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やさしい嘘のほどき方 こもれび喫茶と小さな謎  作者: 翠川しおり
児童書の謎

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6/22

第二章 児童書の謎(二)

 千尋さんが広げた紙の上には、六つの日付が並んでいた。


 8/29。

 9/24。

 10/10。

 10/28。

 11/14。

 11/26。


 その横には、ひらがなと数字を組み合わせた記号が書き写されている。


 菜穂が図書館で見つけたのは、最後の一枚だけだった。


 けれど、こうして並べられると、それは一枚きりのいたずらではなく、秋のあいだに少しずつ積もってきたもののように見えた。


 落ち葉のように。


 あるいは、言葉になりきれないしるしのように。


「最初の五枚を見つけたのは、十一月二十日です」

 千尋さんは封筒の端を、指先でそっと押さえながら言った。


「冬の展示替えの前に、館内閲覧専用の古い児童書を点検していたんです。ページが外れていないか、破れていないか、何か挟み込みがないか。あの棚の本は貸し出しをしていないぶん、館内で読まれるだけなので、定期的に状態を確認することになっていて」


「その時に、五枚まとめて見つかったんですね」

 私がたずねると、千尋さんはうなずいた。


「はい。『赤い蝋燭と人魚』の後ろ見返しに残っている、古い貸出カードのポケットに入っていました」


「それまでは、気づかなかった?」


「恥ずかしい話ですが、はい」

 千尋さんは少しだけ目を伏せた。


「本自体に書き込みや破損はありませんでした。ページが折られていたわけでもありません。ただ、そのカードだけが重なって入っていたんです。古い貸出カードに似せた形で、でも紙は明らかに新しくて」


 図書館の本に、誰かの私物が挟まっている。


 それだけなら、忘れ物かもしれない。


 けれど、五枚。

 しかも、同じ本の同じ場所に、日付を変えて重ねられていた。


「それで、回収したんですね」


「はい。図書館の本に、私的なものを挟んだままにしておくわけにはいきませんから」


 その言葉には迷いがなかった。

 けれど、迷いがないからこそ、その先にある困惑が見えた。取り除くことはできる。保管することもできる。けれど、それで本当に終わりにしていいものなのか、千尋さんには判断がつかなかったのだろう。


 私は、紙に書かれた日付を見つめた。


「五枚を回収したのが、十一月二十日。そして今日、菜穂が見つけたのが、十一月二十六日のカード」


「はい」


「つまり、五枚がなくなったあとにも、新しいカードが入ったということですね」


 千尋さんの表情が、少しだけ曇った。

「そうです。だから、まだ続いているのだと思いました」


 私は千尋さんが広げた控えの紙を見て、思考の縁に立ち止まった。


 名前ではない。


 文章でもない。


 けれど、ただの落書きにも見えなかった。


 何かを言いたくて、でもそのままでは言えなくて、ひらがなと数字の形に折りたたまれたもの。

 そう思うと、あの白い紙が、急に薄い封筒のように見えた。


「利用者の方を調べるつもりは、ないんですよね」

 私が静かに言うと、千尋さんはすぐに顔を上げた。


「ありません」

 その返事は、はっきりしていた。


「貸出記録もありません。そもそも館内閲覧専用の本ですから、どなたが手に取ったかもわかりませんし、こちらから調べることでもありません。防犯上の問題があるわけでも、本が傷められたわけでもありませんから」


