第11章
羊皮紙が指し示す絶対の光芒に導かれ、フレッシュとウールは歯車世界の最深部――終着地点へと足を踏み入れた。
そこは、これまでの鉄の荒野とは一線を画す異界であった。
天地を覆いつくす幾千、幾万の歯車群が、ただ一つの巨大な巨大中心機構へと集中し、地鳴りのような重低音を響かせながら回転している。
世界中のすべての回転、すべての摩擦、すべての時間を統括する「世界の心臓部」。
その巨大な機構の中央、激しく巻き上げられ、脈動する【主発条】の渦のただ中に――ひとりの少女が囚われていた。
巨大な鉄の螺旋に全身を縛られ、無機質な世界の動力を一人で供給させられている存在。
「あっ……あ……っ……」
ウールが息を呑み、胸の羊皮紙を落とした。
フレッシュの全身から血の気が引き、手にしてきた大鎚が虚しく床へと転がり落ちる。
そこにいたのは――亡くなったはずの二人の愛娘、アリアであった。
「ア……リア……!?」
フレッシュの唇が、震えながらその名を呼んだ。記憶を失っていたはずなのに、その幼き少女の姿を目にした瞬間、魂の最奥が激しく軋みを上げた。
世界のすべての歯車を動かす原動力。それは、残酷にも惨劇で命を奪われた幼い少女の魂そのものであったのだ。
「凄惨な光景だろう? 鍛冶屋の青年よ」
静寂を破り、光の粒子とともに降り立った。
漂う白銀の髪、静謐なる「蒼」と「金」のオッドアイ。
ミネルヴァの血の海で契約を交わした謎の存在――であった。
悲しげな眼差しでフレッシュを見つめ、静かにその口を開いた。
「なぜ、このような惨い世界が存在するのか……疑問に思ったことはないか? なぜ名もなき者たちが歯車へと変えられ、愛娘が世界の犠牲として巻き上げられているのか」
「……お前か……! お前がアリアをこんな目に……! 答えるんだッ!!」
フレッシュが激昂し、詰め寄ろうとした。
しかし、次の一言が、フレッシュの時を完全に止めた。
「――この世界を作ったのは君じゃないか、レイ……『ミネルヴァの箱庭』を」
「……え……?」
「フレッシュ」ではない。現世の真の刻印――『レイ』。
「言ったはずだ。『自分の手でやり直す』と。だから私は君の願い通り、君の意志と無意識の心象風景を投影してこの世界を再構築した。レイ、君が望んだ『やり直し』の果てを、その目に焼き付けるがいい」
メサイアがその細い指をフレッシュの額へ触れさせた。
――ガカァァァァァンッ!!!!
脳裏で、世界の崩壊音が轟いた。
封印されていた「記憶」の濁流が、一気にレイの魂へと逆流した。
アリスと出逢った愛おしい日常。
娘アリアが生まれた瞬間の歓喜。
裏山へ鉄を掘りに行った後悔。
アリスがアリアとともに長槍で串刺しにされた惨状。
血の涙を流しながら叫んだ契約。
――そして記憶にはない残酷な過去。
その影は、フレッシュもウールさえ知らない事実を嘲笑混じりに囁いた。
「たまたま偶然一筋の光明が雲間から差し込んだ先に君がいた。
だから、レイと名付けられた。敬虔深いシスターの気まぐれだよ。
でもね、君の母は君を守るため、異端審問官に見つからないよう、墓場に置いて、追撃を巻いた後に取り戻すつもりだったんだよ。
肝心なところで異端審問官に捕まったんだ。
――惜しかったね」
「アリス。君の一族は千年もの間、何処の誰かが身勝手に聖遺物と呼んだあの羊皮紙を大切に守り抜いてきた。
アリス、君の両親は狂信者どもに追われていたんだ。
何もわからない無垢な君を羊皮紙の守護者に据えて、残酷にも喉を潰して、永遠にそのありかと謎を封じたのさ」
すべての記憶と過去が、鮮明な激痛となって二人を貫いた。
フレッシュは頭を抱えて石畳に倒れ伏し、狂乱の叫びを上げた。
記憶を取り戻したフレッシュの前に突きつけられたのは、あまりにも残酷な真実であった。
愛する妻と娘を救うため、自らの力で運命を書き換えようとした。
だが、彼の胸底にあった「過酷な運命への恐怖」と「世界への激しい憎悪」が、この無機質で冷酷な【歯車世界】そのものを生み出してしまったのだ。
そして、命を救ったはずのアリアは、レイ自身の望んだ「やり直しの世界」を維持するための犠牲――歯車世界の動力として、さらなる地獄に繋ぎ止められていた。
「俺が……俺がこの地獄を作ったというのか……! アリスを……アリアを救おうとして……俺が二人を……!!」
己の犯した罪の重さに、レイは声もなく血の涙を流して崩れ落ちた。
冷徹なオッドアイが打ちひしがれるレイを見下ろした。
「代償として差し出された『記憶』を、君はすべて取り戻したね」
彼の手から、白銀の冷酷な光が立ち上る。契約の不履行。それは存在の完全なる消滅を意味していた。
しかし、記憶を取り戻したレイの瞳には、もはや迷いも、死への恐怖も一切存在しなかった。
レイは血の出るほど唇を噛み締め、メサイアの前で力強く両膝をついた。
「……ああ、契約は破られた。だが……契約は守る!!」
レイは胸に手を当て、自らの魂を凝視しながら叫んだ。
「俺の魂を差し出す……! 俺の存在のすべて、命の最後の一滴までお前に引き渡す! だから……! 代わりに妻アリスを……そして娘アリアを……生きている元の姿で蘇らせてくれ!」
