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やさしい嘘のほどき方 こもれび喫茶と小さな謎  作者: 翠川しおり
児童書の謎

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9/22

第二章 児童書の謎(五)

 金曜日の図書館は、木曜日よりも少しだけ人の気配が多かった。

 

 週末の前だからだろうか。返却カウンターの前には数人の列ができ、児童書コーナーでは、小さな子どもが母親の袖を引きながら、恐竜の背中が描かれた本を抱えていた。

 

 けれど、そのにぎやかさは、図書館の空気の中ではすぐに丸くなる。声は棚に吸われ、足音は床に沈む。笑い声も、ここでは小さな紙片のように軽くなって、本のあいだへ挟まっていく。

 

 私は、児童書コーナーから少し離れた閲覧席に座っていた。

 

 目の前には、自分で持ってきた文庫本を開いている。けれど、文字はあまり頭に入ってこなかった。視線はページの上に落ちているのに、意識の端はずっと、低い棚の一番奥にある古い児童書へ向いている。

 

 小川未明の『赤い蝋燭と人魚』。

 

 昨日、暗号の言葉を拾った本。あの本の後ろの貸出カードポケットは、今は空のままだ。

 隣の席では、菜穂が雑誌を広げていた。料理の特集ページらしい。けれど、さっきから同じページを開いたまま、ほとんどめくっていない。

 

「これ、完全に読めてないよね」

 菜穂が、雑誌から目を上げずに小声で言った。

「読めてないね」

「澪も?」

「うん」

「よかった。私だけじゃなかった」

 

 菜穂はほっとしたように言って、それからすぐに口をつぐんだ。

 私たちは、誰かを見張りに来たわけではなかった。

 

 名前も知らない。顔も知らない。年齢も、事情も、まだ何も知らない。ただ、昨日の暗号が本当に誰かと誰かのやり取りなら、そして金曜日に本を見に来る人がいるのなら、その人は今日、空になったポケットを見ることになる。

 

 そこに何もなかった時、何が起きるのか。それだけが気がかりだった。

 

 千尋さんは、カウンターの内側でいつも通りに仕事をしていた。利用者に本の場所を案内し、返却された本を受け取り、時折こちらへ視線を向ける。その視線は短く、控えめだった。

 

 図書館の人としての距離を、千尋さんはきちんと守っている。私も、その距離を崩したくなかった。

 

 誰かが来なければ、それでいい。来たとしても、無理に声をかける必要はない。ただ、もし空のポケットの前で立ち尽くす人がいたら。そして、その人が言葉を失ってしまったら。

 その時だけ、少しだけ話を聞けないだろうか。

 

 私は、文庫本のページに視線を戻した。

 

 けれど、次の行へ進む前に、菜穂の指先が机の上で小さく動いた。合図のようなものではなかった。けれど、菜穂が息を止めたのがわかった。

 

 私は顔を上げる。

 

 児童書コーナーの入口に、一人の女性が立っていた。

 

 七十歳前後だろうか。薄い灰色のコートを着て、手には小さな布のバッグを持っている。髪はきちんと整えられていて、背筋も伸びていた。

 

 けれど、歩き出すまでに、ほんの少しだけ間があった。

 初めて来た場所を探している人の迷いではない。私には、そう見えた。

 

 女性は棚の表示を見なかった。新刊コーナーにも、返却棚にも目を向けなかった。ただ、まっすぐに児童書コーナーの奥へ歩いていく。

 

 低い棚の一番端。

 古い児童書が並ぶ場所。

 私は、息を静かに整えた。

 女性の手が、『赤い蝋燭と人魚』へ伸びる。迷いのない手だった。その一冊を取り出すと、女性は近くの席へ座らず、その場で本の後ろを開いた。

 

 後ろ見返し。古い貸出カードポケット。

 そこは、空だった。

 

 女性の指が、ポケットの口に触れたまま止まった。ほんの数秒。けれど、その数秒は、図書館の中の音を遠ざけるには十分だった。

 

 子どもがページをめくる音。カウンターで本のバーコードを読み取る音。遠くの席で椅子が引かれる音。それらが全部、薄い膜の向こう側へ下がっていく。

 

