第4章
翌朝、レイを縛り付けていた柱の縄がほどかれた。
――怒りに任せてやみくもに立ち向かってもかなわない。だが、方法はある。
レイは、不当に扱われ、作品を奪われようと、アリスを守るための僅かなパンや薪を手に入れるため、黙々とガラクタから美を生み出し続けた。修道女の懐を肥やして、アリスへの虐待を防ぐ術として。
月明かりだけが差し込む孤児院の片隅。レイが拾った真鍮の針金を叩いて作った小さな指輪を、アリスの細い指にはめてやる時間が、二人にとっての救いだった。
アリスは涙を拭い、嬉しそうにサファイアの瞳を輝かせると、大事な羊皮紙の上にその指輪を重ねて愛おしそうに見つめた。
言葉はなくても、二人の魂は誰よりも強く、深く結ばれていた。互いを唯一の生きていく理由として……。
レイが拾われてから十二年の歳月が流れた頃、運命の転機が訪れる。
工房の火に身を焦がし、煤で汚れた大きな男――鍛冶屋の親方、バドが孤児院を訪れたのだ。
バドはレイがガラクタから作った巧みな鉄の装飾品を一目見るなり、その鋭い眼光を光らせた。
「……ほう。道具もねぇのに、鉄の噛み合わせを完全に理解してやがる。おい、小僧。俺の弟子になれ。冷たい鉄を熱く打ち鍛える技を教えてやる」
引き取られることが決まった瞬間、レイはすさかずバドのゴツゴツした腕にしがみついた。
「親方お願いです! この子も……アリスも一緒に連れて行ってください! 僕は何でもします、二人分の仕事をしますから……ッ! お願いです、アリスを一人にしないでくださいッ!」
レイは石畳に頭を叩きつけるようにして必死で懇願した。アリスもまた、引き裂かれる恐怖にサファイア色の瞳を大きく見開き、泣きじゃくりながらレイの服の裾を両手で強く握りしめていた。
バドは眉間に深いシワを寄せ、アリスとレイを交互に見つめた。一瞬、男の頑固な瞳に深い逡巡の色が走る。だが、バドは重く首を振った。
「……ダメだ。俺の工房は灼熱と重い鎚が飛ぶ戦場だ。言葉も話せねぇ小さな娘を置いておける場所じゃねぇ。二人を食わせる余裕も俺にはねぇんだ。
お前は一日も早く一人前の鍛冶職人になれ。そしてその娘を迎えに来てやれ。」
バドの手によって、レイの体が引き剥がされていく。
「アリス――っ! アリス―――ッ!! 待っていてくれ!」
「……っ、…………っ!!」
声にならない悲鳴を上げ、涙でぐしゃぐしゃになった顔で手を伸ばすアリス。
レイは差し出された彼女の小さな手を掴もうと必死に腕を伸ばしたが、指先がかすかに触れ合っただけで、非情にも引き離された。
視界が涙で歪む中、絶望に濡れたサファイアの瞳が、雨の向こうへと消えていった。
レイがいなくなって三年後、孤児院に残されたアリスの元に、ひとつの奇跡が訪れる。
シテ島近くで老舗の洋服屋を営む紳士ベルトランと、その妻マドレーヌだった。
子宝に恵まれなかった心優しい夫妻は、可憐でありながら言葉を持たず、冷遇に耐え続けるアリスの佇まいに深い愛おしさを感じ、彼女を養女として正式に家に引き取ったのだ。
言葉を話せないアリスを、夫妻は実の娘以上に慈しんだ。
上質な生地に囲まれ、温かいスープと柔らかいベッド、そして何よりあふれんばかりの愛情に包まれて、アリスは洋服屋の箱入り娘として、生まれて初めての幸福な日々を歩み始める。
その胸には、レイから貰った小さな真鍮の指輪と、羊皮紙を大切に抱きしめたまま。
離れ離れになった二人の歯車。
けれど、パリの街の片隅で鍛冶屋の徒弟となったレイと、洋服屋の愛娘となったアリスの糸は、途切れることなく再び巡り合う刻をじっと待っていた。
✝️
パリの街で「強欲の悪魔」と恐れられる豪商シャイロック――その冷酷な胸の奥底には、決して癒えることのない泥と血の記憶が刻まれていた。
かつてのシャイロックは、決して金の亡者などではなかった。
若き日の彼は、シテ島の小さな両替商で働く、誰よりも誠実で几帳面な青年だった。貧しい生まれではあったが、持ち前の頭脳と誠実さでコツコツと信頼を積み重ね、いつか自分の店を持つことを夢見ていた。
