第二章 児童書の謎(四)
「最初のひらがなは、この暗号を書いた人だけがわかる挿絵の呼び名なのかもしれません」
そう言ったあと、私はすぐには本に手を伸ばさなかった。
答えに触れた、というより、答えの気配がこちらを向いたところだった。こういう時に急ぐと、見えるはずのものを見落としてしまう。
菜穂は、まだ不思議そうに私を見ていた。
「挿絵の呼び名って、どういうこと?」
「ページ番号じゃなくて、そのページをどう覚えていたか、ということ」
「どう覚えていたか?」
「うん。たとえば、このページを『何ページ』じゃなくて、『蝋燭のところ』って呼んでいたとしたら」
私は、色褪せた赤い蝋燭の挿絵に視線を落とした。
「『ろ』は、そのページを開くための目印になる」
千尋さんは、控えの紙を静かに見つめていた。
「図書館の分類ではありませんね」
「はい。図書館の記号ではないと思います」
私はうなずいた。
「たぶん、その本を何度も読んだ人だけの呼び名です」
「うわ」
菜穂が小さく声を漏らした。
「なんか、それって暗号というより、思い出の鍵だね。そうだとしたら、これを考えた時楽しかったろうなぁ」
「うん、そうだね、ワクワクしたろうね」
私は、小さなノートを開いた。控えの紙には、最初のカードの記号が並んでいる。
8/29
ろ-2-9
ま-4-3
に-1-15
う-3-6
ろ-5-11
か-2-2
ま-1-8
「まず、最初の二つだけ試してみます」
私は、赤い蝋燭の挿絵があるページを開いた。
「ろ。赤い蝋燭の挿絵。二列目、九文字目」
縦書きの文字を、右から数える。一列目。二列目。それから、上から九文字目。
私は指を置いた。
「……あ、だね」
私はノートに「あ」と書いた。たった一文字。けれど、それまで記号でしかなかったものが、急に体温を持ったように見えた。
「次は、ま」
私は、少し前に菜穂が開いていたページへ戻った。海辺の町の灯りが、小さく描かれている挿絵のところだった。
「『ま』は、町の場面だと考えられる」
「まちの、ま?」
「うん。これも仮だけど」
私は、四列目を数えた。一列目。二列目。三列目。四列目。その三文字目。
「の」
ノートに、二文字目を書いた。
あの
菜穂が、声を出さずに口だけでその二文字を読んだ。
「続いてる気がする」
「うん」
私は、控えの紙を見直した。
あ の
まだ二文字だけだった。それなのに、記号の列はもう、ただのいたずらではない顔をし始めていた。
「でも」
私は本から顔を上げた。
「ここから先は、私たちが挿絵の呼び名を全部言い当てられるとは限らない」
「どういうこと?」
「『ろ』や『ま』は、たまたまわかりやすかっただけかもしれない。けれど、このひらがなが書いた人だけの呼び名なら、こちらには自然に見えないものもあるはず」
菜穂は控えの紙をのぞき込んだ。
「か、とか?」
「そう。私たちにはすぐわからなくても、その人が『か』と感じた場所があったのかもしれない」
千尋さんが、静かにうなずいた。
「その本を大事に読んだ、その方だけの呼び方ですね」
「はい」
私はもう一度、本へ視線を落とした。
「だから、全部を説明しようとしない方がいいのかもしれません。今は、本の中から文字を拾えるかどうかだけ、確かめます」
それから三人は、しばらく黙って本と控えの紙を行き来した。
に-1-15
う-3-6
ろ-5-11
か-2-2
ま-1-8
ひらがなの意味は、すべてがすぐにほどけたわけではなかった。けれど、ページを戻り、挿絵を見比べ、本文の列を数えていくうちに、私のノートには一文字ずつ、拾い上げた文字が増えていった。
と
き
ご
め
ん
私は、ノートの上に並んだ言葉を見た。
あのとき ごめん
その言葉は、短かった。短すぎるくらいだった。けれど、短いからこそ、その七文字は長い時間の底で、息をひそめていたのかもしれない。
菜穂が、ゆっくりと息を吐いた。
「……いたずらじゃないね」
「うん」
私はノートから顔を上げた。
