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クロノスギア ーミネルヴァの箱庭  作者: 桜ジョー


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第8章

第8章


強欲な高利貸しシャイロックの執拗な追跡から命からがら逃れ、深手を負ったジャンを病院へ残して、ひとり荒野を彷徨い続けたアリスが辿り着いたのは、二つの深い峡谷に挟まれた断崖の要塞都市――ミネルヴァであった。


中世南フランス、ランドロック地方の険しい山間に築かれた、断崖の城塞都市。そこへ至る道は、決して容易なものではなかった。


深い森を抜け、岩だらけの山道を進む。細く曲がりくねった道の両側には、切り立った岩壁がそびえ、足を踏み外せば深い谷へと落ちてしまう。雨が降れば道はぬかるみ、風が吹けば峡谷から冷たい風が吹き上げてくる。


旅人にとって、ミネルヴァは容易に辿り着ける場所ではなかった。


だが――。その険しさこそが、この街を守っていた。深い峡谷。切り立った断崖。そして岩山の上に築かれた城塞。


外から容易に近づくことのできないミネルヴァは、長い年月の間、多くの人々にとって特別な場所となっていた。


故郷を追われた者。争いから逃れてきた者。信仰や思想の違いによって居場所を失った者。そして、ただ静かに生きる場所を求めて、遠い土地から旅をしてきた者。彼らが最後に辿り着く場所。それが、ミネルヴァだった。




アリスがこの地に逃れてくる半年前、鍛冶屋のバト親方は、己の技のすべてを叩き込んだ愛弟子レイの腕前を凝視し、無骨な手でその肩を強く叩いた。


「レイ。お前はもう一人前だ。今日から独立を認める」


折しも、要塞都市ミネルヴァの領主アルノー・ド・ミネルヴ卿より、街の防備を固めるための「腕利きの武具職人」を求める要請が届いていた。バト親方は惜しみない祝福とともに、レイをミネルヴァへと送り出したのだった。


ミネルヴァの地で、レイが若き天才鍛冶職人として鍛造する剣や槍、農具は、領主ミネルヴや街の人々から絶大な信頼を得ていた。


だが、ミネルヴァで暮らし始めてから、レイには一つだけ、奇妙な感覚があった。この街のどこかに、昔から知っているようなものがある。峡谷を抜ける風。石造りの家々。遠くから聞こえる子どもたちの声。


そして、時折市場を歩いていると、ふと金色の髪をした旅人の姿に目が留まることがあった。そのたびに、胸の奥がかすかに痛む。「……誰だったんだろう」レイは自分でも理由が分からないまま、そう呟く。


幼少の記憶は薄れかけていた。孤児院。古い石壁。冬の冷たい朝。そして――。自分の隣にいた、小さな女の子。名前は、確か……。思い出そうとすると、なぜか胸が締めつけられる。けれど、その名前だけがどうしても浮かばなかった。レイは首を振り、再び仕事へ戻った。


レイがミネルヴァへ来てからまだ半年も経っていなかったのに、彼の名は街の外へも知られるようになっていた。


「レイ!」


朝、工房の扉を開ければ、街の人々が笑顔で声をかけてくる。


「この間の農具、良かったよ!」


「畑仕事がずいぶん楽になった」


「鍬の具合が最高だ。ありがとう!」


レイは少し照れながら、「それならよかった」と笑う。


市場へ行けば顔なじみの店主が手を振り、パンを買えば、「今日は少しおまけだ」と笑ってくれる。


子どもたちは工房の前を走りながら、「レイ兄ちゃん!」と声をかける。


いつしかレイは、この街にすっかり溶け込んでいた。単なる鍛冶職人ではない。隣人であり、友人であり、街の一員だった。そして、ミネルヴァの人々もまた、レイにとって家族のような存在になっていった。


