第一章 壁時計の謎(四)
次の土曜日も、こもれびのドアベルはいつも通りに鳴った。
カランカラン。
その音を聞いた瞬間、私は先週から耳の奥に残っていた壁時計の音を思い出した。
チ、チ、チ。
もちろん、店に入れば本物の音が聞こえる。
黒に近い木枠の時計は、先週と同じ場所で、何事もなかったように針を進めていた。
「こんにちは。いつもの二つ、お願いします」
菜穂はいつも通りだった。
勢いよく席に座り、紙袋を椅子の横へ置き、コートを脱ぎながら、もう会社の話を始める準備をしている。
「聞いて。今週もまたすごいのが来たから」
「すごいの」
「そう。人間関係って、どうして毎週新作が出るのかしらね」
私は笑った。
笑ったけれど、視線はどうしても壁時計の方へ行ってしまう。
菜穂が、ぴたりと口を止めた。
「……行ったでしょ」
「どこへ?」
「とぼけない。金曜日の夕方。こもれび」
私は脱いだコートを椅子に掛けようとしたまま、少しだけ動きを止めた。
「顔に出てる?」
「出てる。今の澪、会社の愚痴を聞く顔じゃなくて、犯人を前にした探偵の顔してる」
「犯人なんていないわよ」
「じゃあ、時計を前にした探偵」
その言い方がおかしくて、私は少しだけ笑った。
「それほど大層な話でもないのだけれど」
断りを入れるようにつぶやいて、私は改めて壁の時計を見やった。
しかし菜穂の顔を見る限り、彼女の好奇心はまだ収まっていないようだった。
春日井さんが、音もなく二人の前にカップを運んできた。
「どうやら今日は、お仕事の話題ではないようですね」
穏やかな声が、店内の空気に溶けるように響いた。春日井さんには、すべてお見通しのようだ。
「すごいのよりすごそうだから聞かせてよ。澪は納得いった顔してるけど、私にとっては十分謎なんだから」
「そうか、そうよね。じゃあ、何が謎か挙げてみて」
「ん、オーケー! じゃあ挙げてみるね。私と澪が気になったことだから、春日井さんの話とかも出るけど、そこは大目に見てね」
「もちろんですよ。私のことがどう出てくるか、とても楽しみです」
春日井さんの懐の深い言葉に安心して話し出そうとした、その時だ。
カランカラン。
笑顔で話しながら、絹子さんと宗一さんがこもれびへ入ってきた。
「あら、愚痴の会、始まってるのね」
爽やかに絹子さんがそう言って、さりげなく同じ席へ荷物を置いた。
始まってるのね、なんて言っているが、もちろんこの会で菜穂が不思議がっていた謎が解けるのを知っているのだ。絹子さんにつかまって前回の話をしたと、菜穂から聞いている。
あわせて、自分の情報がどのように使われて謎が解けるのか、気になっているのだろう。
宗一さんは、いつもの奥の席にいつものように座っている。静かに新聞を広げて読み出した。
「つまりさ」
菜穂は、カップを両手で包みながら言った。
「こもれびの壁時計の変なところって、ひとつじゃないのよね」
宗一さんは新聞を広げていたけれど、ページはさっきから一枚もめくられていない。
「まず、土曜日の午前中。私たちがここに来るとき、この時計はだいたいいつも五分遅れてる。三分でも七分でもなく、ほぼ五分」
菜穂が壁時計を見上げる。
「それから、春日井さんがその時計を放っておくとは思えない。カップの重さとか、コースターの木目とか、珈琲豆の焙煎とか、そこまで気にする人が、店の真ん中にある時計だけ雑にするとは思えないもの」
春日井さんは、少しだけ苦笑した。
「そこまで見られているとは思いませんでした」
「見ますよ。常連ですから」
菜穂が胸を張る。
私は昔から変わらない菜穂の様子に、思わず吹き出してしまった。
チ、チ、チ。
「それで三つ目」
菜穂は、今度は奥の席へ視線を向けた。
