第7章
油と煤の臭気が重く、息苦しく漂う無限の歯車世界。
天も地もなく、上下の感覚すら曖昧な漆黒の虚空には、無数の大小さまざまな歯車が静かに、そして冷酷に噛み合いながら回り続けていた。
そこは世界の理から切り離された精神と魂の領域。ここで受けた魂の亀裂は、存在そのものの消滅を意味していた。
「……ッ……はぁ……はぁ……」
フレッシュは、自らの身体ほどもある重厚な漆黒の大鎚の柄を指先が白くなるほど強く握りしめていた。
大鎚の表面からは、彼の荒い息遣いと魂の昂ぶりに同調するように、淡い蒼白色の燐光が明滅している。
そのすぐ背後で、ウールがフレッシュの背中にそっと身を寄せていた。
ウールは胸の前で、サファイア色の光を優しく放つ一本の古い羊皮紙を愛おしそうに抱きしめていた。
人々の哀しみや祈りを記録してきたその羊皮紙は、いまや世界の底から込み上げてくる異様な「圧力」に反応し、激しく脈動していた。
「フレッシュ……気をつけて。歯車の回転が、歪んでいく……」
「ああ……分かってる。ウール、絶対に俺の背中から離れるな」
フレッシュは鋭い眼光で、闇の深淵を見据えた。
――ガチャン。ズシン。ガチャン。ズシン。
地鳴りのような重低音が、遠く無限の彼方から響いてくる。
単体の歯車が発する摩擦音ではない。数千、数万という膨大な金属構造体が、狂いもなく緻密に組み合わさり、一つの地獄のような巨大機構となって押し寄せてくる音だった。
空気が軋み、周囲の無機質な歯車たちがその凄まじい威圧感に耐えかねて弾け飛ぶ。
闇の奥底から姿を現したのは、それ自体が一つの凶悪な要塞とも言える存在――『巨大複合連結歯車』であった。
巨大な十字架をかたどった中央の骨組みを中心に、何重にも重なり合う巨大外輪、鋸状の刃を備えた外周歯車、そして無限軌道のように回転する無数の副歯車群。
それらが、立ちふさがる者すべてを押し潰すためだけに設計された歪んだ狂気となって迫りくる。
「……ぐっ……!?」
フレッシュの皮膚が、突き刺さるような強烈な圧迫感に痺れた。
それは個人の欲深い悪意や憎悪といった泥臭い感情ではない。
「絶対の正義」を掲げ、他者の存在そのものを否定し、踏みにじることを無上の教義と信じ込まされた、正気を失った集団狂気の質量であった。
「胸が……痛い……ッ!」
ウールが悲痛な叫びをあげ、羊皮紙を胸に強く押し当てた。サファイアの光芒が激しく点滅する。
「フレッシュ……これはひとつやふたつの魂じゃないわ……! 何百、何千という存在の……悲鳴と無念が……あの鉄の塊の中に封じ込められている……!」
――ガァァァァァッ!!
巨大連結歯車が、前触れもなくその巨大な第一刃を振り下ろしてきた。
回転する副歯車の列が、まるで巨大な槍の群れとなって二人を粉砕せんと突進してくる。
「くっ……逃げ場が……!」
無重力の虚空において、逃げ場は限られていた。フレッシュが大鎚を構え、ウールを庇って前面に躍り出ようとした、まさにその時――
二人の左右の虚空から、強い光と火花を散らしながらふたつの歯車が飛び出してきた。
「――ッ!?」
ひとつは、眩い青い火花を散らしながら、極限まで回転速度を上げて突き進む『細工歯車』。その歯先は細かく、精巧で、幾重に細工を変形させながら可変する機構を持っていた。
もうひとつは、鍛冶場の炉の火のごとき灼熱の真紅を帯び、どっしりと肉厚で、如何なる衝撃をも受け止める『巨大重歯車』。その圧倒的な質量は、まるで動かぬ山のごとき威容を誇っていた。
――ガギギギギギギィィィィンッ!!