レイ自身も、この街を好きになっていた。断崖の向こうから吹き抜ける風。深い峡谷を流れる川の音。夕暮れになると赤く染まる岩肌。夜空を埋め尽くす無数の星。


それでも、ときどきレイは遠い昔を思い出した。孤児院で、いつも自分の後ろをついてきた小さな少女。声を出すことができなかった。

だから、何かを伝えたいときには、いつも瞳で訴えていた。笑うと、とても嬉しそうに目を細めた。泣くときでさえ、声を上げなかった。

そして――。金色の髪。青い瞳。


「……アリス?」その名を口にした瞬間、レイは自分でも驚いた。


そうだ。あの子の名前は、アリスだった。しかし、記憶の中の少女の姿は、年月とともに霞んでいる。今どこにいるのか。生きているのか。どこかで幸せに暮らしているのか。それすら、レイには分からなかった。


だからこそ、レイはその名前を心の奥へしまい込んだ。迎えに行くと言い残しながら、ミネルヴァの住民になったうしろめたさからーーもう二度と会えない人なのだと、自分に言い聞かせるようにした。


領主は、レイの仕事ぶりを高く評価していた。ある日、完成した剣を手に取った領主は、刃を光にかざした。「素晴らしい」


次に槍を手にする。「これも見事だ」


レイは静かに頭を下げる。


「ありがとうございます」


「お前が来てから、街の鍛冶仕事が変わった」領主はそう言って、レイをまっすぐ見つめた。


「ミネルヴァには、お前のような職人が必要だ」


領主は、レイに大きな鍛冶工房を与えた。さらに、その隣には一軒の家。家の裏には小さな庭まであった。レイは言葉を失った。自分の工房。自分の家。そして、自分の庭。孤児院で育った青年にとって、それは何ものにも代えがたい贈り物だった。


朝には炉に火を入れる。鉄を焼く。槌を振る。農具を作り、蹄鉄を打ち、剣や槍を鍛える。夕暮れになると、裏庭へ出て空を眺める。「……悪くないな」レイは、誰に言うでもなく呟いた。この場所でなら、ずっと生きていける。そう思えるようになっていた。


ある日。街道の向こうから、一人の旅人がミネルヴァへ向かって歩いていた。長い旅で疲れた身体。それでも、その足を止めることはなかった。深い森を抜ける。険しい山道を越える。幾つもの谷を渡る。そして、遠くに断崖の城塞が見えた。その人影は、しばらくの間、黙ってミネルヴァを見上げていた。


金色の髪が、峡谷から吹き上げる風に揺れる。青い瞳に、遠い記憶が映る。そこには、かつて幼い頃に離れ離れになった少年の姿があった。声には出せない。けれど、その胸の奥では、何度も同じ名前を呼んでいた。――レイ。そして彼女は、静かにミネルヴァへ足を踏み入れた。


彼女はまだ知らない。長い年月を隔てた二つの人生が、今まさに同じ場所で出会うことを。運命の歯車は、音もなく回り始めていた。


その日は、雲一つない青空が突き抜けるようだった。

いつものように、レイは工房で槍の穂先を仕上げていた。炉の炎が揺れる。金属が赤く輝く。槌を置き、額の汗を拭った。

そのとき――。工房の入口に、一人の女性が立っていた。

華奢な身体。上品に仕立てられた衣服。そして、陽の光を受けて輝く金色の髪。青い瞳は、深いサファイアのようだった。


レイは一瞬、手を止めた。


「……お嬢様、何か御用で?」


その女性は何も答えず、ただ涙を浮かべ微笑んでいた。


「こんなむさ苦しい鍛冶工房に。お嬢様、使いの者をよこしていただければーー」


レイはそう言って、再び完成した槍先へ視線を戻そうとした。


だが――。胸の奥で、何かが大きく鳴った。


金色の髪。サファイアブルーの瞳。そして、その女性が自分を見つめる眼差し。遠い昔の記憶が、一気に押し寄せてくる。小さな手。静かな瞳。声にならない笑顔。そして、自分の名前を呼んでいた少女。


(……まさか)


レイがゆっくりと振り返る。女性の瞳から、大粒の涙がこぼれた。声はない。彼女は、何も言わない。ただ、震える唇を動かしながら、レイを見つめている。その瞳だけが、すべてを語っていた。レイの胸の奥で、幼い日の記憶が一つにつながる。