「この時計は、松尾さんが金曜日に見てるんですよね」
宗一さんは、新聞から目を上げなかった。
けれど、カップを持つ手が、ほんの少しだけ止まったように見えた。
「金曜日に時計屋さんが見ている。それなのに、翌日の土曜日にはもう五分遅れてる。これも変」
「古い時計だから、多少はずれるんじゃないの?」
絹子さんが、わざとらしく首をかしげる。
母はこういうとき、知らないふりをするのがうまい。知らないふりをして、こちらがどこまで考えているのかを見る。
「そこなの」
私は言った。
「春日井さんが、前に言っていましたね。松尾さんが、この時計は少し走るって」
「走る?」
絹子さんが聞き返す。
「実際の時間より、少し進みやすいということです」
春日井さんが、静かに補足した。
「古い時計には、そういう癖があるそうです」
「つまり」
菜穂が、待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「遅れる時計じゃなくて、進む時計なのよ。それなのに土曜日には五分遅れてる。ここが一番気持ち悪い」
絹子さんが、ふうん、と言って壁時計を見た。
「進む時計が、遅れている」
「そう」
私はうなずいた。
「それに、松尾時計店の店先の時計は、ぴったり合っていました」
「それはそうでしょう」
宗一さんが、初めて口を開いた。
低く、静かな声だった。
「時計屋の看板時計がずれていたら、商売になりませんから」
菜穂が、にやりと笑った。
「そうなんです。つまり、松尾さんは時計を合わせられない人じゃない。むしろ、一分もずらさない人です」
宗一さんは、それ以上は何も言わなかった。
その沈黙が、かえって答えの輪郭を少し濃くした。
「だから」
菜穂は、指先で自分の腕時計を軽く叩いた。
「こもれびの時計が五分遅れているのは、壊れているからでも、古いからでも、うっかりでもないんじゃないかって話になる」
店内が、少しだけ静かになった。
チ、チ、チ。
壁時計だけが、変わらず時を刻んでいる。
「誰かが、そうしてる」
私がそう言うと、春日井さんはカウンターの中で手を止めた。
絹子さんは、カップに口をつけたまま、目だけで私を見ている。
菜穂は、もう答えを聞く準備ができている顔だった。
そして宗一さんは、新聞を閉じた。
その音は、とても小さかったのに、こもれびの中ではずいぶん大きく聞こえた。
「誰のための五分なのか」
そう言ってから、私はしばらく黙って頭の中を整理した。
「何のために、あの時計は五分遅れるのか。ううん、違う。何のためではなく、誰のために」
菜穂が補足するように言った。
「誰が時計を遅らせてるかって、この場合、時計を触れる人って限られるよね」
「ええ」
私はうなずいた。
「春日井さん。こもれびの時計は、毎週金曜日に松尾さんが見ているんですよね」
春日井さんは、少しだけ宗一さんの方を見た。
それから、静かに答える。
「はい。古い時計ですから、ゼンマイや振り子の調子を見ていただいています」
「金曜日の、夕方に」
「……ええ」
その短い間で、春日井さんが何を考えたのかは分からない。
ただ、その目は驚いてはいなかった。
「金曜日に時計を見ているのに、土曜日には五分遅れている。しかも、その時計は本来、少し進みやすい」
私は壁時計を見上げた。
長針は、相変わらず少しだけのんびりした顔をしている。
「だったら、自然に遅れたんじゃありません。金曜日に、五分遅らせているんです」
菜穂が小さく息をのんだ。
「でも、五分遅らせたら、次の週にはまた五分ずれて、どんどん遅れていかない?」
「普通ならね」
私は言った。
「でも、この時計は少し走る。つまり、一週間かけて少しずつ進むんです」
絹子さんが、カップを置いた。