「これは、なにに向けた謝罪なんですかね……」
千尋さんは、控えの紙を見たまま黙っていた。唇が少しだけ引き結ばれている。司書としてではなく、この本を守ってきた人として、その言葉を受け止めているように私には見えた。
「ほかのカードも、同じように読めるでしょうか」
「たぶん」
私は次の控えへ目を移した。
9/24
に-3-4
う-2-9
ろ-1-6
ま-5-2
か-1-12
今度は、最初ほど迷わなかった。
ひらがなが何を指しているのか、全部を言葉にする必要はない。その本を読んできた誰かが、そう呼んだ場所。その挿絵の、何列目、何文字目。
私は、控えの記号と古い本を照らし合わせながら、拾った文字をノートに書いていった。
わ
た
し
こ
そ
わたしこそ。
菜穂が小さく「わ」と言った。
「返事だ」
私はうなずいた。
「最初のカードに対する、返事だと思う」
8/29 あのとき ごめん
9/24 わたしこそ
それだけで、カードを書いた人が一人ではないことがわかる。少なくとも、言葉は往復している。
私は残りの控えも確認した。
10/10 いえなかった
10/28 わたしも
11/14 まっている
そして、菜穂が見つけた最後のカード。
11/26 ほんとうは
そこで、言葉は途切れていた。
ノートの上に並んだ六つの短い文を、私はしばらく見つめていた。
それは、会話だった。
声を出さないまま、本の中で続いていた会話。たった数文字ずつ、本の後ろの小さなポケットに預けていた会話。
「これ、すごく……」
菜穂は言いかけて、言葉を探すように口を閉じた。
私にも、すぐに合う言葉は見つからなかった。悲しい、と言えば少し違う。懐かしい、と言うには、まだ痛みが残っている。
千尋さんが、ゆっくりと口を開いた。
「このカードを入れた方たちは、また、この本のところへ来るでしょうか」
私は日付を見た。
8/29
9/24
10/10
10/28
11/14
11/26
そのうち三つの日付に、ふと目が止まる。
8/29
10/10
11/14
「この三つの日付……何曜日かな」
菜穂はスマホのカレンダーを開いた。スクロールして、日付を追う。
「八月二十九日……金曜日だね」
私はうなずいた。
「十月十日も、金曜日」
菜穂の指が、次の月へ移る。
「十一月十四日も、金曜日」
菜穂が顔を上げた。
「金曜日」
「うん」
私はノートに三つの日付を並べた。
8/29 あのとき ごめん
10/10 いえなかった
11/14 まっている
「たぶん、この三枚を書いた人は、金曜日に来ている」
「じゃあ、もう一人は?」
「9/24、10/28、11/26。曜日はそろっていない。読んでから、少し時間をかけて返事をしているのかもしれない」
私は、最後の言葉をもう一度見た。
ほんとうは。
その続きは、まだ本の中にはない。
「11/26のカードは、菜穂が見つけて、千尋さんが保管している」
「はい」
「だから、この本のポケットは、今は空です」
千尋さんが、後ろ見返しの貸出カードポケットへ視線を向けた。小さな紙の袋は、何も入っていないまま、古い本の奥に貼りついている。
「もし金曜日に来る人が、この『ほんとうは』を読むつもりだったなら」
菜穂が、はっとしたように私を見た。
「明日」
私はうなずいた。
「明日、会えるかもしれない」
図書館の窓の外で、川べりの木が風に揺れた。
薄い冬の光が、机の上に置かれた古い児童書を照らしている。
その後ろの小さなポケットだけが、ぽっかりと空いたままだった。
まるで、まだ返事を待っている口のように。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
暗号は解けたようですね。相変わらず、彼女たちは超小声です。
しばらくは毎日20時に更新予定です。
こもれび喫茶で起こる小さな謎を、ゆっくり楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。