 女性はもう一度、ポケットの奥を確かめるように指を入れた。何もないとわかっているはずなのに、まだそこに紙の端が残っていないかを探すように。

 

 菜穂が、隣で小さく息を吸った。

 私は、文庫本を閉じた。

 

 この人は、カードを入れに来たのではない。

 返事を読みに来たのだ。

 

 そう思った瞬間、昨日ノートに書いた最後の言葉が、私の中で静かに開いた。

 

 ほんとうは。

 

 その続きは、まだ誰にも読まれていない。

 

 私は立ち上がった。

 椅子の脚が床に触れる音さえ、今は大きく響きそうで、できるだけ静かに膝を引く。菜穂がこちらを見た。行くの、と声には出さなかった。けれど、目だけがそう聞いていた。

 私は小さくうなずいた。

 女性はまだ、本の後ろを開いたままだった。

 空のポケット。そこに何もないことを、指先で確かめ続けている。

 私は、棚と棚のあいだをゆっくり歩いた。

 急いで近づけば、相手を追い詰めてしまう気がした。

 

 あと三歩。

 

 あと二歩。

 

 女性が、わずかに顔を上げた。

 私は足を止めた。

 

「驚かせてしまったら、ごめんなさい」

 声は、図書館の空気に合わせて低くした。

 

「そのカードのことで、少しだけお話を聞かせてもらえませんか」

 女性の指が、本の端を押さえた。

 けれど、私を見返す目は、怒りよりも先に、何かを失った人のように揺れていた。

 

「カード……」

 女性は小さくつぶやいた。

 その言葉だけで、私には十分だった。

 この人は知っている。少なくとも、あのポケットにカードがあったことを。

 

「図書館の方から、あなたのお名前を聞いたわけではありません」

 私は、先にそう言った。

 女性の肩が、ほんの少し動いた。

 

「利用者のことを調べたわけでもありません。あの本の貸出記録もありませんし、そもそも館内で読む本ですから」

 女性は黙っていた。

 私は続ける。

「ただ、カードに書かれた言葉を読みました」

 

「読んだ……?」

 女性の声が、かすれた。

「はい」

 私はうなずいた。

「勝手なことをしたと思っています。でも、あのカードがただのいたずらではないことだけは、わかりました」

 

 女性の視線が、私から本へ戻る。

 空のポケットを見ているのか、それとも、そこにあったはずの一枚を見ているのか。私にはわからなかった。

「責めたいわけではありません」

 私は言った。

「図書館の本に私物を挟むことがよくないのは、たぶん、あなたもわかっていらっしゃると思います。でも、それでもそこに置くしかなかった言葉なら、ただ取り上げて終わりにはしたくないんです」

 

 女性の唇が、何かを言いかけた形になった。

 けれど、言葉にはならなかった。

 

 菜穂が少し離れたところに立っている。いつの間にか来ていたらしい。けれど、私より前へは出てこない。千尋さんも、カウンターの近くからこちらを見ていた。

 誰も、女性を囲まない。

 その距離だけが、今は大事だった。

 

「最後のカードは、保管されています」

 私は言った。

 女性の目が、はっきりと動いた。

「あります。なくなったわけではありません」

「……どこに」

「図書館の方が、大切に預かっています」

 私は、千尋さんの方を一度だけ見た。千尋さんは静かにうなずいた。けれど、こちらへ来ることはしなかった。

「でも、ここではゆっくり話せないと思います」

 私は女性の手元へ視線を落とした。

 女性の指は、まだ『赤い蝋燭と人魚』の表紙を離していなかった。

 

「近くに、こもれびという喫茶店があります。もしよければ……」

「どうして」

 女性が、初めて私の言葉を遮った。

 強い声ではなかった。けれど、その短い一言の奥には、長い時間の用心深さがあるように思えた。

 

「どうして、あなたが」

 

 私はすぐには答えなかった。

 自分が何者かを説明するのは難しい。

 探偵ではない。図書館の職員でもない。誰かに頼まれたわけでもない。ただ、言葉が途中で途切れているのを見てしまった。

 それだけだった。

 けれど、その続きをここで聞き出すつもりはなかった。

 

 図書館の中には、子どもの小さな声があり、ページをめくる音があり、カウンターで本を受け渡す人たちがいる。誰かの長い沈黙を開くには、ここは少し明るすぎて、少し静かすぎた。

