表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
やさしい嘘のほどき方 こもれび喫茶と小さな謎  作者: 翠川しおり
児童書の謎

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/22

第二章 児童書の謎(三)

 翌日の木曜日、図書館の窓には、薄い冬の光が貼りついていた。十一月の終わりの光は、夏のように中まで踏み込んでこない。ガラスの向こうで少し迷ってから、棚の端や机の角に、そっと手を置くくらいで止まっている。

 

 葉住市立図書館に入ると、紙と糊の匂いがした。古い本が、静かに息をしているような匂いだった。

 

 私はその匂いを吸い込みながら、児童書コーナーの方へ目を向けた。昨日、菜穂が一枚の白いカードを見つけた場所。古い児童書の後ろに、誰かの言葉にならないものが挟まっていた場所。

 

「澪、昨日の仮説、当たってると思う?」

 

 隣で菜穂が、声をひそめて聞いた。

 

「どうだろう」

 

 図書館に入ると、自然と歩幅が小さくなる。靴音まで本に聞かれているような気がした。

 

「違っているかもしれない、とは思ってる」

 

「そういうことを先に言われると、推理小説の探偵としては弱気じゃない?」

 

「私は探偵じゃないからね」

 

「じゃあ何?」

 

「本を読む人」

 

 そう答えると、菜穂は小さく笑った。けれどその笑い方は、いつもより少し控えめだった。図書館だからというだけではなく、昨日のカードのことが、まだ菜穂の中にも残っているのだろう。

 

 カウンターの奥では、真鍋千尋さんが数冊の本を整理していた。こちらに気づくと、千尋さんは小さく会釈し、手元の作業を区切ってから児童書コーナーへ来た。

 

「お待ちしていました」

 

 千尋さんの声も、昨日こもれびで聞いた時より低かった。図書館の声だった。

 

「こちらです」

 

 児童書コーナーの奥、低い棚の一番端。昔の読み聞かせ会や児童文庫で使われていた古い本が並ぶ棚に、その一冊はあった。

 

 小川未明の『赤い蝋燭と人魚』。

 

 表紙の赤は、長い年月に薄められていた。けれど暗い闇の中にある蝋燭だけは、まだ小さく火を持っているように見える。

 

 千尋さんは両手で本を取り出し、近くの閲覧席へ運んだ。

 

「念のため、こちらでお願いします」

 

「もちろんです」

 

 私はうなずいた。

 

 菜穂は椅子に座る前に、本の後ろへ視線を向けていた。私もつられて、後ろ見返しを見る。

 

 昨日、カードが入っていた貸出カードポケットは、今は空だった。

 

 紙の小さな袋。

 

 昔は本を借りるための場所だったそこが、いつの間にか、誰かの言葉を待つ場所になっていた。

 

 千尋さんが、控えの紙をそっとテーブルに置いた。

 

 8/29

 ろ-2-9

 ま-4-3

 に-1-15

 う-3-6

 ろ-5-11

 か-2-2

 ま-1-8

 

「まずは、昨日の仮説から試してみましょう」

 

 私はそう言って、本文の最初のページを開いた。小さなノートとシャープペンシルを取り出し、思いついたことを端から書き留めていくことにした。

 

「最初のひらがなが、そのページの最初の文字を示しているとしたら……まずは『ろ』で始まるページを探すことになる」

 

「ろで始まるページ」

 

 菜穂が小さく繰り返した。

 

 私はページをめくっていった。薄い紙が、ぱらり、ぱらりと音を立てる。縦に並んだ文字。余白。古い挿絵。海の気配。

 

 けれど、ページの最初の文字は、思ったほど都合よく並んでいなかった。

 

「……ないね」

 

 菜穂が言った。

 

「うん」

 

 私は次のページをめくる。

 

「『ま』で始まるページならあるかもしれない。でも、『ろ』が何度も出てくるわけじゃない。『に』や『う』も同じ。カードに出てくるひらがなが、ページの冒頭文字だと考えるには、少し無理がある」

 

「じゃあ、昨日の仮説は外れ?」

 

「たぶん」

 

 私は控えの紙を見直した。

 

 ろ-2-9。

 ま-4-3。

 に-1-15。

 う-3-6。

 

「でも、外れたことにも意味はあると思う」

 

「外れたのに?」

 

「うん。少なくとも、最初のひらがながページ冒頭の文字ではなさそうだとわかった」

 

 菜穂は少しだけ肩を落としたように見えた。けれどすぐに、また本の方へ身を乗り出す。

 

