第5章
さきほどまで猛威を振るっていた歯車が銀色の光となって爆ぜると同時に、空間全体が不気味に変化した。
歯車世界の重圧が、フレッシュとウールの全身を押し潰さんばかりに襲いかかる。
――ギギ……ギギギ……ッ!
空間を揺るがすのは、重く、硬く、研ぎ澄まされた鉄と鉄が噛み合う不穏な鳴動。
現れたのは、磨き抜かれた漆黒の鋼を誇る巨大な可変歯車。
歯筋が斜めに刻まれたその斜歯車は、滑らかでありながら狂暴な回転速度を誇り、一切の隙も生じさせない完全無欠の噛み合わせを展開していた。
表面には幾重もの焼き入れが施され、冷たく研ぎ澄まされた鋼の光沢が威圧的な殺気を放っている。
――ギィィィィィンッ!!
漆黒の斜歯車が空間を断ち切り、一直線に襲いかかってきた。
斜めに刻まれた歯先が空気を切り裂き、高速旋回しながらフレッシュへと迫る。
「く……ッ! なんて速さだ……ッ!?」
フレッシュは大鎚を構え、必死にその攻撃をかわす。
だが、歯車の攻撃には、寸分の狂いもなかった。
一撃目をかわした直後に生じるわずかな隙へ、二撃目、三撃目が正確無比な角度と理想的な旋回速度で叩き込まれる。一切の無駄を削ぎ落とした、完璧すぎる軌道。
(なんだ……この無駄のない動きは……!? 僕の動きの先を完全に読んでいる……!?)
いなし、かわし、受け止める中で、フレッシュの手に伝わる鉄の振動。
『キン』と高く響き、『カン』と重く沈む―叩きつける瞬間の、独特な間の掛け方。
フレッシュの心臓が、ドクンと嫌な跳ね方をした。
(この打ち筋……この完璧な間合い……知っている。俺は……この音を、この調子を……知っているッ!)
夜の工房。灯籠の明かりの下で、血の滲むような修行を重ねたあの手。
「手に伝わる振動で鉄の密度のムラを感じ取るんだ」と、自分の手に手を重ねて教えてくれた、あたたかな兄弟子の背中。
(嘘だ……嘘だ……っ!?)
交戦を深めるほどに、確信は残酷な真実となってフレッシュの胸を貫いた。
この隙のない、完璧で、研ぎ澄まされすぎたがゆえに冷たく狂おしくなった漆黒の歯車。
それは、かつて誰よりも深く尊敬し、そして破滅へと向かってしまった兄弟子の魂の姿だったのだ。
「……兄さん……っ!?」
フレッシュの声が震える。
その名に反応するように、漆黒のヘリカルギアは一層激しい回転を上げ、狂おしい金属音を鳴らした。
そこから溢れ出しているのは、誰よりも完璧な鉄を打ち続けながらも弟弟子に追い抜かれた絶望と、歪んだ劣等感。そして、それでも職人であり続けようとした悲痛な叫びだった。
「やめてくれ……! 兄さんッ!! 兄さんと戦うなんて……そんなの、できるわけがないッ!!」
フレッシュは大鎚を下ろし、拒絶するように叫んだ。
自分に鉄のすべてを叩き込んでくれた命の恩人であり、兄と仰いだ男。そんな人物を打ち砕くことなど、レイの魂が拒絶していた。
だが、漆黒のヘリカルギアは容赦なく、フレッシュの命を、そして背後にいるウールを巻き込もうと凶悪な歯先を向け、一直線に旋回を加速させる。
「フレッシュ……っ!!」
背後でウールが悲鳴を上げる。
彼女が胸に抱いた羊皮紙が、強い蒼い光を放ち、ヘリカルギアの内部――焼き入れの熱で歪み、黒く硬化しきった「ひとつの摩擦面」を照らし出した。
(僕が引き下がれば、アリスが……ウールが殺される……ッ!!)
アリスを守る。その誓いと、兄弟子への情。
二つの想いに引き裂かれそうになりながら、フレッシュは涙で視界を濡らし、歯を喰い破らんばかりに噛み締めた。
「……すまない、兄さん……ッ! アリスを守るために……僕は……っ!!」
フレッシュの脳裏に、蒼い閃光が炸裂する。
時間が凍りつく。
迫り来る黒鋼の刃、旋回する斜歯の動き、極小の歪み。
フレッシュは兄弟子に教わった基礎のすべてを血肉とし、それを遥かに超える領域―「鉄の声」を聞く一閃へと意識を収束させた。
彼が自分に授けてくれた完璧な間合い。
そのさらに先にある「隙間」へ、フレッシュは大鎚を滑り込ませる。
――ガキィィィィンッ!!
完璧を超えた一撃が、歯車の核心を完璧に捉えた。
兄弟子の技を完全に理解し、その上を行くからこそ届いた、残酷で美しい超絶の解体。
衝撃が内部へと伝播し、漆黒の焼き入れ鋼の表面に蜘蛛の巣のような白い亀裂が広がっていく。
「……あ……ああ……」
回転が止まった歯車の奥から、フレッシュの耳に幻聴のように兄弟子の穏やかな声が届いた。
『―見事。俺の教えた技を……お前はここまで昇華させたんだな』
嫉妬も、劣等感も、狂気も―すべてが打ち砕かれた解体の瞬間に霧散していく。
残ったのは、自分が手塩にかけて育てた弟弟子が、自分を超えて最高の一閃を放ったという、職人としての誇りと溢れるような満足感だった。
―バキンッ!!
漆黒のヘリカルギアが、弾け飛んだ。
散らばった黒鉄の破片は、凶器となることなく、夜空に溶け込む温かな銀白の星屑となって解き放たれていく。
命の灯が消えていく兄弟子の魂の温もりを感じながら、フレッシュは涙をぬぐい、握りしめた大鎚を低く下ろした。
「ありがとう……兄さん……」
だが、切ない余韻に浸る隙を、この世界は許さなかった。