真紅の『巨大重歯車』が突進してくる突撃刃の真っ正面に割り込み、自らの身を削りながらその圧倒的な衝撃を受け止めた。
激しい摩擦熱によって、空間に真っ赤な鉄の火花が吹雪のように舞い散る。
続いて『細工歯車』が、驚異的な速度で空間を旋回し、衝撃で一瞬止まった敵の歯車の間隙へと滑り込んだ。
精密な細工が可変し、敵の内部機構に自らの歯を噛みまくらせて、その回転を力ずくで固定する。
この世界において、歯車は、ただその回転、その摩擦の音、そして命を燃やす火花のみで語る。
だが――その二つの歯車が見せた必死の身投げと噛み合いには、フレッシュにも、ウールにも、痛いほど伝わる「想い」があった。
(この歯車……ッ! 俺たちを知っている……? いや……俺たちを護るために、己を捨てて踏みとどまっているのか……!?)
フレッシュの胸の奥底で、熱く激しい感情が渦巻いた。
名前も、正体もまだ分からない。だが、自分たちのために手傷を負いながら突撃するその二つの歯車の背中に、フレッシュは魂の限界を超えた闘志を打ち燃やした。
「ウール! あの二つの歯車に合わせるぞ! 俺たちの全存在をかけて、あの怪物を打ち砕くッ!!」
「ええッ! フレッシュ、私から離れないで……ッ!」
魂の絆を結び直した二人は、押し寄せる鉄の嵐の中へと飛び込んでいった。
戦いは、最初から限界を超えた熾烈を極めていた。
巨大複合連結ギアは、自らの一角が固定されたことを察知するや、すぐさま内部の変型機構を作動させた。
――ガキリ。ズズズズズ……ッ!
巨大な十字型の外骨格が不気味な重音を立てて展開し、幾重にも重なる「第二層」「第三層」の鋸状歯車群が露わになる。それらは先ほどまでの比ではない超高速回転を始め、周囲の空間そのものを切り刻む刃の台風となって襲いかかってきた。
――バリバリバリバリッ!!
「グッ……ぁぁぁぁッ!!」
正面で敵の刃を受け止め続けている真紅の重歯車から、悲鳴のような金属の軋み音が轟いた。
敵の猛攻は苛烈を極めていた。超高速で回転する剣山歯車が重歯車の外輪を激しく削り取り、巨大な鉄の破片が幾つも幾つも虚空へと弾け飛んでいく。
肉厚だったその歯身は、見る間に傷つき、歪み、表面には痛々しい亀裂が幾筋も走り始めていた。
(崩壊する……! このままじゃ、あの重歯車が叩き潰されるッ!)
フレッシュは視界を研ぎ澄ませた――蒼い閃光!
死線の中で開花させた、世界の歯車の「未来の回転」を読み取る絶対感覚。
青く澄み渡る視界の中で、迫り来る何千の刃の軌道が、青い光の筋となって浮かび上がる。
「そこだぁぁぁッ!!」
フレッシュは大鎚を旋回させ、重歯車を削り取ろうとしていた副歯車の軸へ向けて、下段からの跳ね上げを叩き込んだ。
――ガギィィィィィンッ!
爆音と共に副歯車が砕け散り、重歯車への圧力が一瞬だけ緩む。
真紅の重歯車は、感謝を示すかのように一瞬だけ激しく火花を散らし、すぐさま次なる敵の巨刃を受け止めるべく、傷ついた体を滑らせてフレッシュの背後へと回り込んだ。
その背後は、完璧だった。
一切の隙もなくフレッシュの死角を塞ぎ、迫り来る余波のすべてを自らの鉄身で受け止めている。
「フレッシュ! 上から……巨大な圧砕歯車が来るわッ!!」
ウールの叫びと同時に、二人の頭上から城壁ほどもある巨大な歯車が、二人を押し潰そうと落下してきた。あまりの質量に、周囲の空間が歪み、逃げ場が塞がれる。
その時――
――シュゥゥゥゥンッ!!
