第七章 スキは未だ名前の無い感情。直ぐに言葉にすると逃げてしまう。
朝の電車は眠気と化粧と仕事の匂いを薄く混ぜて運ぶ。
吊り革の金具が小さく鳴る。
未だ外の空気が冷え切る前の硬さが窓ガラスの向こうに残っているみたいだ。
工業街口駅に着く。八時三分。
そこで彼が同じ車両に乗って来る。
それが私の朝の決まった景色だった。
決まった景色は、決まっているから救いになる。
決まっているから、見ない振りも出来る。
なのに私はあの朝から決まった景色を待つ側に回ってしまった。
待つ側に回った途端、景色は景色じゃなくなる──祈りになってしまう。
今日、謝ろうと思った。
素直に「同じ柔軟剤ですね」って笑って言おう、と。
その言葉を何度も口の中で転がした。
「同じですね」でも良い。
「偶然ですね」の方が、品があるかも知れない。
「どこで買ったんですか?」なんて言えば会話が自然に始まると思った。
笑って言えたら、それで全部が元に戻る気がした。
戻る場所が未だあると思えるのが嬉しくて、怖かった。
電車は定刻通りに走っている。
駅名のアナウンスがいつもと同じ順番で流れる。
人は同じ場所に立ち、同じタイミングでスマホを見て、同じタイミングで降りて行く。
世界は私が何を間違えたかなんて知らない顔で淡々と朝を進める。
工業街口駅が近付くと、私はいつもより背中を固くした。
彼が乗って来る。
乗って来たら、私は息を吐いて、笑って、言う。
言えるはず。
八時三分。
ドアが開く。
冷たい空気が車内へ流れ込んで、足元の暖房の気配が薄くなる。
人が乗って来る。
鞄、コート、スマホ、新聞の角。
人の輪郭が次々に雪崩れ込む。
──居ない。
一瞬、目が遅れたと思った。
私は直ぐに反対側のドアへ視線を移す。
そういうときに限って、人の流れが二つに割れて、目が追い付かない。
追い付かないのは私のせいだ、と責めたくなる。
責めてしまえば痛みの行き先が出来るから。
閉まる。
ドアが閉まって車内の空気がまた均一になる。
電車は動き出す。
私は笑う準備をしたまま、何も言わなかった人みたいに座り直す。
ただ居ない。
それだけなのに頭の中で勝手に文章が立ち上がる。
『もう会いたくないんだ』
『あの一言で嫌になったんだ』
『匂いが同じだったことを気持ち悪いと思われたんだ』
誰も言っていないのは分かってる。
それでも言われたみたいに痛い。
私は痛い方を正解だと思ってしまう。
正解にしてしまえば、それを受け取れるから。
大学に着いても、私は胸の中に『笑う準備』だけを抱えたままだった。
使えなかった準備は、恥になる。
恥は誰にも見えない場所でじわじわ熱を持つ。
講義室の机の上でノートの端を指で撫でながら、私はずっと同じ一言だけを温存していた。
言葉だけが遅れて取り残されていく。
その日の夜、部屋に戻って、いつもの動作で手を洗って、いつもの位置に鞄を置いた。
いつも通りに出来たはずなのに、鞄の中の『笑う準備』だけが取り出せない。
鏡の前で私は小さく口を動かした。
「同じ柔軟剤ですね」
声に出すと急に生々しくて、直ぐ止めた。
『たまたま、同じですね』
心の中でもう一度だけ唱える。
言い方を変えても、結局、行き先が無い。
行き先が無いのに、明日の八時三分だけは確定している。
私はスマホのアラームをいつもより早い時間に三十分ズラして設定した。
意味がある振りをしたかった。
意味が無いことを認めたくなかったから。
二日目の朝。
昨日の私は見落としたのかも知れない。
昨日の私は正面だけを見ていたのかも知れない。
だから二日目の私は、確認する。
確認して、逃げ道を塞ぐ。
塞いだ先で彼が居なかったら──それが怖いのに確認を止められない。
瞼は重いのに目の奥だけが乾いて冴えていく。
瞬きをすると、取り零す気がした。
工業街口駅が近付く。
車内の人が少しだけ息を整える。
降りる人は立ち、席が空けば誰かが素早く滑り込む。
誰もが『次』を先に使う。
私は『次』を使えない。
八時三分に彼がいるかどうかで私の朝は決まってしまう。
八時三分。
ドアが開く。
私は、右。左。右。左。
視線を切り替える。
切り替える度毎に目の奥が擦れていく。
人が降りて行く。
乗って来る。
──その中に、居ない。
居ないという事実が届くより先に私は自分を責め始める。
受け取る前に一度叩いておけば、後から来る痛みが薄まる気がする。
薄まる訳が無いのに、そう信じるしかない。
それでも、来なかった。
閉まるドアの音が昨日より大きく聴こえた。
大きいのに誰も気にしていない。
いつものゆうきさんが電車に乗って来ないのに誰も気にしていない。
それが残酷だった。
世界はBGMみたいに冷たく流れる。
私の胸だけが五月蠅い。
講義室で教授が話している。