 

 私は、ほんの少しだけ表情をゆるめた。 

「ここでお話を続けると、ほかの方の迷惑になってしまいますね」

 

 女性は答えなかった。けれど、私の声が責めるものではないとわかったのか、本の端を押さえていた指がわずかに緩んだ。

 私は、できるだけ穏やかに言った。

「おいしいコーヒーもありますし、紅茶もあります。少し、ゆっくりしませんか?」

 

 菜穂が、すぐ後ろで小さくうなずいた。

「ルイボスティーもありますよ。昨日、真鍋さんが飲んでました」

 その言い方があまりに菜穂らしくて、私は少しだけ肩の力が抜けた。女性は、困ったように菜穂を見た。それから、私を見る。

 

「私は……」

 

「話したくなければ、話さなくて大丈夫です」

 私は言った。

「ただ、ここよりは、あたたかいものがあります」

 

 女性の視線が、机の上の古い本へ落ちた。

 小川未明の『赤い蝋燭と人魚』。その表紙を見つめたまま、女性の目がはっきりと揺れた。

 

 私は、千尋さんの方を見た。千尋さんはカウンターの内側から、白い封筒を取り出していた。

 原物ではなく、内容を写した控えを入れたものだ。歩み寄る足取りは静かで、慎重だった。

「原物はこちらでお預かりしています。これは、内容を写した控えです」

 千尋さんは、女性に向かって丁寧に言った。

「本の中に戻すことはできません。でも、なくなったわけではありません」

 

 女性は封筒を見た。触れようとして、指を止めた。

 その動きに、私は胸の奥が小さく痛むのを感じた。

 

 読みたい。

 でも、ここでは読めない。そういう迷いに見えた。

 

「こもれびで」

 私は言った。

「その封筒を開けませんか」

 女性は長いあいだ黙っていた。

 

 図書館の奥で、子どもが母親に何かを尋ねる声がした。母親が「しー」と小さく言う。空気がまた、本の匂いの中に戻っていく。

 

 やがて女性は、古い児童書をそっと閉じた。

 持ち去ることはしなかった。けれど、すぐに棚へ戻すこともできないようだった。

 

 千尋さんが静かに手を伸ばす。

「こちらで戻しておきます」

 女性は、一度だけ本の表紙に視線を落とし、それから小さくうなずいた。

「……少しだけなら」

 その返事は、紙の端がようやく指に触れた時のように、かすかだった。

 

 私は菜穂を振り返った。

 菜穂はすぐにうなずき、千尋さんから封筒を受け取るのではなく、千尋さんが持ったまま一緒に行く形になるよう、さりげなく横に立った。

 

 図書館のものを、誰かが勝手に持ち出したように見えないためだろう。菜穂はこういうところで、妙に勘がいい。

 千尋さんも、その意図を受け取ったように、封筒を胸元でそっと持った。

 

「少しだけ席を外します」

 カウンターにいた同僚にそう声をかけてから、千尋さんはこちらへ戻ってきた。

 

 私たちは、児童書コーナーを出た。

 女性は、私の半歩後ろを歩いている。布のバッグの持ち手を、両手で包むように握っていた。

 

 外へ出ると、川べりの風が頬に触れた。

 冬の入口の風だった。こもれびまでは、歩いて数分。

 

 その短い道のりのあいだ、誰もあまり話さなかった。けれど沈黙は、図書館の中にあったものとは少し違っていた。

 本の後ろに挟まれていた言葉が、ようやく外の空気に触れようとしている。

 

 私には、そんなふうに思えた。

 

 その時、背後で図書館の自動ドアが小さく開く音がした。

 私は振り返らなかった。

 

 けれど、ガラスに映った影がひとつ、遅れて外へ出てくるのが見えた。

 首元に、柔らかそうなスカーフ。

 茶色いコートの袖口からのぞく手は、ぎゅっと握りしめられているようだった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


キーパーソンが登場しました。超小声なのはこの回までで終わりそうです。


しばらくは毎日20時に更新予定です。

こもれび喫茶で起こる小さな謎を、ゆっくり楽しんでいただけたら嬉しいです。

どうぞよろしくお願いいたします。

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