「……アリスなのか?」


女性は答えない。けれど、何度も何度も首を縦に振った。涙が頬を伝う。


『レイ!』声にならない声が、アリスの心の中で響いていた。レイには、その声が聞こえたような気がした。


「……アリス……」


次の瞬間。アリスはレイの胸へ飛び込んだ。二人は、ただ黙って抱き合った。言葉など必要なかった。幼い日に別れた二人の時間が、長い年月を越えて、再び一つにつながった。まるで――。止まっていた運命の歯車が、今、静かに噛み合ったかのように。


こうして、1207年、運命のギアが噛み合うように、ミネルヴァの地でレイとアリスは運命の再会を果たした。


それぞれ残酷な試練を乗り越え、二人はこの断崖の街で静かに絆を結んだ。


慎ましくも暖かい祝言を挙げ、やがて二人には宝物のような娘――アリアが誕生する。


レイの打つ鉄の音、アリスの穏やかな微笑み、そして幼いアリアの可憐な声。


ミネルヴァの風の中で、二人は生きてきた中で最も穏やかで美しい時間をかみしめていた。


アリスとアリアとテーブルを囲み、アリスの得意料理ポタージュスープや、肉や魚の煮込み料理ブロエを堪能するレイ。


アリスの仕立てるシャツを、「鍛冶屋にはもったいない」と照れながら袖を通すレイ。


遊び盛りの娘アリアが「はやく、はやく」とレイを急き立てながら作業場を走り回る。


この何気ない日常こそが、レイの守りたい聖域だった。


だが――その平穏は、神の名を騙る狂信の嵐によって無惨に踏みにじられることとなる。



1210年6月初旬。


北フランスの騎士群を率いる十字軍総司令官シモン・ド・モンフォールの軍勢が、ミネルヴァを包囲した。


すでに前年(1209年7月)、隣街であるベジエにおいて「神は自らの民を知り給う」の狂号のもと、二万人におよぶ全住民の無差別虐殺が行われていた。その悪夢のような虐殺の報せはミネルヴァにも届き、街は死の恐怖と緊張に包まれた。


シモン・ド・モンフォールは、恐るべき兵器の投石機を断崖の周囲に数台設置させた。中でも『悪しき隣人』と名付けられた巨大投石機は、連日連夜、ミネルヴァの市街地と防壁に向けて凄まじい大石を打ち込み続けた。


――ドドォォォォンッ!!


轟音が響くたび、美しいミネルヴァの石造りの街並みが崩落し、悲鳴が空を覆う。


一方、この包囲戦の陣中で、別の対立が深まっていた。


十字軍司令官シモン・ド・モンフォールと、教皇代行司祭アルノー・アマルリックの確執である。


「教皇代行! 投石機による兵糧攻めと水路の破壊で、ミネルヴァは時間の問題だ。領主が降伏を打診してきている。改宗を受け入れる者は助命し、街を無駄に破壊せず接収するのが軍略というもの!」


実利と軍事指導者としての功名にこだわるシモン・ド・モンフォールは、苛立ちを隠さずに吐き捨てた。


対する教皇代行アルノー・アマルリックは、血も通わぬ冷酷な瞳でシモンを見下ろし、細く白い手を組み合わせた。


「甘いな、シモン卿。この街に巣食う異端どもに助命などという慈悲は不要。改宗などという言葉は、奴らの命乞いの企てに過ぎん。一人残らず火で清め、異端の芽を根絶やしにすることこそが、聖座の御心なのだ」


過激な処刑と殲滅を要求する聖職者と、武功と領地の保全を優先したい軍司令官。二人の間の不気味な軋轢は、ミネルヴァの住人たちに施される救いなき運命を、より残虐なものへと変えていった。