そして何より彼には、己の命よりも大切に想う女性がいた。幼馴染であり、辛い下積み時代を共に支え合ってきた美しき婚約者・マリアだった。
「あなたが作る小さなお店で、一緒に質素に暮らせれば、それだけで私は幸せよ」
そう言って微笑む彼女の言葉を、若いシャイロックは心の底から信じていた。彼女のために汗を流し、自分の食事を削ってまで買い求めた一粒の真鍮の指輪。それこそが彼の世界のすべてであり、愛という目に見えぬ絆を疑う余地など微塵もなかった。
だが――運命は、あまりにも残酷な形で彼の心を叩き潰す。
シャイロックが数年かけて貯め込み、ようやく自分の店を開く直前だった。
信頼していた共同経営者の親友と、命より大切だったはずの婚約者マリアが密かに通じ合い、シャイロックの全財産と権利書を偽造して持ち逃げしたのだ。
それだけではなかった。彼らは己の罪を隠すため、シャイロックに横領の偽りの罪を着せ、執拗な罠に嵌めた。
冷たい雨が降り頻る夜。無一文になり、役人に追われ、着の身着のままで泥の中に叩きつけられたシャイロックの前に、かつての愛する人――豪奢なドレスを纏ったマリアが姿を現した。
「なぜだ……マリア……! なぜ僕を裏切ったッ!? 二人で一緒に……幸せになる約束じゃなかったのか……ッ!?」
泥にまみれ、血を吐く思いで縋り付くシャイロックの手を、マリアは心底汚らわしいものを見るような冷ややかな目で蹴り飛ばした。
「約束? ふふ……愚かね、シャイロック。愛や誠実なんて目に見えない言葉で、お腹が膨れるとでも思っていたの? 泥水すすって集めたあなたのちっぽけな銀貨より、あの方が一瞬で手に入れる金貨の山の方が、ずっと美しいわ」
彼女が浮かべた蔑みの嘲笑。それが、シャイロックの胸の中で「人間としての魂」が完全に死に絶えた瞬間だった。
愛も、信頼も、心という目に見えぬ温もりも――すべては脆く、都合よく人を裏切り、惨めに叩き潰すための「嘘」でしかなかったのだ。
追っ手から逃れ、ネズミの這い回る地下道で凍え震えながら、シャイロックは己の血で染まった指先で石畳を爪が割れるまで掻き抱いた。
「嘘だ……すべて嘘だッ! 人間も、愛も、心も……何もかもが僕を裏切るッ! 裏切らないのは……目に見える『重み』だけだ! 誰にも奪えない『金貨』と『圧倒的な支配』だけだッ!!」
その夜、純粋だった青年は死に、強欲の亡者シャイロックが誕生した。
それからの彼の生き様は、正気を疑うほどに冷酷で凄惨を極めた。
心を一切の情から切り離し、他人を陥れ、高利で貧者を締め上げ、倒産した店から容赦なくすべてを毟り取った。かつて自分を裏切った親友とマリアを破滅させ、路頭に迷わせた時も、その瞳には一切の感動も感慨も浮かばなかった。
彼の周囲には無数の金貨、眩いルビー、真珠、ダイヤモンドが山と積まれた。
けれど、どれほど黄金を抱きしめても、彼の胸の底に空いた巨大な「虚無の穴」が埋まることはなかった。金貨が触れ合う冷たい音だけが、彼の死んだ心を辛うじて繋ぎ止める唯一の気休めだったのだ。
そんな「金と所有」しか信じられなくなったシャイロックの前に現れたのが、洋服屋の娘アリスだった。
金髪をなびかせ、サファイア色の瞳を持つ、清楚な女性。
誰もが彼女の美しさを称える中で、シャイロックが彼女に狂おしいほどの執着を抱いた理由は、ただ一つだった。
言葉を持たない彼女は――『自分を言葉で裏切ることができない』
「あの娘は言葉を喋らん。嘘を吐くことも、裏切りの言葉を口にすることもない……! 金で買い叩き、豪奢な鳥籠に閉じ込めれば、あれは一生、裏切らない完璧な所有物になるッ!」
アリスへの執着の裏にあったのは、恋などという甘いものではない。
裏切られる恐怖に怯え続ける、醜く哀れな男が求める「決して自分を裏切らない完璧なコレクション」への渇望だった。
――シャイロックの狂気。
それは、かつて泥の中で愛に裏切られ、魂を惨殺された哀しき男が、金の鎖で世界を縛り付けようとする悲しい絶叫そのものだった。
幾度とないシャイロックの脅迫が去った後も、洋服屋『ベルトラン』を覆う重苦しい空気は晴れなかった。
「あの男の眼は本気だ……。金のためなら、人の命すら平気で虫ケラのように踏みつぶす」
