第二章 児童書の謎(五)
金曜日の図書館は、木曜日よりも少しだけ人の気配が多かった。
週末の前だからだろうか。返却カウンターの前には数人の列ができ、児童書コーナーでは、小さな子どもが母親の袖を引きながら、恐竜の背中が描かれた本を抱えていた。
けれど、そのにぎやかさは、図書館の空気の中ではすぐに丸くなる。声は棚に吸われ、足音は床に沈む。笑い声も、ここでは小さな紙片のように軽くなって、本のあいだへ挟まっていく。
私は、児童書コーナーから少し離れた閲覧席に座っていた。
目の前には、自分で持ってきた文庫本を開いている。けれど、文字はあまり頭に入ってこなかった。視線はページの上に落ちているのに、意識の端はずっと、低い棚の一番奥にある古い児童書へ向いている。
小川未明の『赤い蝋燭と人魚』。
昨日、暗号の言葉を拾った本。あの本の後ろの貸出カードポケットは、今は空のままだ。
隣の席では、菜穂が雑誌を広げていた。料理の特集ページらしい。けれど、さっきから同じページを開いたまま、ほとんどめくっていない。
「これ、完全に読めてないよね」
菜穂が、雑誌から目を上げずに小声で言った。
「読めてないね」
「澪も?」
「うん」
「よかった。私だけじゃなかった」
菜穂はほっとしたように言って、それからすぐに口をつぐんだ。
私たちは、誰かを見張りに来たわけではなかった。
名前も知らない。顔も知らない。年齢も、事情も、まだ何も知らない。ただ、昨日の暗号が本当に誰かと誰かのやり取りなら、そして金曜日に本を見に来る人がいるのなら、その人は今日、空になったポケットを見ることになる。
そこに何もなかった時、何が起きるのか。それだけが気がかりだった。
千尋さんは、カウンターの内側でいつも通りに仕事をしていた。利用者に本の場所を案内し、返却された本を受け取り、時折こちらへ視線を向ける。その視線は短く、控えめだった。
図書館の人としての距離を、千尋さんはきちんと守っている。私も、その距離を崩したくなかった。
誰かが来なければ、それでいい。来たとしても、無理に声をかける必要はない。ただ、もし空のポケットの前で立ち尽くす人がいたら。そして、その人が言葉を失ってしまったら。
その時だけ、少しだけ話を聞けないだろうか。
私は、文庫本のページに視線を戻した。
けれど、次の行へ進む前に、菜穂の指先が机の上で小さく動いた。合図のようなものではなかった。けれど、菜穂が息を止めたのがわかった。
私は顔を上げる。
児童書コーナーの入口に、一人の女性が立っていた。
七十歳前後だろうか。薄い灰色のコートを着て、手には小さな布のバッグを持っている。髪はきちんと整えられていて、背筋も伸びていた。
けれど、歩き出すまでに、ほんの少しだけ間があった。
初めて来た場所を探している人の迷いではない。私には、そう見えた。
女性は棚の表示を見なかった。新刊コーナーにも、返却棚にも目を向けなかった。ただ、まっすぐに児童書コーナーの奥へ歩いていく。
低い棚の一番端。
古い児童書が並ぶ場所。
私は、息を静かに整えた。
女性の手が、『赤い蝋燭と人魚』へ伸びる。迷いのない手だった。その一冊を取り出すと、女性は近くの席へ座らず、その場で本の後ろを開いた。
後ろ見返し。古い貸出カードポケット。
そこは、空だった。
女性の指が、ポケットの口に触れたまま止まった。ほんの数秒。けれど、その数秒は、図書館の中の音を遠ざけるには十分だった。
子どもがページをめくる音。カウンターで本のバーコードを読み取る音。遠くの席で椅子が引かれる音。それらが全部、薄い膜の向こう側へ下がっていく。
女性はもう一度、ポケットの奥を確かめるように指を入れた。何もないとわかっているはずなのに、まだそこに紙の端が残っていないかを探すように。
菜穂が、隣で小さく息を吸った。
私は、文庫本を閉じた。
この人は、カードを入れに来たのではない。