「レイ! 街の防壁が破られるのも時間の問題だ。大砲の弾丸と、門を補強するための鉄具が圧倒的に足りん! すぐに裏山へ向かい、鉄鉱石を掘り出してきてくれッ!」


領主からの緊急の命を受けたレイは、苦渋の決断を迫られた。


アリスは小さな娘アリアを愛おしそうに抱きしめながら、不安に揺れる瞳でレイを見つめた。アリアは何も知らず、レイの指を小さな手で握り返して無邪気に笑っている。


「すぐに戻る。アリス、アリアを頼む……! 鉄を揃えたら、絶対にこの街を護り抜いて見せるから!」


レイと街の仲間たちは背中に大きな籠とツルハシを背負い、夜陰に紛れて要塞都市の裏手にある峻険な岩山へと駆け登っていった。


岩肌を削り、爪を血に染めながら、レイは一心不乱に鉄鉱石を掘り起こした。


しかし――1210年7月22日。


7週間におよぶ苛烈な包囲と、唯一の水源であった井戸への道を巨大投石機によって徹底的に破壊されたミネルヴァは、ついに干上がった。水が尽き、城壁が破られたミネルヴァは、降伏を余儀なくされたのである。


教皇代行アルノー・アマルリックの命により、改宗を拒んだカタリ派の幹部や信徒たち140人以上が巨大な火刑台へと引き立てられ、炎の中へと投げ込まれていった。


黒煙がミネルヴァの空を覆う中、さらなる残党狩りが市街地で始まった。


市街地へとなだれ込んだ十字軍兵士たちは、逃げ惑う住民たちを片端から捕らえていた。


その中に、幼いアリアを胸に強く抱きしめ、物陰に潜んでいたアリスの姿があった。


「おい、そこの女! 止まれッ!」


甲冑の響きとともに、血に飢えた兵士たちがアリスを取り囲んだ。兵士の一人がアリスの腕を強引に掴み上げ、粗暴に引き立てる。


「おい……この女の身なりを見ろ。粗末だが、カタリ派の『完全者(パーフェクト)』ども特有の無欲な佇まいだぞ。それに、さっきから異端の指導者の居場所を聞いているのに、一言も喋ろうとせん!」


「なんだと? 聖座への改宗を誓う言葉を述べよ! さもなくば異端の首謀者とみなすぞ!」


兵士たちが剣の刃先を突きつけ、大声で詰問する。


アリスの瞳に恐怖が走った。必死に首を振り、アリアを庇いながら口を開こうとする。


「……っ、……っ!」


アリスの口からは、かすかな吐息の音しか漏れてこない。


幼き日、音を奪われた彼女は、どれほど叫び声を上げたくとも言葉を発することができない。


だが、教理の不問と異端の即決処刑を命じられていた兵士たちにとって、その「沈黙」は致命的な意味を持った。


「くそっ、黙秘を貫く気か! カタリ派の指導者層は『沈黙の誓い』を立てているという……! こいつ、言葉を拒んで神と十字軍を愚弄しているのだ!」


「生かしておくな! 隊長の元へ連れて行けッ!」


引きずり出されたアリスとアリアは、広場で指揮を執っていた凄悍な十字軍隊長の前へと放り投げられた。


「隊長! 異端の幹部と思われる女を捕らえました! 固く口を閉ざし、改宗の誓いを拒絶しております!」


十字軍隊長は冷徹な眼光でアリスを見下ろした


アリスは必死の思いで首を振り、涙を溢れさせながら、自分はカタリ派ではないと、娘を守りたいだけだと手振りで伝えようとした。幼いアリアもまた、母親の服を掴んで怯え泣いていた。


しかし、隊長の目には、その態度すら『教皇代行の裁きを拒む不遜なカタリ派の沈黙』としか映らなかった。


「改宗の言葉も述べず、裁きをあざ笑うかのように黙秘を貫くか。……神の敵に慈悲は不要だ」


「……っ! ――っっ!!」


アリスは声なき悲鳴を上げ、必死にアリアを己の身体で覆い隠した。


だが、隊長は一切の躊躇もなく、手にした長大で重厚な騎兵槍(ランス)を腰に構えた。


――ザクッッッ!!!!


