第二章 児童書の謎(一)
菜穂がそのカードを見つけたのは、葉住市立図書館の児童書コーナーだった。
その話を聞いたのは、夕方になってからだ。けれど菜穂が話す図書館の空気は、私の知っている葉住市立図書館そのものだった。
市民センターの向かい、川べりに建つその図書館は、入口を入ると少しだけ空気が変わる。外の道路を走る車の音も、商店街の話し声も、ガラス戸を一枚はさんだだけで遠くなる。紙と糊と、古い木の棚の匂いが、静かに息をしている場所だった。
菜穂はその日、手元にある本を読みつくしてしまい、新たな本を探しに図書館へ寄ったのだという。けれど、入口から返却カウンターへ向かう途中で、児童書コーナーの奥にある低い棚が目に入った。
そこには、昔の読み聞かせ会で使われていた古い児童書や絵本が何冊か並んでいる。傷みやすいため貸出はできず、図書館の中でだけ読むことができる本たちだった。
どこへも行かない本。
菜穂は、そこでふと足を止めたらしい。背表紙の色が褪せた一冊に、見覚えがあったからだ。急いで返却手続きをすませると、その児童書コーナーへ足を向けた。
「これ、まだあったんだ」
声に出したつもりはなかったのに、言葉は小さく棚の前に落ちたのだと、菜穂はあとで少し照れたように言った。
それは小川未明の『赤い蝋燭と人魚』だった。絵本と呼ぶには挿絵も少なく文字が多い。かといって作品集などとは違って、余白が多くとられた、児童書に近い絵本だった。表紙には蝋燭を手にした人魚が描かれている。
菜穂はその絵本をそっと手に取った。表紙の角は丸くなり、紙は少し波打っていたという。けれど、子どもの頃に見た挿絵の色は、記憶の中よりもずっと静かで、やさしかったらしい。
何気なくページをめくり、最後までたどりついたところで、菜穂の指が止まった。
後ろ見返しに、古い貸出カードのポケットが残っていた。
今はもう使われていない、紙の小さな袋。
私にも覚えがある。読みたい本を借りるとき、司書さんがそこからカードを抜き取っていた。以前に借りていた人の名前を見て、自分と同じような趣味を持つ人に思いをはせたこともある。学校の図書館に至っては個人名が書かれていたので、この人こんな本を読むのねと、今なら考えられないくらい個人情報が筒抜けだったあの頃が懐かしい。
今はバーコード管理になったので、この仕事は司書さんたちの手から離れることになったようだ。
そのポケットに、一枚のカードが入っていた。
古い貸出カードに似せた形をしている。けれど紙は新しく、白さだけがそこから少し浮いて見えたという。
菜穂は、カードを引き抜いた。
書かれていたのは、名前ではなかった。文章でもなかった。
11/26
ろ-5-2
に-3-7
う-4-1
ま-2-12
ろ-1-8
ただ、それだけだった。
「……なに、これ」
そのひらがなと数字の羅列は、何かを隠しているように見えた、と菜穂は言った。いたずらにしては静かすぎる。忘れ物にしては、あまりにもわざとらしい。
菜穂はカードを手にしたまま、近くのカウンターへ向かった。
その時、貸出カウンターの内側にいた真鍋千尋さんが、カードを見るなり、ほんの少しだけ表情を変えたらしい。
「これ、あの絵本に入っていましたか」
菜穂はうなずいた。
「はい。後ろのポケットに」
千尋さんはカードを受け取ると、困ったように目を伏せた。
「ありがとうございます。実は、これで初めてではないんです」
その一言が、菜穂の中に小さく残ったのだと、あとで話す声からもわかった。
けれど、貸出カウンターの前でそれ以上くわしく聞くことはできなかった。
千尋さんはそのカードをカウンターの内側に置き、すぐにいつもの司書の顔へ戻った。隣のカウンターでは、別の利用者が本を差し出している。児童書コーナーの方からは、小さな子どもが母親に絵本を読んでもらう声が、途切れ途切れに聞こえていたという。
ここは図書館だった。
本のことなら話せても、人のことを不用意に広げる場所ではない。
菜穂はそれ以上たずねず、ただ一度だけ、児童書コーナーの奥を振り返った。
低い棚の中に、『赤い蝋燭と人魚』は何事もなかったように戻されていた。表紙の人魚は、色褪せた赤い蝋燭を胸の前に掲げて、こちらを見ていたらしい。
まるで、まだ何かを隠しているように。
菜穂は借りる本を二冊選び、迷った末に、「こういう小さな不思議を、無理に人を探さず考えるのが得意な知り合いがいます」とだけ、真鍋さんに伝えた。
外へ出ると、川沿いの風が思ったより冷たかったという。桜並木の葉はほとんど落ち、枝だけの影が歩道に細く伸びている。冬はまだ始まったばかりではない。けれど、もう秋の顔もしていなかった。
借りた本は二冊。返した本は三冊。それなのに、菜穂の頭の中に残っていたのは、どちらでもなかった。
11/26。
ろ-5-2