「でも、図書館の本に私的なカードが入っている以上、放ってはおけない」


「はい」

 千尋さんは両手を膝の上で組んだ。


「悪質なものなのか、ただの遊びなのか。それとも、何か別の意味があるのか。せめて、それだけでもわかればと思いました」


 こもれびの奥の席に、短い沈黙が落ちた。

 カウンターの方から、春日井さんがポットを置く小さな音がした。店内には珈琲の香りと、千尋さんの前に置かれたルイボスティーのやわらかな甘さが混じっている。


 私は紙を自分の方へ少し引き寄せた。

 そこには、日付ごとに記号が並んでいた。


 8/29

 ろ-2-9

 ま-4-3

 に-1-15

 う-3-6

 ろ-5-11

 か-2-2

 ま-1-8


 9/24

 に-3-4

 う-2-9

 ろ-1-6

 ま-5-2

 か-1-12


 その下にも、同じようなカードの控えが続いている。

 どれも、最初にひらがなが一文字あり、そのあとに数字が二つ並んでいた。


「数字だけじゃないんですね」

 私が言った。


「そうなの」

 菜穂は紙をのぞき込みながら答えた。


「私もそこが気になった。ろ、って何? 最初は六の書きかけかと思ったんだけど、ほかにも、に、とか、う、とか、ま、とかあるでしょう」


「原物を見ても、数字の六ではなく、ひらがなの『ろ』でした」

 千尋さんが言った。


「じゃあ、棚の記号とか?」

 菜穂が指先で紙の端を軽く叩いた。


「図書館って、本棚に番号とか、分類の記号とかあるじゃない。ろの棚、二段目、九冊目、みたいな」


 千尋さんは少し考えるように控えの紙へ目を落とした。

「たしかに、最初に思いつくなら、場所の記号かもしれません」


「でしょう?」

 菜穂は少しだけ得意そうに言った。


 けれど千尋さんは、すぐに困ったように眉を下げた。

「でも、葉住市立図書館では、児童書コーナーの棚をひらがな一文字で管理してはいません。分類番号や著者名の表示はありますが、このカードの書き方とは違います」


「じゃあ、棚じゃないかあ」

 菜穂は唇を少し尖らせた。


「でも」

 私は静かに言った。

「今の考え方は、たぶん近い」


「え?」


「何かの場所を示している、というところまでは合っている気がする」

 私は、紙に並んだ記号を指先で追った。


「ただ、それは図書館の棚ではない」


「じゃあ、どこの場所?」

 菜穂が聞く。


 私はすぐには答えなかった。


 ろ-2-9。

 ま-4-3。

 に-1-15。

 う-3-6。


 ひらがな一文字。

 そのあとに、数字が二つ。


 数字だけなら、棚や段や冊数を考えたかもしれない。けれど、最初にひらがなが置かれているせいで、どこか普通の番号からは外れている。


「このカードが、道端に落ちていたなら」

 私は、ゆっくりと言った。


「別の考え方をしたと思います。でも、入っていたのは『赤い蝋燭と人魚』の後ろのポケットです」


 千尋さんが、わずかに息をのんだ。

「本の中、ということですか」


「はい。ただ、ページ番号そのものではない気がします。最初が数字ではなく、ひらがなだから」


「ひらがな……」

 菜穂がもう一度、控えの紙を見た。


 ろ。

 ま。

 に。

 う。

 か。


 ばらばらに見えたひらがなが、急に、どこかへ入るための小さな札のように見え始めた。


「たとえば」

 私は少し考えながら言った。


「そのページの最初の文字を、目印にしているのかもしれない」


「最初の文字?」


「うん。たとえば、本の中に、最初の文字が『ろ』で始まるページがある。そのページの二列目、九文字目。そういう読み方」


「ろ-2-9なら、ろで始まるページの、二列目の九文字目?」


「仮説だけどね」


 私は、控えの紙から顔を上げた。

「同じ本なら、どこでページが始まるかも、どこで列が折り返すかも同じです。でも、別の版の本ではきっと合わない。だから、この暗号は、その本が手元にないと確かめようがない」


 私は、目の前にない本のページを想像した。

 縦に並んだ文字。

 紙の端から始まる一行目。

 そこに置かれた、たった一文字の目印。


 誰かがその目印を頼りにページを開き、そこからまた一文字を拾い上げる。

 まるで、本の中に沈んでいる小さな貝殻を、一つずつ探すようだった。


「確かに、それが本当に合ってるかは、その本を見ないとわからないか」

 菜穂が言った。


「そう」

 私はうなずいた。


「今は、そういう読み方があり得る、というだけ。違っているかもしれない」


「違っているかもしれないの?」


「うん。でも、少なくとも外の場所や暗証番号ではなさそうだよね」


 私は、千尋さんに向き直った。

「その本を見れば、何かは確かめられると思います」


 千尋さんは少し迷ったようだった。


 それは、利用者情報ではない。

 けれど、図書館の本を、誰かの私的な暗号の鍵として使うことになる。


 その迷いを、私は急かさなかった。


 千尋さんはルイボスティーのカップに触れ、まだ温かいことを確かめるように、両手で包んだ。


「図書館の中でなら、どなたでも読むことのできる本です」

 やがて、千尋さんはそう言った。


「明日、来ていただければ、実物を見ていただくことはできます」


「ありがとうございます」

 私は静かに頭を下げた。


 菜穂がもう一度、日付の列を見た。


 8/29。

 9/24。

 10/10。

 10/28。

 11/14。

 11/26。


 ただの記号だったものが、少しずつ違う形に見え始めていた。


 それは、誰かがどこかへ向けて残した合図ではない。

 どこへも行かない古い児童書の中で、言葉を探すための足跡なのかもしれなかった。



ここまでお読みいただきありがとうございます。


謎が顔を出してきました。

図書館の奥の方って、ワクワクしますよね。


しばらくは毎日20時に更新予定です。

こもれびで起こる小さな謎を、ゆっくり楽しんでいただけたら嬉しいです。

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