返事を読みに来たのだ。
そう思った瞬間、昨日ノートに書いた最後の言葉が、私の中で静かに開いた。
ほんとうは。
その続きは、まだ誰にも読まれていない。
私は立ち上がった。
椅子の脚が床に触れる音さえ、今は大きく響きそうで、できるだけ静かに膝を引く。菜穂がこちらを見た。行くの、と声には出さなかった。けれど、目だけがそう聞いていた。
私は小さくうなずいた。
女性はまだ、本の後ろを開いたままだった。
空のポケット。そこに何もないことを、指先で確かめ続けている。
私は、棚と棚のあいだをゆっくり歩いた。
急いで近づけば、相手を追い詰めてしまう気がした。
あと三歩。
あと二歩。
女性が、わずかに顔を上げた。
私は足を止めた。
「驚かせてしまったら、ごめんなさい」
声は、図書館の空気に合わせて低くした。
「そのカードのことで、少しだけお話を聞かせてもらえませんか」
女性の指が、本の端を押さえた。
けれど、私を見返す目は、怒りよりも先に、何かを失った人のように揺れていた。
「カード……」
女性は小さくつぶやいた。
その言葉だけで、私には十分だった。
この人は知っている。少なくとも、あのポケットにカードがあったことを。
「図書館の方から、あなたのお名前を聞いたわけではありません」
私は、先にそう言った。
女性の肩が、ほんの少し動いた。
「利用者のことを調べたわけでもありません。あの本の貸出記録もありませんし、そもそも館内で読む本ですから」
女性は黙っていた。
私は続ける。
「ただ、カードに書かれた言葉を読みました」
「読んだ……?」
女性の声が、かすれた。
「はい」
私はうなずいた。
「勝手なことをしたと思っています。でも、あのカードがただのいたずらではないことだけは、わかりました」
女性の視線が、私から本へ戻る。
空のポケットを見ているのか、それとも、そこにあったはずの一枚を見ているのか。私にはわからなかった。
「責めたいわけではありません」
私は言った。
「図書館の本に私物を挟むことがよくないのは、たぶん、あなたもわかっていらっしゃると思います。でも、それでもそこに置くしかなかった言葉なら、ただ取り上げて終わりにはしたくないんです」
女性の唇が、何かを言いかけた形になった。
けれど、言葉にはならなかった。
菜穂が少し離れたところに立っている。いつの間にか来ていたらしい。けれど、私より前へは出てこない。千尋さんも、カウンターの近くからこちらを見ていた。
誰も、女性を囲まない。
その距離だけが、今は大事だった。
「最後のカードは、保管されています」
私は言った。
女性の目が、はっきりと動いた。
「あります。なくなったわけではありません」
「……どこに」
「図書館の方が、大切に預かっています」
私は、千尋さんの方を一度だけ見た。千尋さんは静かにうなずいた。けれど、こちらへ来ることはしなかった。
「でも、ここではゆっくり話せないと思います」
私は女性の手元へ視線を落とした。
女性の指は、まだ『赤い蝋燭と人魚』の表紙を離していなかった。
「近くに、こもれびという喫茶店があります。もしよければ……」
「どうして」
女性が、初めて私の言葉を遮った。
強い声ではなかった。けれど、その短い一言の奥には、長い時間の用心深さがあるように思えた。
「どうして、あなたが」
私はすぐには答えなかった。
自分が何者かを説明するのは難しい。
探偵ではない。図書館の職員でもない。誰かに頼まれたわけでもない。ただ、言葉が途中で途切れているのを見てしまった。
それだけだった。
けれど、その続きをここで聞き出すつもりはなかった。
図書館の中には、子どもの小さな声があり、ページをめくる音があり、カウンターで本を受け渡す人たちがいる。誰かの長い沈黙を開くには、ここは少し明るすぎて、少し静かすぎた。
私は、ほんの少しだけ表情をゆるめた。