冷酷な金属の穿孔音が、ミネルヴァの惨劇の空に響き渡った。


長槍の刃はアリスの背を貫き、彼女が命懸けで抱きかかえていた幼いアリアの胸までも、容赦なく貫通した。


「が……あ……っ」


アリスの口から溢れ出たのは、言葉ではなく、鮮血の泡だった。


「フン……異端の種子など、生かしておくだけ無駄だ。それにしても鍛冶屋から簒奪したこの槍の鋭さは実に見事だ。異端者どもにはもったいない」


隊長は冷淡な顔で槍を引き抜いた。ドサリと音を立てて石畳に倒れ込む二人。アリスのサファイアのような瞳から光が消え、アリアの小さな手が静かに力を失っていった。



裏山での必死の掘削を終え、重い鉄鉱石を担いで駆け戻ってきたレイが目にしたのは、その直後の光景であった。


「アリス……! アリア……っ!!」


レイは重い籠を投げ捨て、血と煙の臭いが充満する広場へと飛び込んだ。


そこでレイが見たのは、冷笑を浮かべながら血塗られた槍をぬぐう十字軍隊長と、物言わぬ骸となって横たわる愛する妻と娘の姿だった。


「う……あ……あああああああああああああああああああああああッ!!!!」


レイの叫びは、人間の発する声ではなかった。


家族を守るための鉄を探している間に、言葉を発せない妻の痛切な『声』に気づくこともできず、最も愛する者たちの命が、一本の冷たい鉄によって奪われたのだ。


世界の理が、音を立てて瓦解した。


「……許さない……」


レイの口から、地獄の底から響くような声が漏れた。


「許さない……許さない……許さない許さない許さない許さない許さないッッッ!!!!」


レイの瞳から、赤く血走った涙が吹き出た。


彼の背後で、魂の奥底に眠っていた【憤怒の歯車】が暴走を始めた。肉体を超越して溢れ出す、圧倒的な破壊の衝動。


レイの髪は逆立ち、全身の血管が浮き上がり、鍛冶屋として鍛え上げられた筋肉が狂気の圧力を帯びて膨張していく。


「なんだ、この男は……!? 殺せ! 異端の生き残りだッ!」


隊長の合図で躍りかかる兵士たち。


「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!!!!!」


レイは足元のツルハシを掴むや、光の速度で一閃させた。


――ガカァァァァァンッ!!


一撃。


襲いかかった兵士三人のがっちりとした板金鎧ごと、肉体と骨が爆砕した。血と内臓の雨がミネルヴァの石畳に飛び散る。


レイは正気を完全に失っていた。


そこにいるのは、心優しき鍛冶屋の青年ではない。言葉を奪われ、命を奪われた家族の無念を背負い、全存在を憎悪と殺意に変えた【血の鬼神】であった。


死体から奪い取った巨大な両手剣を振り回し、迫り来る兵士たちを次々と屠っていく。


返り血で全身を真っ赤に染め上げ、血の涙を流しながら、レイの虚ろな瞳はただ一人――妻と娘を刺し殺した十字軍隊長だけを射抜いていた。


「……お前だ……。お前の血を……一滴残らず……引きずり出してやる……ッ!!


狂乱のレイが踏み出した一歩ごとに、ミネルヴァの血の地表が激しく揺れた。


全身を返り血で真っ赤に染め上げたレイは、獣のごとき咆哮とともに十文字に両手剣を振りかぶり、十字軍隊長へ突進した。


その一撃は、鉄を穿ち岩を砕くほどの猛烈な破壊力を宿していた。だが――


――ガキィィィィィンッ!!


甲高い金属音が、ミネルヴァの惨劇の空に虚しく響き渡った。


隊長は一歩も引くことなく、腰を落とし、長大で重厚な騎兵槍(ランス)の柄で、レイの渾身の斬撃を軽々と受け止めていたのだった。


「身の程を知れ、鍛冶屋」


数々の戦場をくぐり抜けてきた百戦錬磨の従軍騎士である隊長にとって、憎悪だけに任せて振り回される素人の剣など、見切ることなど造作もないことだった。


「グっ……ぁぁぁぁッ!!」


レイはさらに牙を剥き、力任せに剣を押し込もうとする。


しかし、隊長の手首が一瞬だけ撓(たわ)んだかと思うと、滑らかな流体のごとき槍の捌きによって、レイの両手剣は容易く受け流された。


体勢を大きく崩したレイの無防備な腹部へ、隊長の甲冑に覆われた強烈な前蹴りが叩き込まれた。


――ドグッッッ!!


