第二章 児童書の謎(二)
千尋さんが広げた紙の上には、六つの日付が並んでいた。
8/29。
9/24。
10/10。
10/28。
11/14。
11/26。
その横には、ひらがなと数字を組み合わせた記号が書き写されている。
菜穂が図書館で見つけたのは、最後の一枚だけだった。
けれど、こうして並べられると、それは一枚きりのいたずらではなく、秋のあいだに少しずつ積もってきたもののように見えた。
落ち葉のように。
あるいは、言葉になりきれないしるしのように。
「最初の五枚を見つけたのは、十一月二十日です」
千尋さんは封筒の端を、指先でそっと押さえながら言った。
「冬の展示替えの前に、館内閲覧専用の古い児童書を点検していたんです。ページが外れていないか、破れていないか、何か挟み込みがないか。あの棚の本は貸し出しをしていないぶん、館内で読まれるだけなので、定期的に状態を確認することになっていて」
「その時に、五枚まとめて見つかったんですね」
私がたずねると、千尋さんはうなずいた。
「はい。『赤い蝋燭と人魚』の後ろ見返しに残っている、古い貸出カードのポケットに入っていました」
「それまでは、気づかなかった?」
「恥ずかしい話ですが、はい」
千尋さんは少しだけ目を伏せた。
「本自体に書き込みや破損はありませんでした。ページが折られていたわけでもありません。ただ、そのカードだけが重なって入っていたんです。古い貸出カードに似せた形で、でも紙は明らかに新しくて」
図書館の本に、誰かの私物が挟まっている。
それだけなら、忘れ物かもしれない。
けれど、五枚。
しかも、同じ本の同じ場所に、日付を変えて重ねられていた。
「それで、回収したんですね」
「はい。図書館の本に、私的なものを挟んだままにしておくわけにはいきませんから」
その言葉には迷いがなかった。
けれど、迷いがないからこそ、その先にある困惑が見えた。取り除くことはできる。保管することもできる。けれど、それで本当に終わりにしていいものなのか、千尋さんには判断がつかなかったのだろう。
私は、紙に書かれた日付を見つめた。
「五枚を回収したのが、十一月二十日。そして今日、菜穂が見つけたのが、十一月二十六日のカード」
「はい」
「つまり、五枚がなくなったあとにも、新しいカードが入ったということですね」
千尋さんの表情が、少しだけ曇った。
「そうです。だから、まだ続いているのだと思いました」
私は千尋さんが広げた控えの紙を見て、思考の縁に立ち止まった。
名前ではない。
文章でもない。
けれど、ただの落書きにも見えなかった。
何かを言いたくて、でもそのままでは言えなくて、ひらがなと数字の形に折りたたまれたもの。
そう思うと、あの白い紙が、急に薄い封筒のように見えた。
「利用者の方を調べるつもりは、ないんですよね」
私が静かに言うと、千尋さんはすぐに顔を上げた。
「ありません」
その返事は、はっきりしていた。
「貸出記録もありません。そもそも館内閲覧専用の本ですから、どなたが手に取ったかもわかりませんし、こちらから調べることでもありません。防犯上の問題があるわけでも、本が傷められたわけでもありませんから」
「でも、図書館の本に私的なカードが入っている以上、放ってはおけない」
「はい」
千尋さんは両手を膝の上で組んだ。
「悪質なものなのか、ただの遊びなのか。それとも、何か別の意味があるのか。せめて、それだけでもわかればと思いました」
こもれびの奥の席に、短い沈黙が落ちた。
カウンターの方から、春日井さんがポットを置く小さな音がした。店内には珈琲の香りと、千尋さんの前に置かれたルイボスティーのやわらかな甘さが混じっている。
私は紙を自分の方へ少し引き寄せた。
そこには、日付ごとに記号が並んでいた。
8/29
ろ-2-9
ま-4-3
に-1-15
う-3-6
ろ-5-11
か-2-2
ま-1-8
9/24
に-3-4
う-2-9
ろ-1-6
ま-5-2
か-1-12
その下にも、同じようなカードの控えが続いている。
どれも、最初にひらがなが一文字あり、そのあとに数字が二つ並んでいた。
「数字だけじゃないんですね」
私が言った。
「そうなの」
菜穂は紙をのぞき込みながら答えた。
「私もそこが気になった。ろ、って何? 最初は六の書きかけかと思ったんだけど、ほかにも、に、とか、う、とか、ま、とかあるでしょう」
「原物を見ても、数字の六ではなく、ひらがなの『ろ』でした」