周りの人がノートを取っている。
私はノートの端に駅名を書きかけて、慌てて消した。
消しても、消した指の動きだけが強く残る。
残るものがいつも恥ずかしい。
三日目は車両を変えたのかも知れないと思った。
思った瞬間、不安が遅れて追い付いて来た。
不安はいつも遅れて来る。遅延証明書も出さずに。
昨日までの私は彼が来ないことだけを怖がっていた。
三日目の私は、『彼が来ない理由』を作り始めてしまった。
車両を変えた。
時間を変えた。
たまたま遅れた。
たまたま休みだった。
何でも良い。
何でも良いのに、最後に必ず残る一行がある。
──私が、何かを壊してしまったのかも知れない。
壊した、という言葉が怖い。
壊せるほど大きなモノを、私は持って居ないはずなのに。
持って居ないはずなのに壊したと思えてしまう。
それは、あの朝の『分かりません』を、今も未だ自分の中で拒絶と同じ棚に入れているからだ。
工業街口駅での八時三分。
私は目だけじゃなく、耳まで使って待った。
彼の歩く音。鞄の革が擦れる音──鈴の音。
そんなもの分かるはずが無い。
分かるはず無いのに分かりたくて、耳が勝手に探す。
来ない。
来ないのに、電車は動く。
窓の外の工場の影が流れる。
同じ広告が同じ位置で揺れる。
同じ人が同じタイミングでスマホを持ち上げる。
同じ朝が同じように終わって行く。
『同じ』だけが、私を刺す。
同じ柔軟剤と言えなかった私。
同じ朝が続いて行く世界。
そして、同じじゃなくなった彼。
三日目の夜、眠る前に一度だけ自分に言い聞かせた。
大丈夫。
未だ三日。未だ分からない。未だ、何も決まっていない。
言い聞かせた言葉ほど、次の朝には薄い。
薄いから簡単に破れる──。
四日目。
私はいつもより早く工業街口駅に着く電車に乗った。
そして一度、そこで降りた。
降りた瞬間、足元の冷たさが直に伝わった。
車内の温度から外へ出ると、世界の輪郭が急に固くなる。
ホームのコンクリートは朝の硬さをそのまま抱えている。
息は未だ白くならないのに、喉の奥が乾く。
ホームの後ろの自販機の陰に隠れるようにして、八時三分を待つ。
隠れる、という言葉が正しかった。
私は誰にも見られたくない。見られたくないのに、見たい。
見たいのに、見られたくない。
その矛盾が私の身体のどこにも収まらなくて、肩だけが上がっていく。
八時三分。
工業街口駅へ滑り込む電車。
ブレーキの摩擦音。
ドアの予告音。
開く。
人が降りる。
人が乗る。
彼が居るはずの流れを私は目で切り取る。
切り取っても、彼は居ない。
二本目。三本目。四本目。
知らない音。知らない動き。知らない顔。
知っている彼だけが居ない。
電車は何本も来る。
人は何人も降りる。乗る。
駅員は『いつも』みたいな顔で立って居る。
自販機は『いつも』みたいな音で飲み物を落とす。
アナウンスは『いつも』みたいな声で遅延情報を読み上げる。
『いつも』を演じているなら、オスカー賞を贈りたい。
だから、もう『いつも』を演じなくて良いから……ゆうきさんに会わせてください。
私は時間を数えるのを止めた。
数えたら、私が何をしているかが確定してしまう。
確定した瞬間、私は自分を守れない。
守れないのに、待つ。
待つことでしかあの朝を取り戻せない気がする。
取り戻せるはず無いのに。
誰かが笑って、誰かが電話をして、誰かが走って、誰かが転びそうになって、また笑う。
世界は優しく忙しい。
冷静に、残酷だ。
私の事情と関係無く朝を回してしまう。
その日、私は大学を休んだ。
休む理由を説明出来ない。
説明出来ない理由で休むのは、自分に嘘を吐くみたいで苦しいのに……それでも休んだ。
大学を休んで、私は部屋に戻った。
部屋に居ても電車は走る。
講義は進む。
黒板には文字が増え、テスト範囲は広がっていく。
友達は昼ご飯の話をして、写真を撮って、午後の予定を決める。
私はそれに参加出来ない。
世界は私を置き去りにして回っている。
「電車の人が来ないから」と言ったら、笑われる。
笑われるのが怖いから言わない。
言わないから、私は益々独りになる。
名前を呼べないまま彼を失った気がして余計に追い掛けてしまう。
追い掛ければ追い掛けるほど、私は『電車の子』から降りられない。
降りたいのに。名前の場所へ行きたいのに。
世界は残酷に流れる。
流れる世界の端っこで、私だけが足を取られたまま動けなくなる。
五日目──。
スマホの画面で時計の数字だけが淡々と進む。
八時二分。八時三分。八時四分……。
あの朝の八時三分だけは、ずっと同じ場所に置き去りなのに、今の八時三分は容赦無く通り過ぎて行く。
動けないクセに、あの朝だけは未だ終わってほしくないと思ってしまう。