「ハッ……ガ……っ!?」


肺の空気をすべて吐き出し、レイの巨体が石畳の上を激しく転がった。


視界の端には、物言わぬ骸となったアリスと幼いアリアの姿が映っている。


「うああああああッ!!」


レイは血を吐きながらも立ち上がり、落ちた剣を拾おうと手を伸ばした。


しかし、その指が柄に触れるより早く――


――ズザッ!!


隊長の一突きが、レイの右肩を深く穿った。


「ガあぁぁぁぁぁぁっっ!!」


「憎悪で神の剣に敵うとでも思っていたのか? 愚か者め」


隊長は冷淡な瞳で見下ろしながら、槍を引き抜くことなく、そのままレイの右肩の肉を抉り、激しい脚力でレイの胸を踏みつけた。


――ゴキッ!!


肋骨が折れる鈍い音が響き、レイは石畳に縫い付けられた。


血の涙と吐血で顔面を汚し、指一本動かすことすらできず、ただ荒い呼吸と絶望の呻きを漏らすことしかできない。


側で待機していた兵士が一人、レイの首を跳ね飛ばそうと、血に塗れた長剣を高く振り上げた。


「待て!」


制止の声をかけたのは、隊長だった。


兵士は一瞬驚いたように刃を止め、振り返った。


「隊長? こいつも異端の残党です。ここで首を斬り落とさねば……」


隊長はゆっくりと首を振ると、槍を引いて鞘に納めた。そして、地面に這いつくばり、絶望と憎悪に身をよじるレイの無力な姿を、虫ケラを見るような冷酷な眼光で見下ろした。


「殺す必要はない。一瞬の死など、こ奴にとっては救いになりかねん。カタリ派の異端者は完全者に至るまで何度も転生するという」


隊長は冷酷な笑みをその唇に浮かべた。


「愛する妻と娘を失い、己の無力を噛み締めながら、血の海の中で永遠に這い回るがいい。絶望と悔恨の中で死を望みながらも生き続けること……それこそが、この男に与えられた永遠の地獄だ」


隊長は空を見上げた。ミネルヴァの街を覆う黒煙の向こうから、冷たい風が吹き抜けていく。


「神の御心のままに。我が剣は、悔い改めぬ者を火刑に処し、神を呪う者に生殺しの地獄を与えるためにある」


隊長はくるりと背を向けると、大股で歩き出した。


「撤収だ。ミネルヴァの異端はすべて清められた。撤退のラッパを吹け!」


「はっ!」


兵士たちは倒れ伏すレイを一蹴りすると、隊長の後に続いてゾロゾロと去っていった。


遠ざかっていく甲冑の靴音、そして戦勝を告げる冷たいラッパの音が、廃墟と化したミネルヴァに寂しく響き渡る。


やがて、誰もいなくなった。


冷たい風が、黒焦げになった建物の灰と、人間の肉が焼けた惨絶な臭いを運んでくるだけだった。


「……あ……っ……ぁ……」


石畳に倒れ伏したレイは、ぴくりとも動かない身体で、かすかに指先だけを動かした。


痛みの感覚すら麻痺していく中で、レイの視界に映っていたのは、目と鼻の先で冷たくなっているアリスの背中と、その腕の中に抱かれたまま動かない小柄なアリアの足だった。


自らの無力さ。


妻が声を発せないというただそれだけの理由で殺された理不尽さ。


守るための鉄を探しに行き、すべてを失った己への狂おしいほどの後悔。


「ア……リス……。アリ……ア……」


レイの瞳から溢れ出た血の涙が、石畳に広がるふたりの血と混ざり合っていく。


助けることもできず、敵を打つこともできず、死ぬことすら許されずに残された男。


ミネルヴァの夕闇が静かに降り降り、血塗られた街と、絶望の淵で絶叫し続けるレイの魂を、冷たく包み込んでいった。

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