生と死の天秤
「アートの借景」企画、参加作品。
星月夜 フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホの代表作のひとつ
作品と彼の人生から、想像しました。
彼の狂気と正気。具象と抽象。生と死を。
鉄格子を通り越して覗く、私の目が、心が、吸い寄せられるものがある。
黒々と天を衝く糸杉だ。
天と地を繋げるその美しさは、オベリスクに匹敵する。
天と地、生と死。それをあの美しき樹木が繋ぐのだ。
二階の寝室では油絵を描くことは出来ない。しかし私の手は、忙しく目から飛び込むものを形にしてゆく。
雄々しく伸びる糸杉。力強い生が死へと架け橋を繋ぐ。なんたる矛盾。なんたる自然。なんたる因果。なんたる幸せ。
もっと大きく、長く伸ばせ。もっと衝き上げるといい。
太陽がその光を届けるよりも前の村は、しんと静かに横たわっている。
輝く大きなモーニングスター以外には、何もない。
動く人影もない。声もない。心をざわつかせ、鍋の底を引っ掻くような不快な音もない。
ああ、友よ。私を高みに連れて行き、地に落とし、誰よりも私を拒み、熱く炙り、冷たい狂気へと誘う者よ。
君と君の作品は素晴らしい。だからこそ、不完全を赦すことが出来ない。どうにも見逃せはしないのだ。
どうかこの私の狭量を許して欲しい。私から距離を置いた君の判断は正しかった。ああ、ああ。そうだ。正しいとも。
左耳が熱を持つ。理性が凍る。
手は休むことなく炭をのせてゆく。
こうあるべきだという現実など関係ないとばかりに、途切れることなく蠢くこやつは、私とは別の生き物なのではないだろうかとも思う。いや、別の生き物なのは私の心か。
私という人間の殻の中へ、二つの生き物を飼っている。そうだ。そうなのだ。
しかしながら、私は二つの生き物を飼ってはいるが、飼い慣らすことは出来ていない。ままならぬものだ。
そびえる糸杉を濃く、さらに濃く。
渦巻く闇の動きに任せて荒く、荒く。空気の流れを塗り込めば、輝きを放つモーニングスターが、ギラギラと浮かび上がった。
窓の外に見える教会を描くべきだ。しかし手はまぶたの裏に焼き付いている教会を、山々の貫かんとする尖塔を描き出す。
心に流れる狂気と押し寄せる正気に揺らぐ、揺らぐ。ぐるぐると掻き回され、押し流され、また溜まる。
いつしか夜明けが、静かに支配権を譲ろうとしていた。
音が、戻ってきていた。
日の光が暗き心を押しやり、私を照らす。
四角い白壁の療養院に、本格的な朝が訪れた。
私はサン・ポール療養院の一階のスタジオで、昼間、スケッチ画を油絵に昇華させる。暗さを深め、明るさを置いて光を表現する。
私のもとを去る友へ向けた刃の矛先を、己の耳へと変えた後、私は切り取った耳を私の心を動かす女性への贈り物とし、自らこの病院へ入った。
ここはいい所だ。私のように何処かが壊れた同類たちの数は多くない。ぎゅうぎゅうと詰め込まれては息がつまるが、そういうことはなかった。
部屋に空きがあるからか、二階の寝室とは別に一階のスタジオを自由に使うことが出来た。
一心不乱にキャンバスへ向かう時、出来た作品を見てスタッフは私を賞賛する。大変ありがたく、誇らしく、そして心底どうでもいいことだ。
私が絵を描くのは、そういったものを欲しいからではないのだ。
ただ、胸に凝る荒々しい闇が私を突き動かす。
ただ、胸に灯る温かい光が私を宥める。
愛しいテオ。君へ向き合う時、私は安らぎを取り戻す。
幾つかの絵を描き終えた私は、穏やかな気持ちで手紙へと筆を走らせていく。弟は私とは違い、あの太陽に照らされた小麦畑のように栄光に満ちている。
彼へと絵を送らねば。彼の日溜まりの心へと、報いなければ。
手紙を書く私の目に、ふと入ったのは昼間に描き上げた、あの絵だ。
弟と向き合う時、私は穏やかさを取り戻す。だからこそ、暗く燃える炎のような、どろりと溜まり、恍惚と、怒りと、愉快さと、万能感と、優越感と、嫉妬と、悲しみと、愛しさと、憧れとに支配される夜は、さんさんと陽が降り注ぐ今、とてつもなくつまらないものと化した。
ギラギラと大きく主張する星が、チクチクと私を刺激する。
支離滅裂な不協和音の塊だ。取るに足らない駄作だ。郵便に料金をかける価値すらない。
私はさしたる興味も感慨もなく、この絵をそこらへと置いた。
日の光が弱まり、うねるような闇が窓の向こうへ広がる夜。その夜もまた、もうじき主役ではなくなる頃。
闇を退けんばかりに輝く金星。
あれは、あれが、示すは、象徴するは。
私は自分が少しいいと思える作品を、手紙と共に梱包し、宛名を記した。これが彼にとって何の助けにならぬことも承知している。ただ、子供のように喜ぶ弟の顔を思い、これを出すのだ。
窓から四角形の小麦畑が見える。誇らしく広がる小麦畑は、窓によって四角く切り取られ、壁の存在を私へ知らしめていた。
外へ出ることを私は特別に許されている。壁を越えることは容易い。スタッフに許可を取ればよいのだ。事実、時おり私はそうして絵を描くこともある。
だが今の私はそれをする気になれなかった。
明るい昼日中にあっても、今も尚、星空は私を縛り付けている。
私はまた星空を描くだろう。
宇宙は私を見ている。
死は、その魅力で私を捉える。
生は、勢いよく伸びて繋ぐ。
天秤が傾くのは……どちらだ?
本当の彼がどうであったかなど、当時の者たちも、現在の者たちも、近しかったテオも、本人ですら、分からないのかもしれない。
もちろん、私にも。
星月夜
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ
1889年6月、制作。
73.7cm×92.1cm。
ニューヨーク近代美術館が所蔵