青い火花を纏った細工歯車が、自らの回転限界を超えた超絶的な速度で跳躍した。
細工歯車は、落下してくる圧砕歯車とフレッシュたちの間に割って入ると、自らの細工を極限まで展開。精密に計算された「楔」の形に変形し、圧砕歯車の歯と歯の隙間に命懸けで突っ込んだ。
――ガチチチチチィィィンッ!!
「なっ……!?」
フレッシュは息を呑んだ。
細工歯車は、自らの歯を砕かれ、軸を歪ませながらも、その圧倒的な質量の落下をたった一機で食い止めていたのだ。
細工歯車から、焼き切れそうなほどの青い火花が噴き出す。
その火花の瞬きは、まるで「ウールには指一本触れさせない」という、狂おしいほどの愛おしさを叫んでいるかのようだった。
「ウールを護ろうとしているのか……!? お前は……ッ!」
フレッシュの問いかけに、細工歯車は答えない。ただ、限界を超えた負荷に悲痛な金属音を上げながら、必死に圧砕歯車の落ち込みを支え続けている。
「フレッシュ! 今よ! あの歯車が作ってくれた隙間を破ってッ!!」
ウールが羊皮紙を掲げ、細工歯車が支える圧砕ギアの軸心へ向けて、サファイア色の誘導光を放った。
「おおおぁぁぁぁぁッ!」
フレッシュは大鎚を両手で構え、渾身の力で踏み込んだ。
蒼白く輝く大鎚の頭が、細工歯車が命懸けで止めた軸心に直撃する。
――ドバァァァァァンッ!
圧砕歯車は耐えかねて内側から爆砕し、鉄の雨となって散っていった。
だが、安堵の時間は一秒すらなかった。
巨大複合連結歯車は、一画を破られるごとに、より激しく、より冷酷にその形態を変貌させていく。
連結歯車の側面から、無数の暗黒の鎖が蛇のように伸び、周囲の虚空を埋め尽くした。鎖の先には、鋭利な鉤爪を持った小型歯車が蠢いている。
「くそっ……キリがない! どれだけ破壊しても、後ろから新しい歯車が噛み合ってくる……!」
フレッシュの息が荒くなる。大鎚を振るう腕の筋肉が叫びを上げ、魂の摩耗が激しさを増していく。
そして、敵の本当の恐ろしさは、その物理的な攻撃だけではなかった。
――バリィィィンッ!
フレッシュが突進してきた鎖歯車の一つを叩き破った、その瞬間だった。
『……痛い……熱いよ……お母さん……っ!!』
「ッ!??!?」
破壊されたギアの破片が弾け飛ぶと同時に、フレッシュとウールの脳裏に、幼い少年の絶望に満ちた泣き叫ぶ声が直接響き渡った。
それは耳で聞く音ではない。魂の奥底に直接打ち込まれる、生々しい記憶のフラッシュバックだった。
「なに……今のは……!?」
フレッシュが狼狽した瞬間、背後で重歯車が敵の鎌状歯車を粉砕した。
――ガギィィィンッ! パリィィィンッ!
『神の名のもとに……となぜ言われるのだ……!? 私たちの静かな暮らしを、なぜ奪うのだ……!』
『愛する人よ……帰れなくてごめん……泥の中で、私を呼ぶ声が聞こえる……』
破砕の音と共に、今度は老いた民や、幼子を抱いた者たちの悲痛な叫びが空間に激しく響き渡った。
「あっ……あああっ……!」
ウールは胸をかきむしり、その場に崩れ落ちそうになった。羊皮紙がかつてないほど激しく明滅し、涙のような光の粒を撒き散らす。
「フレッシュ……聞こえる……! 歯車が……壊されるその瞬間に……そこに閉じ込められていた者たちの……本当の声が解き放たれるの……っ!」
(……やはりそうなのか。)
フレッシュは大鎚を構えたまま目を閉じた。
(これまで戦ってきた歯車たちは、二人にとって因縁があった。するといま対峙しているこの歯車は何なのだ!)
