第二章 児童書の謎(三)
翌日の木曜日、図書館の窓には、薄い冬の光が貼りついていた。十一月の終わりの光は、夏のように中まで踏み込んでこない。ガラスの向こうで少し迷ってから、棚の端や机の角に、そっと手を置くくらいで止まっている。
葉住市立図書館に入ると、紙と糊の匂いがした。古い本が、静かに息をしているような匂いだった。
私はその匂いを吸い込みながら、児童書コーナーの方へ目を向けた。昨日、菜穂が一枚の白いカードを見つけた場所。古い児童書の後ろに、誰かの言葉にならないものが挟まっていた場所。
「澪、昨日の仮説、当たってると思う?」
隣で菜穂が、声をひそめて聞いた。
「どうだろう」
図書館に入ると、自然と歩幅が小さくなる。靴音まで本に聞かれているような気がした。
「違っているかもしれない、とは思ってる」
「そういうことを先に言われると、推理小説の探偵としては弱気じゃない?」
「私は探偵じゃないからね」
「じゃあ何?」
「本を読む人」
そう答えると、菜穂は小さく笑った。けれどその笑い方は、いつもより少し控えめだった。図書館だからというだけではなく、昨日のカードのことが、まだ菜穂の中にも残っているのだろう。
カウンターの奥では、真鍋千尋さんが数冊の本を整理していた。こちらに気づくと、千尋さんは小さく会釈し、手元の作業を区切ってから児童書コーナーへ来た。
「お待ちしていました」
千尋さんの声も、昨日こもれびで聞いた時より低かった。図書館の声だった。
「こちらです」
児童書コーナーの奥、低い棚の一番端。昔の読み聞かせ会や児童文庫で使われていた古い本が並ぶ棚に、その一冊はあった。
小川未明の『赤い蝋燭と人魚』。
表紙の赤は、長い年月に薄められていた。けれど暗い闇の中にある蝋燭だけは、まだ小さく火を持っているように見える。
千尋さんは両手で本を取り出し、近くの閲覧席へ運んだ。
「念のため、こちらでお願いします」
「もちろんです」
私はうなずいた。
菜穂は椅子に座る前に、本の後ろへ視線を向けていた。私もつられて、後ろ見返しを見る。
昨日、カードが入っていた貸出カードポケットは、今は空だった。
紙の小さな袋。
昔は本を借りるための場所だったそこが、いつの間にか、誰かの言葉を待つ場所になっていた。
千尋さんが、控えの紙をそっとテーブルに置いた。
8/29
ろ-2-9
ま-4-3
に-1-15
う-3-6
ろ-5-11
か-2-2
ま-1-8
「まずは、昨日の仮説から試してみましょう」
私はそう言って、本文の最初のページを開いた。小さなノートとシャープペンシルを取り出し、思いついたことを端から書き留めていくことにした。
「最初のひらがなが、そのページの最初の文字を示しているとしたら……まずは『ろ』で始まるページを探すことになる」
「ろで始まるページ」
菜穂が小さく繰り返した。
私はページをめくっていった。薄い紙が、ぱらり、ぱらりと音を立てる。縦に並んだ文字。余白。古い挿絵。海の気配。
けれど、ページの最初の文字は、思ったほど都合よく並んでいなかった。
「……ないね」
菜穂が言った。
「うん」
私は次のページをめくる。
「『ま』で始まるページならあるかもしれない。でも、『ろ』が何度も出てくるわけじゃない。『に』や『う』も同じ。カードに出てくるひらがなが、ページの冒頭文字だと考えるには、少し無理がある」
「じゃあ、昨日の仮説は外れ?」
「たぶん」
私は控えの紙を見直した。
ろ-2-9。
ま-4-3。
に-1-15。
う-3-6。
「でも、外れたことにも意味はあると思う」
「外れたのに?」
「うん。少なくとも、最初のひらがながページ冒頭の文字ではなさそうだとわかった」
菜穂は少しだけ肩を落としたように見えた。けれどすぐに、また本の方へ身を乗り出す。