店主のベルトランが苦汁をなめる思いで呟くと、作業場の隅で黙々と生地を裁断していた若い服飾職人、ジャンがハサミを置いた。
ジャンは幼い頃からこの店で働き、可憐なアリスを誰よりも近くで見守ってきた青年だった。
言葉を持たぬアリスのかすかな表情の変化や、指先の仕草ひとつで彼女の感情を汲み取ることができる、実の兄のように温かい存在だった。
そして何より――ジャンはアリスに、胸が張り裂けるほどの密やかな想いを寄せていた。
「親方、アリスさんをあんな悪魔の手に渡しては絶対にいけません。僕が……僕が何を起こしてでも、この店とアリスさんを護ります」
アリスは心配そうにサファイア色の瞳を揺らし、ジャンの袖をそっと引っ張った。
首を横に振り、「無理はしないで」と目で訴えるアリスに、ジャンは切なく、けれど頼もしく微笑んで見せた。
だが、悪夢は唐突に訪れる。
数日後の雨の夜。店じまいを終えた洋服屋の裏口で、激しい足音と怒号が響いた。
様子を見に出たジャンの前に立ちはだかったのは、濡れた黒傘を差し、数人の荒くれ者を従えたシャイロックだった。
「どうだ。考え直す気になったか? この娘の身代金として、お前の一生分でも稼げぬ額の金貨を用意してやる」
シャイロックが提示した羊皮紙の契約書を、ジャンは奪い取るや否や、その目の前で真っ二つに引き裂いた。
「ふざけるなッ! アリスさんは……お前の金で買えるような『物』じゃない! お前の狂気にアリスさんを巻き込むなッ!!」
ジャンの怒号が雨音を切り裂く。
だが、シャイロックの瞳に宿っていたのは、激怒ではなく――冷酷な「失望」だった。
「……物の価値も解らぬ愚か者が。愛や絆などという薄汚い言葉で、その娘を縛りつけているのはお前たちの方だ」
シャイロックが静かに手を挙げて合図を送る。
次の瞬間、連れの男たちが抱えていた油の壺を、洋服屋の木造の壁や上質な生地の山へと容赦なく浴びせかけた。
「な……なにをするッ! 止めろッ!!」
「裏切られる前に奪い、従わぬなら灰にする。……それが、この世界の絶対の理だ」
シャイロックが灯籠の火を油の海へ投げ落とす。
――ゴォォォッ!!
一瞬にして爆発的な炎が巻き上がった。
仕立て途中の美しいドレス、ベルトラン夫妻が大切に手入れしてきた思い出の店が、紅蓮の炎に呑み込まれていく。
「アリスッ! 親方! おかみさんッ!!」
煙が充満する店内で、ジャンは決死の覚悟で奥へ飛び込んだ。
炎の恐怖にすくむアリスを抱きかかえ、崩れ落ちる梁の隙間を命からがら駆け抜け、店の正面から外へ出た。
ジャンはアリスの無事を確かめ再び店の中へ。煙に巻かれたベルトランとマドレーヌの手を引いたが、燃え盛る天井が二人の頭上に落ちてくる。
「ジャン、行け。アリスを、アリスを……。」
ベルトランの悲痛な叫び。ジャンは踵を返して火柱の隙間を縫って外へ転がり出た。全身に火傷を負って。
ジャンはアリスの手を取って何処へ向かうとなく走りだす。
店の裏から狂人の声が響いた。
「ははははッ! 燃えよ、すべて灰になれ! 誰の手にも渡さぬッ!!」
夜空を赤く染める激しい業火と、雨の中で嘲笑うシャイロックの残酷な影。
ようやく手に入れたアリスの「温かい居場所」は、強欲の炎によって残酷にも破砕されたのだった。
着の身着のままで街を逃れ出た二人は、暗い馬車の中に身を潜めていた。
「すまない、アリス……。あの店を……お前の家を護ってやれなくて……」
煤で顔を汚したジャンが、悔し涙をこぼしながら拳を握りしめる。
アリスは静かに首を振り、涙で濡れたジャンの手を優しく包み込んだ。そして胸元から、奇跡的に炎から護り抜いた「真鍮の指輪」と「羊皮紙」を確かめるように抱きしめた。
この地はもはや、シャイロックの手先が横行する危険な街と化していた。
ジャンとアリスは、シャイロックの魔の手が届かないとされる、遥か遠くの街を目指して逃避行の旅につくことを決意する。
馬車の車輪が、悲しげに泥を噛みながら進む。
だが――移動する彼らの頭上には、まるで運命を暗示するかのように、重く禍々しい暗雲が低く垂れこめていた。