迫り来る巨大複合連結歯車。
その正体は、単なる冷酷な殺戮兵器ではなかった。
「絶対の正義」という狂信の言葉によって狂わされ、命を奪われた無数の者たちの悲鳴と無念が、強制的に噛み合わされて作られた悪夢の機構だったのだ。
彼らは奪われた後も救われることなく、巨大な戦争という名の歯車の一部として組み込まれ、意思を奪われ、他者を踏みにじるための道具として回転させられていた。
「そんな……こんなのが……これが正義だというのか……ッ!?」
フレッシュの全身が、激しい憤怒と悲しみで震えた。
壊さなければ、自分たちが殺される。
だが、壊せば壊すほど、そこに閉じ込められていた人々の無念の叫びが胸を刺す。
敵の複合連結歯車は、その躊躇を見逃さなかった。
――ズザザザザザザッ!!
核の周りを固める無数の鋸状ギアが、一斉に連動を開始。全方位からの無差別回転照射――死の旋風となって四人に襲いかかってきた。
『危ないッ!!』
重歯車と細工歯車が、瞬時に動いた。
真紅の重歯車がフレッシュの前に割り込み、青い細工歯車がウールの前に躍り出る。
――ガギギギギギギギギギギィィィィィンッ!!!!
「重歯車ッ!? 細工歯車ッ!?」
フレッシュの叫びも虚しく、二つの歯車は凄惨な集中攻撃を正面から浴びた。
無数の鋸刃が、重歯車の装甲を削り、破り、肉を削ぐように鉄身を解体していく。
重歯車からは真っ赤な火花どころか、魂の血とも言える朱色の光の粒子が噴き出していた。すでにその体躯の半分以上が亀裂で埋まり、いつ粉々に砕け散ってもおかしくない限界状態だった。
一方、ウールを庇った細工歯車もまた、酷惨を極めていた。
ウールへ飛来する巨大な剣山の刃を自らのボディで受け止めた細工歯車は、軸が完全に歪み、精巧だった可変ギミックの半分以上が焼き切れ、ボロボロと金属片を撒き散らしていた。
それでも――細工歯車は、ウールの前に立ち続けようと、壊れた軸を無理やり回転させて火花を散らし、身を挺して彼女を守り抜いている。
言葉はない。
だが、その崩壊寸前の姿は、言葉以上の絶唱となってフレッシュの魂を震わせた。
『諦めるな……! 立ち上がれ……!』
『ウールを……俺たちの宝物を……絶対に護り抜け……!』
声なき声が、削り飛ぶ火花の音となってフレッシュとウールの胸に飛び込んでくる。
「……ああ……あああああッ!!」
フレッシュの瞳から、激痛のような涙が溢れ出た。
「分かった……分かったよッ! 壊すんじゃない……! 俺の大鎚で……この悲しい鎖を、全部断ち切って解放してやるッ!!」
フレッシュは大鎚を天高く掲げた。
その瞬間、彼の背後に、この歯車世界を超越した真の輝き――蒼天のごとき澄み渡る光の輪が出現した。
「ウール! 羊皮紙の光で……あの怪物の核を照らしてくれ! 一番深く、一番悲しい場所をッ!!」
「ええ……ッ! 届いて……みんなの魂を解き放つ……真実の光よッ!!」
ウールが両手で掲げた羊皮紙から、サファイア色の聖なる光柱が放たれ、連綿と続く敵の鉄の回廊を突き抜け、最深部に鎮座する『巨大十字核』を真っ直ぐに照らし出した。
「行くぞ……ッ! 俺たちの全存在を……この一撃に懸けるッ!!」
フレッシュは足を踏み込んだ。
蒼い閃光!――視界からすべての無駄な情報が削ぎ落とされ、敵の巨大複合連結ギアを構成する「数千の歯車の噛み合わせ」が、一本の細い光の線となって結ばれていく。
だが、敵の核もまた、自らの破滅を察知して狂乱した。
核の周囲から、これまでを遥かに凌ぐ巨大な防壁歯車――【処刑の鉄環】が四重に展開し、迫り来るフレッシュを叩き潰さんと逆回転を開始する。
『させ……ない……ッ!!』
――ズガガガガガガッ!!