に-3-7
う-4-1
ま-2-12
ろ-1-8。
日付と、ひらがなと数字だけのカード。
そして、千尋さんの言葉。
これで初めてではないんです。
*
その日の夕方、菜穂はこもれびのドアを開けた。
カラン、とベルが鳴る。
外の冷えた空気が背中に残っていたせいか、店内の珈琲の香りはいつもより濃く感じられた。カウンターの奥では春日井透がカップを磨いている。壁時計は、いつものように少しだけ澄ました顔で時を刻んでいた。
私は奥の席にいた。
こもれびには、店の一番奥に、本棚と木の仕切りで囲まれた席がある。完全な個室ではないけれど、そこだけ少し空気が薄く分かれているような場所だった。声を落とせば、隣のテーブルには届かない。逆に、誰かが泣いていても、見なかったことにしてもらえる。
春日井さんはその席を、特別扱いしているわけではない。
けれど、なぜか大事な話は、いつもそこへ集まってしまう。
「菜穂、何か見つけてきた顔してる」
私は、カップを両手で包んだまま言った。
「顔でわかる?」
「わかる。そういう時の菜穂は、まだ座ってもいないのに目だけ先にしゃべってる」
「やだ、そんなに前のめり?」
「かなり」
私が少し笑うと、菜穂はコートを脱ぎ、奥の席に腰を下ろした。バッグから借りてきた本を出してテーブルの端に置く。その上に、図書館でもらった利用案内の紙が一枚、はらりと落ちた。
「今日ね、図書館で変なものを見つけたの」
「変なもの?」
「古い児童書の後ろに、カードが入ってた。昔の貸出カードみたいな形なんだけど、新しい紙で」
私は、手の中のカップの温度が少し遠くなるのを感じた。
「何が書いてあったの?」
「名前でも文章でもなかった」
菜穂は、記憶に残っている数字を指先でなぞるように、テーブルの上に小さく書く真似をした。
「日付と、ひらがな一文字と数字だけ」
私はカップを持ち上げかけた手を止めた。
「ひらがな一文字と数字だけ?」
「うん。図書館の真鍋さんに渡したら、こう言われたの。これで初めてではないんです、って」
その時だった。
ドアベルがもう一度鳴った。
カラン。
入ってきたのは、さっき図書館でカードを受け取った真鍋千尋さんだった。
白いブラウスに、紺色のカーディガン。肩にかけた布のバッグを、胸の前で少し押さえるようにしている。図書館で見た時よりも、迷いが顔に出ているように見えた。
春日井さんが静かに顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
千尋さんは店内を見回し、奥の席にいる菜穂を見つけると、小さく頭を下げた。
「先ほどはどうも……」
菜穂は驚いて立ち上がりかけた。
「真鍋さん」
「あのあと少し考えて……思い切って伺いました」
私は菜穂を見る。
菜穂は少しだけ肩をすくめた。
「ごめん。図書館で少しだけ話したの。こういう小さな謎を、無理に人を探したりしないで考えてくれる人がいるって」
千尋さんはすぐに言葉を添えた。
「もちろん、利用者の貸出記録や個人情報に関わることは、一切お話しできません。私が知っていることも、その範囲のものだけです」
その声は、図書館のカウンターにいた時と同じだった。
やわらかいけれど、線がある。
「ただ、本そのものに起きていることとして、少しだけ相談できればと思いまして」
私はゆっくりとうなずいた。
「それなら、どうぞ。ここは、少し声を落とせば大丈夫です」
春日井さんが、何も聞かずに奥の席へもう一つ椅子を運んできた。
「温かいものをお持ちします。何がよろしいですか」
千尋さんはほっとしたように、けれどまだ緊張を残したまま頭を下げた。
「では、ルイボスティーをお願いします」
カップが置かれるまでのあいだ、誰も急かさなかった。
こもれびの奥の席には、紙と珈琲と古い木の匂いが、静かにたまっていた。
千尋さんは布のバッグから、一枚の封筒を取り出した。
「原物は図書館で保管しています。こちらは、私が内容だけ控えたものです」
封筒から出てきた白い紙には、いくつかの日付と、記号の列が並んでいた。
私はそれを見下ろす。
菜穂も、思わず息を止めた。
カードは一枚ではなかった。
8/29。
9/24。
10/10。
10/28。
11/14。
そして、今日見つけた日付。
11/26。
どこへも行かないはずの古い児童書の中で、何かだけが、秋のあいだずっと行き来していた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
新たな謎の始まりです。貸出票、懐かしいですよね。
しばらくは毎日20時に更新予定です。
こもれびで起こる小さな謎を、ゆっくり楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。




