第五話 たえ
石打丸は飛ぶようにして家に帰ると、鑿と鎚を手にした。
そうして一目散に、天神さまの山へと向かった。
石打丸の母親は、石打丸が、普段にも増してものすごい形相で現れたので、すっかり腰を抜かしてしまった。木こりの父親も、そのおそろしい勢いに、声を掛けることさえできなかった。
「石打丸に、魔神がとっ憑いた」
父親が、ふとつぶやいた。
石打丸は、まさに魔神のような勢いで山を目指した。
石打丸の、そのような素早い様子を、これまで見たことがなかった村人たちは、みな一様に目を見張った。
「あまりといえば、あまりの変わりようじゃ」
「あれは本当に、あのうつけの石打丸だろうか」
「まるで鬼神のようじゃ」
石打丸は、天神さまの山にたどり着くと、少しも休まずに、ばりばり山を登った。
ふもとのほこらを過ぎ、山の中腹にさしかかると、大きな大きな横穴が口を開けていた。石打丸は、迷わずその穴に入っていった。
まっくろい穴の奥の方に、黒くてキラキラと光る不思議な岩が無数にあった。
石打丸は、鑿と鎚を取り出すと、その黒い岩を切り出しはじめた。
がいんがいん、という音が、洞窟の中に響き渡った。
石打丸は、鑿を入れ続けた。
それはすごい勢いだった。
大きな黒耀石が、ごろんごろんと、無数に掘り出されてきた。
石打丸は、大きな岩をいくつもいくつも持って、山の頂上にやってきた。
そして頂上に着くと、そこいらじゅうに岩を並べた。
並べてしまうと、山の中腹に戻って、また岩を削り出し、頂上に運んだ。
石打丸は、熱に浮かされたように動き回っていた。彼の全身からは大粒の汗が絶えずあふれ出していた。石打丸の全身から放たれる熱気は、水蒸気となって空にたちのぼった。
夕暮れをすこし過ぎたほどの刻限であり、空には大きく孕んだ月が顔を覗かせていた。山の頂上には、樺や杉などの樹木がまばらに立ち、山懸巣の声が遠くに谺している。
石打丸は、千個の岩を、たちまち並べ終えると、一つを選び、その前に跪いた。そして懐から鑿と鎚を取りだし、静かに構えた。
黒耀石を前にし、鑿を構えた石打丸の様子には、いつもの、腑抜けたうつけ者の影など、微塵も感じられなかった。
石打丸は、まるで、獲物を狙う狼のように、しきりに体を震わせていた。
石打丸は、鑿を岩にあてがった。
鎚を大きく振り上げ、全身に力を込める。
そして、その一振りを、ゆっくりと打ち下ろした。
コオォォォォ………‥‥ン
澄んだ音が、山の頂を覆い尽くした。
コオォォォォ………‥‥ン
コオォォォォ………‥‥ン
音が、濃密な森の大気の中で、何億という微細な粒子となって、月に吸い込まれてゆくようであった。
無心に鎚を振り下ろす石打丸の背中からは、絶えず湯気がたち昇っていた。
石打丸は、ぎりぎりと歯をかみしめていた。
石打丸は、まるで、おのれの命を削り込んでゆくかのように、満身の力を込めて鎚を振り下ろした。
*
三日の間、たえは、孫兵衛の屋敷の、奥座敷に閉じ込められていた。
たえは、ともすれば気が狂いそうになるほどの胸の痛みを、じっと堪えていた。
たえは、畳に額をこすりつけていた。
たえは、石打丸のことを考えていた。
やめさせなければ。
何とかして、あの人を止めなければ。
石打丸、石打丸。
どうか彫るのをやめて。
どうかもうそれ以上は。
私には見える。
あの人の爪から血が流れているのが見える。
両腕は腫れ上がっている。
足はぶるぶる震えている。
両の目からは血の涙を流している。
このままでは。
石打丸、石打丸。
ああ、もうやめて。
どうか彫るのをやめて。
どうか、どうかもうそれ以上は。
「あの女を連れておいで」
沙都は下男に命じて、たえを外に出した。
たえは、縛られたまま、庄屋の屋敷の前に連れてこられた。
「今日は満月の日だ。わたしの石像が出来上がる日だよ」
沙都は、たえの髪の毛をつかみ、鼻先まで顔を近づけた。
「おまえたちは、わたしに恥をかかせた。だから、それだけのことはしてあげよう」
沙都は、真っ赤な唇を、すうっと笑みの形にした。
「やりなさい」
沙都が、下男を促すと、下男は刀を抜いた。
ざん
という音がして、たえの両腕が、肩口から斬り去られてしまった。
「――――ッ!」
たえは、あまりの痛みに、ものもいわず、その場に倒れ伏した。
「もうおまえに用はない。どこへなりと行きなさい」
沙都は、厳かにそう言い渡すと、ゆっくりと踵を返した。
たえは、両の肩からたくさんの血を流しながら、立ち上がった。
そして、天神さまの山へ向かって、歩きはじめた。
石打丸、石打丸。
どうかもう彫らないで。
あなた死んでしまうわ。
あなた死んでしまう。
駄目。
あなたは死んではいけない。
あなたが死んだら、私はどうすればいいの。
ああ、早く行かなくては。
早くしなければ、石打丸が死んでしまう。
月が昇る前に、
約束の、満月が昇ってしまう前に、
あの人のところへ行かなくては。