千尋さんが言った。
「じゃあ、棚の記号とか?」
菜穂が指先で紙の端を軽く叩いた。
「図書館って、本棚に番号とか、分類の記号とかあるじゃない。ろの棚、二段目、九冊目、みたいな」
千尋さんは少し考えるように控えの紙へ目を落とした。
「たしかに、最初に思いつくなら、場所の記号かもしれません」
「でしょう?」
菜穂は少しだけ得意そうに言った。
けれど千尋さんは、すぐに困ったように眉を下げた。
「でも、葉住市立図書館では、児童書コーナーの棚をひらがな一文字で管理してはいません。分類番号や著者名の表示はありますが、このカードの書き方とは違います」
「じゃあ、棚じゃないかあ」
菜穂は唇を少し尖らせた。
「でも」
私は静かに言った。
「今の考え方は、たぶん近い」
「え?」
「何かの場所を示している、というところまでは合っている気がする」
私は、紙に並んだ記号を指先で追った。
「ただ、それは図書館の棚ではない」
「じゃあ、どこの場所?」
菜穂が聞く。
私はすぐには答えなかった。
ろ-2-9。
ま-4-3。
に-1-15。
う-3-6。
ひらがな一文字。
そのあとに、数字が二つ。
数字だけなら、棚や段や冊数を考えたかもしれない。けれど、最初にひらがなが置かれているせいで、どこか普通の番号からは外れている。
「このカードが、道端に落ちていたなら」
私は、ゆっくりと言った。
「別の考え方をしたと思います。でも、入っていたのは『赤い蝋燭と人魚』の後ろのポケットです」
千尋さんが、わずかに息をのんだ。
「本の中、ということですか」
「はい。ただ、ページ番号そのものではない気がします。最初が数字ではなく、ひらがなだから」
「ひらがな……」
菜穂がもう一度、控えの紙を見た。
ろ。
ま。
に。
う。
か。
ばらばらに見えたひらがなが、急に、どこかへ入るための小さな札のように見え始めた。
「たとえば」
私は少し考えながら言った。
「そのページの最初の文字を、目印にしているのかもしれない」
「最初の文字?」
「うん。たとえば、本の中に、最初の文字が『ろ』で始まるページがある。そのページの二列目、九文字目。そういう読み方」
「ろ-2-9なら、ろで始まるページの、二列目の九文字目?」
「仮説だけどね」
私は、控えの紙から顔を上げた。
「同じ本なら、どこでページが始まるかも、どこで列が折り返すかも同じです。でも、別の版の本ではきっと合わない。だから、この暗号は、その本が手元にないと確かめようがない」
私は、目の前にない本のページを想像した。
縦に並んだ文字。
紙の端から始まる一行目。
そこに置かれた、たった一文字の目印。
誰かがその目印を頼りにページを開き、そこからまた一文字を拾い上げる。
まるで、本の中に沈んでいる小さな貝殻を、一つずつ探すようだった。
「確かに、それが本当に合ってるかは、その本を見ないとわからないか」
菜穂が言った。
「そう」
私はうなずいた。
「今は、そういう読み方があり得る、というだけ。違っているかもしれない」
「違っているかもしれないの?」
「うん。でも、少なくとも外の場所や暗証番号ではなさそうだよね」
私は、千尋さんに向き直った。
「その本を見れば、何かは確かめられると思います」
千尋さんは少し迷ったようだった。
それは、利用者情報ではない。
けれど、図書館の本を、誰かの私的な暗号の鍵として使うことになる。
その迷いを、私は急かさなかった。
千尋さんはルイボスティーのカップに触れ、まだ温かいことを確かめるように、両手で包んだ。
「図書館の中でなら、どなたでも読むことのできる本です」
やがて、千尋さんはそう言った。
「明日、来ていただければ、実物を見ていただくことはできます」
「ありがとうございます」
私は静かに頭を下げた。
菜穂がもう一度、日付の列を見た。
8/29。
9/24。
10/10。
10/28。
11/14。
11/26。
ただの記号だったものが、少しずつ違う形に見え始めていた。
それは、誰かがどこかへ向けて残した合図ではない。
どこへも行かない古い児童書の中で、言葉を探すための足跡なのかもしれなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
謎が顔を出してきました。
図書館の奥の方って、ワクワクしますよね。
しばらくは毎日20時に更新予定です。
こもれびで起こる小さな謎を、ゆっくり楽しんでいただけたら嬉しいです。