千尋さんは、私たちのやり取りを黙って見守っていた。司書として口を挟みすぎないようにしているのかもしれない。ただ、その目は本と控えの紙のあいだを静かに行き来している。
「ひらがなは、ページの最初の文字じゃない」
私は言った。
「でも、数字二つはたぶん、その先の細かい位置を示している。二列目の九文字目、四列目の三文字目……そう読めそうな形はしているから」
「じゃあ、問題は最初のひらがなか」
菜穂が本に視線を落とした。古いページの中で、人魚が海を見ている。その次の挿絵には、町の灯りが小さく描かれていた。さらにページを戻ると、赤い蝋燭があった。
菜穂の指が、その挿絵の手前で止まった。
「ねえ、澪」
声が、さっきよりも小さかった。
「なに?」
「この本ってさ、中身も絵本っていうには文字が多いし、児童書なのかなって思うんだけど、字も大きくて読みやすいよね」
菜穂は、ぱらぱらめくりながら言った。
「怖い絵のとこもあるけど」
私は、菜穂の指先を見た。そこには、色褪せた赤い蝋燭の挿絵があった。蝋燭の炎は、ほとんど橙色を失っている。けれど古い紙の中でだけ、まだ消えずに残っているように見える。
「……そうだね」
私は、もう一度、控えの紙へ視線を戻した。
ろ-2-9。
最初のひらがなは、ページの冒頭の文字ではない。けれど、ページそのものから完全に離れているわけでもない。
菜穂はまだ、挿絵の端に指を置いたまま、じっと絵を眺めている。
「この絵、表紙にもあった蝋燭だけど、ものすごいインパクトあるよね」
「うん」
私は答えながら、本を少しだけ自分の方へ引き寄せた。美しいけれど、儚くて悲しげな蝋燭の絵。暗い背景に赤い蝋燭が浮かんでいる、不思議な挿絵だった。
このページは『ろ』で始まっていない。
赤い蝋燭。
私の思考が、答えの手前でそっと足を止めた。
「菜穂」
「ん?」
「今、どうしてこのページで止まったの?」
「え?」
菜穂は、自分の指先を見下ろした。
「どうしてって……なんか、目立つから。赤い蝋燭」
「赤い蝋燭」
私は小さく繰り返した。
千尋さんが、控えの紙へ視線を落とした。
ろ-2-9。
ろ。
それはページの最初の文字ではない。けれど、この本の中で「ろ」と聞いて最初に思い浮かぶものがある。
蝋燭。
「……もしかして」
私は、赤い蝋燭の挿絵に視線を戻した。
「最初のひらがなは、ページの頭文字じゃないのかもしれません」
千尋さんが顔を上げる。
「では、何を示しているんでしょう」
「ページ番号そのものではなくて、そのページを思い出すための目印」
「目印?」
「はい」
私は、指先で控えの一行目を示した。
「ろ-2-9。もし、この『ろ』がページの冒頭の文字ではなく、赤い蝋燭の『ろ』だとしたら」
菜穂が、ぽかんと私を見た。
「え。どういうこと?」
「今、菜穂が止まったから」
「私、何もわかってないよ?」
「だから、思いついたの」
私は少しだけ笑った。
「わかって止まったんじゃなくて、目が止まった。たぶん、この本を何度も読んだ人なら、ページ番号じゃなくても、場面で場所を覚えている」
私は、もう一度古い本を見た。蝋燭のページ。人魚のページ。海のページ。町のページ。そう呼べる場所が、この本の中にいくつもあるのだとしたら。
「最初のひらがなは、二人だけがわかる場面の呼び名なのかもしれません」
図書館の奥で、誰かが本を閉じる音がした。
ぱたん、と、小さく。
まるで古い本が、長いあいだ黙っていた言葉を、ほんの少しだけこちらへ向けたようだった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
二人はものすごい小さな声で話しています。図書館ですもの。
しばらくは毎日20時に更新予定です。
こもれび喫茶で起こる小さな謎を、ゆっくり楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。