崩壊寸前だった真紅の重歯車が、最後の火炎を燃え上がらせた。
重歯車は自らの砕け散る寸前の巨体を、第一と第二の【処刑の鉄環】の間に強引にねじ込んだ。
バリバリと音を立てて身が削れ、半分以上の外輪が弾け飛ぶ。だが、重歯車は自らの存在を「楔」に変えて、第一・第二防壁の回転を完全に停止させた!
「……重歯車ッ!!」
「フレッシュ、前を見てッ!!」
ウールの叫び。第三、第四の防壁歯車が、フレッシュの左右から挟み潰そうと迫る。
そこへ跳躍したのは、軸が歪み、すでに全身の細工が崩壊しかけていた青い細工歯車だった。
細工歯車は、最後の変形を作動させ、自らの歯を一本残らず砕きながら、第三と第四の防壁ギアの「接合軸」へと飛び込んだ。
――ガギィィィィィィィィンッ!
細工歯車の全身から、白銀の光が放たれる。
自らの歯車としての生命を完全に投げ打ち、敵の防壁の回転を、たった一瞬――フレッシュが通り抜ける一瞬のためだけに、完全に固定してみせたのだ。
「みんなの……想いを……無駄にはしないぁぁぁぁぁぁッ!!」
ふたつの歯車が命を懸けて抉じ開けた無音の突撃路。
フレッシュはその真っ只中を、風となって駆け抜けた。
目の前に迫る、禍々しく巨大な『十字核』。
その透き通る内部には、何千もの苦悩する人々の影が、冷たい鉄の鎖で縛り付けられ、涙を流しながら回転させられている姿が見えた。
「もう……戦わなくていい……! もう……誰かを傷つけなくていいんだッ!!」
フレッシュは大鎚を限界まで引き絞った。
蒼き閃光、ウールの抱く羊皮紙のサファイアの光、自由のために身を削った重歯車と細工歯車が残した熱き火花の光が、大鎚の頭にひとつに収束していく。
「お前たちの還る場所は……こんな冷たい鉄の中じゃないッ!」
空中を跳躍するフレッシュ。
巨大歯車核の最深部、すべての惨劇の歯車を繋ぎ止めている唯一無二の「解体破砕点」へ向けて、全魂を込めた大鎚を叩きつけた。
「故郷へ……還れぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!!」
――ゴギィィィィィィィィィィィィィィンッ!!!!!!!!
時が止まり、音すらも消え去った完璧な白光の中。
大鎚が捉えた衝撃波は、巨大十字核の表面を駆け抜け、次いで連結する数千、数万の歯車へと波及していった。
――カチャン。パリィン。パリィン。パリィン……ッ!
