「おはよう」が言えた。たったそれだけなのに
「先に挨拶された場合の対策を提案します」
翌朝。
朝食を食べながら、アルゴの説明を聞いていた。
「対策って?」
「返事をするだけです」
「それが難しいんだよ」
「では、練習しましょう」
アルゴは昨日と同じように言った。
「はるとくん、おはよう」
「お、おはよう」
「完璧です」
「いや、家だから言えるんだって」
「家でできることは、外でもできます」
「その理論で人生うまくいくなら苦労しないよ」
「反論はデータを提示してからお願いします」
ひどい。
でも、昨日よりは気持ちが軽かった。
昨日は逃げた。今日は、返事だけでもしてみよう。
そう決めて、家を出た。
「おはようございます。おはようございます……」
よし、完璧だ。
ずっと挨拶の練習を続けながら歩いた。
気づけば、コンビニ前に着いていた。
昨日と同じ時間。昨日と同じ場所。
そして――。
「あ、はるとくん、おはよー」
早坂さんの声が聞こえた。
今日も挨拶をしてくれた。しかも、昨日と同じ笑顔で。
よかった。怒ってなかった。
……そうだ。安心している場合じゃない。返事をしないと。
心臓がドキドキする。返事するだけだ。
よし。
「お、おはようござ、います!」
言えた。言えたけど――盛大に噛んだ。
しかも声が裏返った。絶対、変だった。
顔が熱い。たぶん真っ赤だ。
「おはよー」
「おはようございます」
悠木さんと桜井さんも返してくれた。
とりあえず、立ち去ろう。
「ふふっ」
「かわいいー」
小さな笑い声が聞こえた気がした。
気がしただけかもしれない。でも。たぶん聞こえた。
「うわあああああ!」
僕は走った。
昨日ほどではない。でも、かなり速かった。
逃げた。また逃げた。
【放課後】
「なるほど」
アルゴは報告を聞き終える。
「挨拶をすることはできたのですね」
「うん。でも、噛んだし、声も裏返っちゃったよ」
「しかし、挨拶を返すことはできました」
「うん。そうなんだけど……」
「昨日より進歩しています」
「そうかな」
「そうです」
「でも、笑われた」
「どのような言葉ですか?」
「『かわいいー』って」
数秒の沈黙。
「肯定的な表現です」
「え?」
「一般的に『かわいい』は好意的な評価です」
「いやいやいや」
僕は首を振る。
「絶対、バカにされたんだって」
「根拠はありますか?」
「……ない」
「では、推測ですね」
「うっ」
「事実として確認できるのは、三人とも挨拶を返したことだけです」
確かにそうだ。
「はるとさんは、自分に厳しすぎます」
「そうかな」
「はい」
アルゴは続ける。
「本日の目標は達成です」
「目標?」
「挨拶への返答ができました」
「うん、まあ……」
すると、アルゴが言った。
「では、次の目標です」
「もう?」
「はい」
「なんですか?」
「自分から挨拶することです」
「うっ」
急に難易度が上がった。
「大丈夫です」
「根拠は?」
「昨日できなかったことが、今日はできました」
「まあ……」
「つまり、成長しています」
「えっ。そうなの?」
「はい。確実に成長しています」
アルゴは自信満々に答えた。
本当に成長しているのだろうか? 全く実感がない。
でもまあ。アルゴが言っているのだからきっと大丈夫だろう。
うん。そう思うことにしよう。
なんだか少しだけ、少しだけだけど自信がわいてきた気がする。
【翌朝】
鏡を見る。相変わらず冴えない顔。
でも少し慣れてきた。
制服、よし。
髪、よし。
爪、よし。
身だしなみ確認、完了。
「今日はミッション実行日です」
「分かってるよ」
「先手必勝です」
「緊張するなぁ」
「緊張は正常な反応です」
「便利な言葉だな」
「失敗しても死にません」
「そこが基準なの?」
「はい」
まあ。確かに死にはしない。
そう思って、家を出た。
* * *
コンビニ前。
いた。早坂さんたちだ。
今日は後ろから見つけた。
よし。後ろからさりげなく追い抜いて、挨拶してみよう。
今ならいける。今なら。
言える。たぶん。
いや。知らない。
でも。言うしかない。
「お、おはようございます!」
言えた。ちゃんと言えた。
少し声は震えたけど。ちゃんと言えた……と思う。
三人が僕を見る。
一瞬だけ、時間が止まったように感じた。
やっぱり変だったんだ。
よし、逃げちゃおう。
そう思ったとき――。
「おはよー!」
早坂さんが笑顔で返してくれた。
「おはよー」
「おはよう、はるとくん」
悠木さんも桜井さんも、昨日と同じように返してくれた。
普通に。本当に普通に。何事もなかったみたいに。
それだけだった。それだけなのに。
なんだろう。すごく嬉しかった。
【放課後】
「やりました」
アルゴが言った。
「ミッションクリアです」
「うん」
「今回は完全成功ですね」
「そうなのかな」
「はい」
アルゴは断言する。
「はるとさんから先に挨拶を行いました」
「うん」
「相手からも自然な返答がありました」
「うん」
「良好な結果です」
少し照れくさい。でも。悪い気分じゃない。
「これで早坂美月との距離も、少し縮まりました」
「本当に?」
「ゼロよりは確実に縮まっています」
「その言い方だと、全然縮まってない気がする」
「事実を述べました」
「夢を見させてくれよ」
「では、夢込みで表現します」
アルゴは少しだけ間を置いた。
「早坂美月との関係構築進捗率が、〇・三パーセント上昇しました」
「低っ!」
「しかし、前進です」
「まあ……そうか」
僕は少し笑った。
「でも、また後ろでクスクスという笑い声が聞こえた気がするんですけど」
「大丈夫ですよ」
アルゴは淡々と答えた。
「毎日続けることで、相手もあなたからの挨拶を自然に感じるようになります」
「そうかな」
「明日からも続けましょう」
「うん」
不思議だった。
数日前なら、絶対に無理だと思っていた。
挨拶するだけのことなのに。
今は少しだけ。本当に少しだけ。続けられる気がしていた。
「しばらく、やってみるよ」
「はい」
アルゴの短い返事が返ってきた。
それだけだった。
でも。
なぜか、その声が少しだけ頼もしく聞こえた。




