第10章
冷たい夕闇がミネルヴァの石畳を黒く染め上げていた。
炎上した街の黒煙は少しずつ夜空へと溶け込み、そこには血の臭いと、残された肉体が腐敗していく惨劇の残香だけが漂っていた。
「……あ……っ……ぁ……」
己が創った槍に右肩を穿たれ、胸骨を砕かれたレイは、指一本動かすこともできず血の海の中に横たわっていた。
目と鼻の先には、背を槍で貫かれたアリスと、その胸に抱かれたまま動かない娘アリアの骸がある。
アリスのサファイアのような瞳は開かれたまま、すでに光を失い、夜空の冷たい星々を虚ろに映していた。
(俺が……俺が鉄なんて掘りに行かなければ……)
(お前が声を出せないと……あいつらに叫んで伝えることができていれば……!)
後悔と狂おしいほどの憎悪が、レイの胸を内側から焼き千切る。
だが、どれほど血の涙を流して絶叫しようとも、失われた命は二度と戻らない。
死ぬことすら許されず、永遠の地獄を生きよと打ち捨てられた己の無力が、何よりも惨めにレイの心を苛んでいた。
その時――。
――カコン……カコン……。
惨惨たる死の静寂を破り、軽やかな靴音が廃墟の広場に響き渡った。
生き残った十字軍の兵士ではない。足音には鎧の重さも、殺戮の気配も一切含まれていなかった。
レイの霞む視界の中に、一人の人物がゆっくりと歩み寄ってくる。
彼は、燃えさかる灰と血泥で汚れた地面の上にいながら、まるでどこかの美しい庭園でも歩いているかのように洗練された佇まいをしていた。
漂う白銀の髪、透き通るような白皙の肌。そして何よりも特徴的なのは、世界すべての理を悟りきったかのような、深く、哀しく、それでいて静謐な「蒼」と「金」のオッドアイ――。
レイの前に静かに佇むと、膝を折り、血の海に倒れ伏すレイを見下ろした。その瞳には嘲笑も哀れみもなく、ただ圧倒的な運命の重みだけが宿っていた。
「……惨いものだな、人間というものは。神の名を騙り、己の理屈で他者の愛を踏みにじる」
その声は、透き通る鈴の音のようにレイの鼓膜に届いた。
「……誰……だ……お前……は……」
レイは吐血しながら、かすれた声で呟いた。
メサイアは返事をせず、ゆっくりと手を伸ばすと、冷たくなったアリスとアリアの頬に優しく触れた。
「彼女は声を発せなかった。ただそれだけの理由で、カタリ派の指導者と誤解され、我が子とともに槍の贄となった。……理不尽だとは思わないか?」
理不尽と不条理の極み。
「……俺を、殺してくれ、お願いだ……」
レイの喉から、血混じりの叫びが溢れ出た。
彼は静かにレイの瞳を射抜いた。
「やり直したいか?」
「……何……だと……?」
「やり直したいか、と問いているのだ。この惨絶な運命を。この奪われた命を。すべてが始まる前の刻へと戻り、お前の手で別の結末を掴み取りたいか?」
オッドアイが、妖しく輝いた。
「だが、奇跡には相応の代償が必要だ。過去へと遡り、運命を書き換えるための代償……それは、お前の『記憶』だ」
「記憶……?」
「そうだ。お前がアリスと過ごした愛しい日々も、アリアの産声を聞いた歓喜も、このミネルヴァで味わった激痛と憎悪の記憶も……すべてを失う。お前という存在を構成する『過去』を差し出さねば、時間の歯車を逆回転させることはできない」
彼の言葉に、レイの心臓が激しく跳ね跳んだ。
記憶を失う――それは、アリスと出逢った奇跡も、愛し合った日々も、自分の中から消え去ることを意味していた。
しかし、レイには迷いなど一片もなかった。
「……アリスと……アリアが……蘇るのなら……ッ!!」
レイは力を振り絞り、血に染まった右手で彼の裾を強く掴み取った。
「記憶だけじゃない……! 俺のこの命も、何もかも差し出すッ!! だから……ふたりを……ふたりを救ってくれぇ」
レイの血の叫びを聞き、哀しくも温かい微笑をその唇に浮かべた。
「……良い答えだ、鍛冶屋の青年よ。己の存在すべてを破滅させてでも、愛する者を救おうとする……その魂の輝きこそが、歪んだ世界の歯車を動かす力となる」
静かに立ち上がると、天に向けてその細く美しい手をかざした。
「――契約は成った」
その言葉が発せられた瞬間、天地が逆転した。
ミネルヴァの夜空から星々が消え去り、そこには無数の煌めく【光の粒】が立ち上っていった。
――ガチリ……ガチリ……カチ……カチ……。
世界中の音が消え、ただ時間の歯車が逆回転を始める重厚な駆動音だけが全宇宙に轟いた。
ミネルヴァの街の煙が逆流し、血の海が収束し、倒れた兵士たちの時間が巻き戻っていく。
彼の身体が、まばゆい白銀の光の粒となって解け始めた。彼は光の粒子となって消えゆく間際、倒れ伏すレイへ向けて、静かに言葉を残した。
「……お前の新たな物語が始まる。記憶を失おうとも、魂の底に刻まれた愛の絆は消えはしない。……さあ、行け。お前のやり方で、やり直すがいい」
(……俺のやり方でやり直す……)
無数の光の粒がミネルヴァのすべてを包み込んだ。
アリスの身体が、アリアの身体が、そしてレイの身体が、ひとつひとつの無数の繊細な光の粒へと分解されていく。
過去も、現在も、未来も、すべてが光の巡りの中に溶け込んでいった――。




