を押し潰してくれる気がした。
私はずっと言いたかった言葉を渡す。
「……ごめんなさい」
何に対してのごめんなさいか分からない。
朝の一言か、今までの沈黙か、病んで迷惑をかけたことか。
分からないまま言ったのに、彼は責めなかった。
「良いよ。今は寝な」
手の平がもう一度だけ額に触れて、髪の生え際を避けるみたいに、ほんの少し動く。
触れているのに、触れていないみたいに優しい。
優しいからこそ胸の奥が痛い。
視界が滲む。
滲んだまま、天井が遠くなる。
遠くなるのに、匂いだけが近い。
服の匂いに混じって、朝の電車みたいな温度が戻って来る。
「……ゆうき、さん」
──呼べた。
呼べた瞬間、身体の奥の硬いものが解けて、熱とは違う熱が広がって行く。
息が浅くなる。
ゆうきさんを見ることが出来ない。
恥ずかしいのに想いが止まらない。
「こっち……」
ゆうきさんの服を掴む。
「うん」
返事の音が枕元の影を揺らす。
揺れが私の方へ寄って来る。
布団の端が静かに持ち上がって、冷えた空気が入り込み、直ぐに閉じられる。
閉じられた内側にゆうきさんの体温が残る。
肩に触れる。背中に触れる。
触れ方は薄いのにそこだけ輪郭が濃くなる。
私は息を吸って、吐く。
吐いた息がどこにも落ち着かない。
あんなに近くで息が出来なかったのに、こんなに近くで呼吸が荒くなる。
服の擦れる音がして、ベッドがもう少し沈む。
沈み方が変わって、私は小さく身を竦めた。
竦めたのに、逃げない。
逃げられないんじゃなく、逃げたくないのが分かってしまう。
耳の近くで声が落ちた。
「寒くない?」
首を振る。
振ったはずなのに、髪が頬に触れる感覚だけが遅れて来る。
遅れる感覚が全部、熱のせいに出来るみたいで嬉しい。
手が私の指を解く。
布団を握っていた指が解ける。
解けた指先が行き先を失って宙に浮き、その宙をゆうきさんの手が拾うみたいに包む。
お腹の奥がきゅっと縮んで、直ぐに解ける。
──怖くないよ。
解けたところに熱が流れ込む。
熱は一度じゃ終わらない。
細い波みたいに寄って来て、寄って来たまま離れない。
私は喉の奥で息を噛む。
噛んだ息が声になる前に零れていく。
零れる度、ゆうきさんの影が少しだけ深くなる。
押されているのに、押される感じがしない。
私とは違うのに、私に合う。
埋まっていくのに、苦しくない。
ゆうきさんに手を掴まれているのに、私が彼を離さない。
額の上の熱さまシートだけがちゃんと冷たい。
身体の上と下で温度が喧嘩して、私はどっちにも負けそうになる。
「大丈夫?」
優しい音色。
耳を擽る。
──痛くないよ。
言葉じゃなくて、私はゆうきさんの肩に手を回して引き寄せた。
引き寄せた腕の内側で、鼓動が一つずつ数え切れなくなる。
──このまま。お願い。
数え切れなくなる度、私は落ちて行く。
落ちる途中で、何かが解けて、解けたまま、戻り方だけを忘れる。
──ゆうきさん。
──ゆうきさん。
──ゆうきさん。
私の全部でゆうきさんを握り締めた。
次の瞬間、身体がふっと解ける。
解けたところへ、遅れて波が追い付いて、腰の奥がじわりと熱くなる。
熱さが、乱暴だ。
乱暴なのに、嬉しい。
──ゆうきさんの名前が私の身体から零れませんように。
私は息を吐く。
吐いた息が震えて、笑いみたいに崩れる。
崩れたまま、胸の奥が静かになる。
静かになった分だけ、触れられた場所にしつこく残る。
残り方がしつこいのに、優しい。
次に目を開けた時、布団の中が嫌に冷たかった。
シーツが濡れていて、太腿に貼り付いている。
喉は乾いているのに、頭の痛みだけがすっと引いている。
身体を動かそうとして、腰の奥が遅れて鈍く重い。
重いのに、下腹の辺りだけ妙に軽い。
軽いというより、そこだけ空気の通り道みたいで落ち着かない。
部屋は静かで、時計の針だけが進んでいる。
枕元のテーブルには、水も、袋も、何も無い。
玄関は、私は何も知らない──みたいな顔で、内側のチェーンが掛かったままだった。




