「おはよう」が言えなくて逃げました
「おはようございます、はるとさん。起床を確認しました」
「うぅ……」
目をこすりながら、ベッドから起き上がる。
今日は決戦の日だ。たかが挨拶だけど。
「顔色が優れません」
「緊張して全然寝られなかったんだ……」
「それはよくありませんね。睡眠不足は判断力や集中力を低下させます」
「そんなこと、わかってるけど……」
「昨夜、相談していただければ睡眠用音楽を提案できました」
「それ、昨日言ってほしかったな」
「今、言っています」
「遅いんだよ」
「本日は帰宅後に相談してください」
「うん。そうするよ……」
ベッドから降りる。
「まず、顔を洗ってください」
「はいはい」
「髪も整えてください」
「はいはい」
「制服の状態も確認してください」
「お母さんなの?」
「違います」
「ですよね」
「清潔感を保つことは大切です」
アルゴの声は妙に真面目だった。
「髪の毛、爪、制服など、身だしなみは第一印象に影響します」
「はい……気をつけるよ」
身だしなみか。
爪は伸びてないな。制服は……少し汚れているかな。
ブラシでもかけてみるか。少しはましになったかな。
あとは、髪型か。鏡を見るのは苦手なんだよね。自分の顔が好きになれないから。
「どうですか?」
「相変わらず冴えない顔だなぁ……」
鏡には、見慣れた自分が映っている。
特別かっこよくもない。目立つわけでもない。クラス写真に写っていても、探すのが大変なタイプだ。
「自己評価が低すぎます」
「事実だよ」
「主観です」
「いや、事実」
「論争は後にしましょう」
アルゴは容赦なく話を切った。
まあ、いいか。髪の毛だけでも整えておこうかな。
「髪は整いました。先ほどより三十二パーセント改善しています」
「そう? っていうか、その数字どこから出たの?」
「企業秘密です」
絶対、適当だな。でも、少しだけましになった気はする。
「行ってきます」
「ミッション成功を祈っています」
「プレッシャーかけないでよね」
【コンビニ前】
午前八時十五分。
アルゴが予測したポイントだ。
この先の道で、早坂さんたちに会えるはずなんだけど……。
まだ、早坂さんは通ってないみたいだな。
よし。このまま先に行って、今日は会えなかったってことにしよう。
会えなかったなら仕方ない。
うん。仕方なかったんだ。自然現象みたいなものだ。
よし、行こう。
「あ、はるとくん!」
聞き覚えのある声。早坂さんだ。
悠木さん、桜井さんも一緒だ。
どうしよう。
いや、どうしようじゃない。挨拶しなきゃ。
「……」
「おはよー!」
早坂さんが笑顔で手を振ってくれている。
かわいい。目も合っちゃった。完全に合った。
「…………」
言葉が出てこない。
『おはよう』たった四文字。
たった四文字なのに、口が動かない。
「はるとくん?」
早坂さんが首を傾げる。
やっぱりかわいい。……じゃない。そうじゃない。
何か言え。言え。よし、言おう。
「っ!」
言えない。
気づいたら、走っていた。
学校へ向かって。全力で。
僕は走りながら思った。
やばい。やってしまった。かなりやってしまった。
早坂さん、挨拶してくれたよな。してくれた。してくれたのに。
僕は?
返事してない。そして逃げた。
うん。終わった。人生終わった。
【放課後】
帰宅してすぐ、ベッドへ倒れ込んだ。
「終わった……」
「何がですか?」
アルゴの声が聞こえる。
「人生」
「終わっていません」
「終わったよ!」
「状況説明を要求します」
僕は朝の出来事を全部話した。
「なるほど。挨拶に返事できなかったのですね」
アルゴは冷静な声で言った。
「もうダメだ。死にたい」
「こんなことで死んではいけません」
「きっと変な奴だと思われてるよ」
「大丈夫です。想定通りです」
「どこがだよ!?」
思わずベッドから飛び起きた。
「挨拶すらできなかったのに!?」
「昨日の時点での目標は、存在を認識してもらうことでした」
「うん。そうだったっけかな」
「早坂美月は『はるとくん』と呼びました」
「うん。それがどうかしたの?」
「名前を呼ばれています」
「……うん。まあ、名前を呼ばれた気がする」
「つまり、存在は認識されています。目標クリアです」
「えっ? クリアしたの?」
「はい」
アルゴが宣言する。
「本日の収穫を整理します」
「……はい」
「早坂美月の登校時間がわかりました」
「うん」
「悠木葵、桜井千夏と三人で登校していることがわかりました」
「うん」
「存在を認識されていることがわかりました」
「うん」
「さらに、早坂美月から嫌悪感を持たれている可能性が低いと推測できます」
「えっ? そうなの?」
「はい。先に声をかけられたということは、少なくとも現時点では強い嫌悪感を持たれていないと考えられます」
「そうなのかな……」
「はい」
でも、そんな気もしてきた。
早坂さんから挨拶してくれるなんて。一応、僕の存在を認識してくれていたんだ。
しかも、名前も覚えていてくれた。空気みたいな存在じゃなかったんだ。挨拶もしてくれた。
……あれ?
それなのに、僕は何も言わずに逃げた。これって、まずくないか。
やっぱり。大変なことをしたんじゃないだろうか。
「早坂さんに嫌われたかもしれない」
「嫌われていない可能性もあります」
「それはそうだけど……」
「明日、もう一度挨拶をすれば分かります」
「嫌われていたらどうしたらいい?」
「問題が発生した場合は、原因を特定し、改善案を提示します」
そんなこと、言ってたな。
「問題が発生しているかどうかが分からなければ、対策もできません」
アルゴは断言した。
「大切なのは、行動することです」
「また行動か」
「昨日までのはるとさんは、データがゼロでした」
「そこまで言わなくても……」
「今日はデータを取得できました」
「うん。まあ、少しはわかったこともあるけど」
「明日も新たな発見があります」
そう言われたら、そんな気もしてきた。
少しは前に進んだ。
そう信じることにした。