自らの命と引き換えに二人を救う。それこそが、狂った世界を生み出してしまった自分にできる、唯一にして最後の贖罪であった。
アリス(ウール)が涙を流しながらレイ(フレッシュ)に抱きつき、必死に首を振る。だが、レイは優しく彼女の手を握り返し、微笑んで首を横に振った。
二人を静かに見つめるオッドアイは、長く、深い沈黙を守った。
やがて、彼は無言のまま歩み出した。
レイとアリスの脇を通り抜け、巨大な【主発条】の真下へ立つ。
沈黙を守ったまま手を伸ばし、世界の動力として囚われている少女アリアの身体へ、そっと触れた。
――カチリ。
世界中の歯車の回転が一瞬、完全に停止した。
その指先から柔らかな温かな光が溢れ出し、アリアの全身を縛り付けていた冷たい鉄の螺旋が、淡い雪のように解けて消えていく。
螺旋から解き放たれた少女の姿が、光の中で変化していく。無機質な動機の依代から、かつてミネルヴァの陽だまりの中で無邪気に笑っていた、幼く愛くるしい少女の姿へ――。
「……う……ん……」
アリアが静かにその可憐な瞳を開いた。
「アリア……ッ!!」
「ママ……? パパ……!?」
正気を取り戻したアリアは、涙をポロポロとこぼしながら、広げられたレイとアリスの腕の中へと一直線に駆け寄った。
「アリア! アリア……っ! 良かった……あぁ、良かった……っ!!」
アリスは娘を強く抱きしめ、声にならない歓喜の泣き叫びをあげた。レイもまた、二人を押し包むように強く、強く抱きしめた。失われた温もりが、三人の中に確かに戻ってきたのだ。
その奇跡のような愛の光景を静かに見つめていたメサイアの唇から、小さな呟きが漏れた。
「……自己犠牲か」
オッドアイに、かすかな、だが絶対の慈愛の光が宿る。
「己のすべてを投げ打ち、愛する者のために命を差し出すか。……ならば、我も続こう」
両手を天へと掲げた。
――ゴゴゴゴゴゴゴゴッ!!
足元の空間が激しく亀裂を起こし、そこから黒檀と白銀で彩られた巨大な【十字架】が突如として隆起した。
自らその十字架へと背を預け、腕を広げた。目に見えぬ聖なる鎖が彼の四肢を縛り付け、自らを磔刑の姿へと捧げる。
次の瞬間、天の虚空が裂け、光の裂け目から一本の伝説の槍――【ロンギヌスの槍】が威風堂々と降臨した。
――ガキィィィィィンッ!!
神聖なる穿孔音とともに、ロンギヌスの槍が天から滑落し、磔となった彼の核を深く貫いた。
「グ……ッ……」
口から、苦悶ではなく、祝福の吐息が漏れた。
貫かれた胸の傷口から、血ではなく、黄金に輝く清廉なる【聖油】が滔々と溢れ出し始めた。
聖油は途絶えることなく噴き出し、天に噴水のように舞い上がると、歯車世界全体を覆う恵みの雨となって降り注ぎ始めた。
――ポタ……ポタポタポタ……ッ!!
聖油が触れた瞬間、狂乱し、人を殺めてきた冷たい鉄の歯車たちが、激しい火花とともに溶け始めていく。
数千、数万の傷ついた魂たちが、聖油の光に包まれて冷たい歯車から解放され、温かな人間の光の粒子となって空へと昇天していく。
「世界よ……解き放たれよ。愛ゆえに狂い、愛ゆえに救われた魂たちよ……元の正しき刻へ還るのだ」
聖なる声が、崩壊していくミネルヴァの箱庭全体に響き渡る。
無数の歯車がガラガラと崩れ落ち、虚空が眩い白銀と黄金の光で満たされていく中、消えゆく眼光が、冷酷な現実をレイへと告げた。
「……レイ、最後によく聞くがいい。現世へと戻り、肉体を持つことができるのは……君一人だけだ。アリスとアリアの肉体は、すでにミネルヴァの地で滅びている。……魂だけならば、君のもとへ戻してやろう」
「な……んだと……!?」
レイの息が止まった。
肉体を持たぬ魂だけの存在。それは、現世において生きている二人と触れ合い、声を聞き、ともに年を重ねる日常は二度と戻らないことを意味していた。
レイだけが肉体を持って生きていく。
あまりにも残酷な選択に、レイは激しい葛藤と苦痛に胸を締め付けられた。
だが――アリスの温かな手、そしてアリアの可憐な瞳を見つめた時、レイの迷いは完全に消え去った。
「……俺はどうなってもいい。二人と一緒なら……魂だけでも、共にいられるのなら……!」
レイは強く二人を引き寄せ、一点の悔いもない瞳で十字架を見上げた。
レイの覚悟を聞き、崩れゆく光の中で静かに目を細めた。
「……ならば、その願いを叶えよう。過ぎ去った時は遡ることはない。しかし……巻き戻すことができるよう……」
――カチリ……ガシィン。
その言葉とともに、天から降り注ぐ聖油の雨が眩い白光へと変わった。
レイの肉体が解けていく。アリスとアリアの魂と優しく共鳴し合う。
そして、この歯車世界でかつて二人を助け、崩壊していったバト親方の魂もまた、導かれるようにその光の輪の中へと包み込まれていった。
レイ、アリス、アリア、そしてバト親方――。
四つの魂が互いに深く噛み合い、結ばれながら、新たな存在の形へと静かに姿を変えていった。
ミネルヴァの箱庭の終焉、そして新たな始まりの時。
無数の光の粒となった彼らは、静かに時の彼方へと旅立った――。