「ここでお話を続けると、ほかの方の迷惑になってしまいますね」
女性は答えなかった。けれど、私の声が責めるものではないとわかったのか、本の端を押さえていた指がわずかに緩んだ。
私は、できるだけ穏やかに言った。
「おいしいコーヒーもありますし、紅茶もあります。少し、ゆっくりしませんか?」
菜穂が、すぐ後ろで小さくうなずいた。
「ルイボスティーもありますよ。昨日、真鍋さんが飲んでました」
その言い方があまりに菜穂らしくて、私は少しだけ肩の力が抜けた。女性は、困ったように菜穂を見た。それから、私を見る。
「私は……」
「話したくなければ、話さなくて大丈夫です」
私は言った。
「ただ、ここよりは、あたたかいものがあります」
女性の視線が、机の上の古い本へ落ちた。
小川未明の『赤い蝋燭と人魚』。その表紙を見つめたまま、女性の目がはっきりと揺れた。
私は、千尋さんの方を見た。千尋さんはカウンターの内側から、白い封筒を取り出していた。
原物ではなく、内容を写した控えを入れたものだ。歩み寄る足取りは静かで、慎重だった。
「原物はこちらでお預かりしています。これは、内容を写した控えです」
千尋さんは、女性に向かって丁寧に言った。
「本の中に戻すことはできません。でも、なくなったわけではありません」
女性は封筒を見た。触れようとして、指を止めた。
その動きに、私は胸の奥が小さく痛むのを感じた。
読みたい。
でも、ここでは読めない。そういう迷いに見えた。
「こもれびで」
私は言った。
「その封筒を開けませんか」
女性は長いあいだ黙っていた。
図書館の奥で、子どもが母親に何かを尋ねる声がした。母親が「しー」と小さく言う。空気がまた、本の匂いの中に戻っていく。
やがて女性は、古い児童書をそっと閉じた。
持ち去ることはしなかった。けれど、すぐに棚へ戻すこともできないようだった。
千尋さんが静かに手を伸ばす。
「こちらで戻しておきます」
女性は、一度だけ本の表紙に視線を落とし、それから小さくうなずいた。
「……少しだけなら」
その返事は、紙の端がようやく指に触れた時のように、かすかだった。
私は菜穂を振り返った。
菜穂はすぐにうなずき、千尋さんから封筒を受け取るのではなく、千尋さんが持ったまま一緒に行く形になるよう、さりげなく横に立った。
図書館のものを、誰かが勝手に持ち出したように見えないためだろう。菜穂はこういうところで、妙に勘がいい。
千尋さんも、その意図を受け取ったように、封筒を胸元でそっと持った。
「少しだけ席を外します」
カウンターにいた同僚にそう声をかけてから、千尋さんはこちらへ戻ってきた。
私たちは、児童書コーナーを出た。
女性は、私の半歩後ろを歩いている。布のバッグの持ち手を、両手で包むように握っていた。
外へ出ると、川べりの風が頬に触れた。
冬の入口の風だった。こもれびまでは、歩いて数分。
その短い道のりのあいだ、誰もあまり話さなかった。けれど沈黙は、図書館の中にあったものとは少し違っていた。
本の後ろに挟まれていた言葉が、ようやく外の空気に触れようとしている。
私には、そんなふうに思えた。
その時、背後で図書館の自動ドアが小さく開く音がした。
私は振り返らなかった。
けれど、ガラスに映った影がひとつ、遅れて外へ出てくるのが見えた。
首元に、柔らかそうなスカーフ。
茶色いコートの袖口からのぞく手は、ぎゅっと握りしめられているようだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
キーパーソンが登場しました。超小声なのはこの回までで終わりそうです。
しばらくは毎日20時に更新予定です。
こもれび喫茶で起こる小さな謎を、ゆっくり楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。