何百年もの間、決して離れることのなかった狂気の噛み合わせが、一斉に解かれていく。
そして――その破砕の瞬間。
砕け散るすべての歯車から、閉じ込められていた数千、数万の「声」が、重なり合う美しい大合唱となって、歯車世界全体に響き渡った。
『……あ……温かい……』
『光だ……穏やかな、光の海だ……!』
『ありがとう……僕たちの声を聞いてくれて……!』
『もう……誰も殺さなくていいんだね……』
『帰ろう……約束の場所へ……』
弾け散る無数の鉄の破片。
だが、それらは漆黒の闇に落ちて消えるのではなかった。
破砕の音と共に、一つ一つの破片が柔らかく温かな「白銀の光の粒子」へと姿を変えていく。
解き放たれた者たちが、元の穏やかな姿を取り戻し、空へと浮かび上がっていく。
互いに抱き合い、感謝の涙を流しながら、清らかな光となって消えていく。
かつて誰かを殺すための残酷な兵器として縛り付けられていた無数のギアは、最後の破砕の瞬間に歓喜と感謝の言葉を残し、夜空を埋め尽くす満天の星々のような光の群れとなって、深淵へと穏やかに消えていった。
あれほど轟いていた狂気の行軍音は消え去り、あとには清らかな静寂と、痛みを癒す聖なる光の雨だけが降り注いでいた。
「……はぁ……はぁ……」
フレッシュは大鎚をゆっくりと床へ降ろし、膝をついた。全身の力が抜け、魂の限界を感じていたが、その表情は晴れやかだった。
背後からウールが駆け寄り、フレッシュの背中に優しく抱きついた。
「フレッシュ……やり遂げたのね……。みんな……みんな、還っていくわ……」
「ああ……ウール。お前が羊皮紙で光を照らしてくれたおかげだ……」
二人は微笑み合い、そっと手を重ね合わせた。
――だが、その時。
「……ッ!?」
二人の目の前で、これまで命懸けで彼らを護り抜き、身を挺して戦い抜いた「ふたつの歯車」が、カチリと音を立てた。
重歯車は完全に崩壊寸前であり、表面の亀裂から溢れ出す光とともに外輪が崩れ落ちていく。
アリスを身を挺して護り抜いた細工歯車もまた、攻撃を受け続けて歪み切った軸が静かに解け、美しい光の帯へと変わろうとしていた。
二つの歯車は、自らのすべてを使い果たし、崩壊の刻を迎えていたのだ。
「そんな……ッ! 待って……嫌よ、壊れないでっ!!」
ウールが悲痛な叫びをあげ、崩れゆく歯車へと手を伸ばした。
ふたつの歯車を包み込む光が極限まで高まり、完全に解体されていく――
その溢れ出る温かな光の中から、ゆっくりと、元の姿が形作られていった。
光が収まり、現れたその顔を見た瞬間――フレッシュとウールは息を呑んだ、
そこに立っていたのは――
威風堂々とした体躯、無骨だが誰よりも温かい眼差しを持つ男――。
そして――
不器用ながらもウールを密かに深く想い、これまで共に駆け抜けてくれた熱き男――。
「親方……ッ!!」
「ジャン……ッ!!」
フレッシュがバト親方の名を、ウールがジャンの名を感極まった叫びとなってあげた。
自分たちを庇ってボロボロになり、壊れていくその瞬間に明かされた真実。
言葉はなくとも、崩壊する間際に二つの歯車が見せたあの圧倒的な慈愛と覚悟は、二人の中に生き続ける絶対の絆そのものだった。
ジャンは照れくさそうに優しく微笑み、ウールへ向けて満足そうに深く頷いた。その眼差しは『護ることができてよかった』と無言で語っていた。
バト親方は無言のまま、力強くフレッシュの肩を叩いた。その手の温もりが、フレッシュの全身に熱く伝わってくる。
ふたりの身体が、いよいよ透明な白銀の光の粒子となって、穏やかに解け始めていく。
この歯車世界での命を使い果たし、二人の姿は光の雨の中へと溶け込んでいく。
「ありがとう……ッ! 親方……!!」
「ジャン……ッ! 忘れないわ……絶対に……! あなたたちが護ってくれたこの命で……私たちは生き抜くわッ!」
フレッシュとウールの叫びに見送られながら、バト親方とジャンの二人は穏やかな笑顔を残し、夜空を埋め尽くす光の群れの中へと昇っていった。
ふたりが消えた場所に、溢れんばかりの聖なる光の雨が降り注ぐ。
ウールは涙をぬぐい、胸の前で羊皮紙を強く抱きしめた。
「どんなに世界が狂っても……どんなに酷い試練が待っていても……私たちの『愛』や『祈り』は、絶対に冷たい歯車になんてならないわ」
「ああ……分かってる。親方やジャンが命懸けで護ってくれたんだ……。どれほど激しい嵐が来ようと、俺が絶対に……お前を、お前の居場所を護り抜く」
フレッシュはウールの身を強く、強く抱きしめた。
救済された数千の魂、そして二人の大切な仲間が残していった銀金の光の粒子が、二人を包み込むように優しく揺れていた