 千尋さんは、私たちのやり取りを黙って見守っていた。司書として口を挟みすぎないようにしているのかもしれない。ただ、その目は本と控えの紙のあいだを静かに行き来している。

 

「ひらがなは、ページの最初の文字じゃない」

 

 私は言った。

 

「でも、数字二つはたぶん、その先の細かい位置を示している。二列目の九文字目、四列目の三文字目……そう読めそうな形はしているから」

 

「じゃあ、問題は最初のひらがなか」

 

 菜穂が本に視線を落とした。古いページの中で、人魚が海を見ている。その次の挿絵には、町の灯りが小さく描かれていた。さらにページを戻ると、赤い蝋燭があった。

 

 菜穂の指が、その挿絵の手前で止まった。

 

「ねえ、澪」

 

 声が、さっきよりも小さかった。

 

「なに?」

 

「この本ってさ、中身も絵本っていうには文字が多いし、児童書なのかなって思うんだけど、字も大きくて読みやすいよね」

 

 菜穂は、ぱらぱらめくりながら言った。

 

「怖い絵のとこもあるけど」

 

 私は、菜穂の指先を見た。そこには、色褪せた赤い蝋燭の挿絵があった。蝋燭の炎は、ほとんど橙色を失っている。けれど古い紙の中でだけ、まだ消えずに残っているように見える。

 

「……そうだね」

 

 私は、もう一度、控えの紙へ視線を戻した。

 

 ろ-2-9。

 

 最初のひらがなは、ページの冒頭の文字ではない。けれど、ページそのものから完全に離れているわけでもない。

 

 菜穂はまだ、挿絵の端に指を置いたまま、じっと絵を眺めている。

 

「この絵、表紙にもあった蝋燭だけど、ものすごいインパクトあるよね」

 

「うん」

 

 私は答えながら、本を少しだけ自分の方へ引き寄せた。美しいけれど、儚くて悲しげな蝋燭の絵。暗い背景に赤い蝋燭が浮かんでいる、不思議な挿絵だった。

 

 このページは『ろ』で始まっていない。

 

 赤い蝋燭。

 

 私の思考が、答えの手前でそっと足を止めた。

 

「菜穂」

 

「ん?」

 

「今、どうしてこのページで止まったの?」

 

「え?」

 

 菜穂は、自分の指先を見下ろした。

 

「どうしてって……なんか、目立つから。赤い蝋燭」

 

「赤い蝋燭」

 

 私は小さく繰り返した。

 

 千尋さんが、控えの紙へ視線を落とした。

 

 ろ-2-9。

 

 ろ。

 

 それはページの最初の文字ではない。けれど、この本の中で「ろ」と聞いて最初に思い浮かぶものがある。

 

 蝋燭。

 

「……もしかして」

 

 私は、赤い蝋燭の挿絵に視線を戻した。

 

「最初のひらがなは、ページの頭文字じゃないのかもしれません」

 

 千尋さんが顔を上げる。

 

「では、何を示しているんでしょう」

 

「ページ番号そのものではなくて、そのページを思い出すための目印」

 

「目印?」

 

「はい」

 

 私は、指先で控えの一行目を示した。

 

「ろ-2-9。もし、この『ろ』がページの冒頭の文字ではなく、赤い蝋燭の『ろ』だとしたら」

 

 菜穂が、ぽかんと私を見た。

 

「え。どういうこと?」

 

「今、菜穂が止まったから」

 

「私、何もわかってないよ?」

 

「だから、思いついたの」

 

 私は少しだけ笑った。

 

「わかって止まったんじゃなくて、目が止まった。たぶん、この本を何度も読んだ人なら、ページ番号じゃなくても、場面で場所を覚えている」

 

 私は、もう一度古い本を見た。蝋燭のページ。人魚のページ。海のページ。町のページ。そう呼べる場所が、この本の中にいくつもあるのだとしたら。

 

「最初のひらがなは、二人だけがわかる場面の呼び名なのかもしれません」

 

 図書館の奥で、誰かが本を閉じる音がした。

 

 ぱたん、と、小さく。

 

 まるで古い本が、長いあいだ黙っていた言葉を、ほんの少しだけこちらへ向けたようだった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


二人はものすごい小さな声で話しています。図書館ですもの。


しばらくは毎日20時に更新予定です。

こもれび喫茶で起こる小さな謎を、ゆっくり楽しんでいただけたら嬉しいです。

どうぞよろしくお願いいたします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