「なるほどね」
その声には、面白がっている響きがあった。母はこういうとき、本当に楽しそうな顔をする。
「金曜日に五分遅らせる。そこから一週間かけて、時計が少しずつ進む。次の金曜日には、ほぼ正しい時刻に戻っている」
菜穂が、腕時計と壁時計を交互に見た。
「それで、また金曜日に五分遅らせる」
「そう」
「だから私たちが土曜日の午前中に見ると、いつも五分遅れてる」
「そういうことだと思う」
言ってしまえば、仕組みは単純だった。
古い時計の癖を知っている人が、その癖を利用している。
それだけのこと。
けれど、単純だからこそ、そこには意図があった。
「問題は」
私は、奥の席へ視線を向けた。
「なぜ、そんなことをするのかです」
宗一さんは、黙っていた。
否定もしない。驚きもしない。
ただ、新聞を閉じたまま、テーブルの上に置いている。
「昨日の原田さん、間に合いましたよ」
私は、先週の春日井さんの声を思い出しながら言った。
「あの言葉が、ずっと気になっていました。間に合った、というのは何に間に合ったのか」
菜穂が、あっと小さく声を漏らした。
「閉店時間」
「たぶんね」
私はうなずく。
「原田さんは、金曜日の夕方に通院の帰りにここへ寄る。絹子さんから聞いた話では、とても遠慮深い人で、自分のために誰かが気を遣うことを嫌がる人」
「そうなのよ」
絹子さんが口を開いた。
「原田さんはね、誰かに迷惑をかけるくらいなら、自分が黙って引っ込む人なの。『大丈夫ですよ』って言われたら、その大丈夫が本当に大丈夫かどうかを、相手の顔色まで見て確かめるような人」
菜穂が、少しだけ眉を下げた。
「いるね、そういう人。優しいんだけど、自分には厳しすぎる人」
「だから」
私は言った。
「もし閉店時間を過ぎてしまうと思ったら、原田さんは入らない。春日井さんが『どうぞ』と言っても、きっと遠慮してしまう」
春日井さんは何も言わなかった。
けれど、カウンターの上に置かれた手が、ほんの少しだけ止まっていた。
「金曜日の夕方、私もここへ来てみました」
菜穂が、やっぱり、と口の形だけで言った。
「原田さんは、店に入る前に壁時計を見ました。閉店までまだ少しあると確認してから、カウンターの端に座ったんです」
あのときの原田さんの表情を、私は思い出す。
ほんの少しだけ肩の力が抜けたような、ほっとした顔。
春日井さんは、何も言わずにいつもの珈琲を淹れていた。
原田さんもまた、何も言わなかった。
ただ、いつもの席で、一杯だけ珈琲を飲んでいた。
「本当の時刻なら、もう入るのをためらう時間だったんだと思います」
店内が静かになる。
チ、チ、チ。
壁時計の音が、少しだけ大きく聞こえた。
「でも、原田さんが見た壁時計は、まだ珈琲一杯飲むのに大丈夫と思える時間だった」
私は宗一さんを見た。
「だから、原田さんは『間に合った』と思えた」
宗一さんは、壁時計を見上げた。
その顔には、困ったような、少し照れたような、けれどどこか穏やかな表情が浮かんでいた。
「……よく見ていらっしゃる」
やがて、宗一さんが言った。
それは肯定でも否定でもなかった。
でも、その場にいた誰もが、それを答えだと受け取った。
「でも」
菜穂が、少しだけ身を乗り出した。
「それなら春日井さんが、五分くらい閉店を遅らせればいいんじゃない?」
それは、とても自然な疑問だった。
たぶん、誰もが最初にそう思う。
春日井さんなら、きっと笑って「大丈夫ですよ」と言うだろう。
五分くらいなら、何でもないような顔で待つだろう。
けれど、それでは駄目なのだ。
「原田さんは、それを知ったら来られなくなるんだと思う」
私が言うと、絹子さんが小さくうなずいた。
「自分のために店を開けてもらっている、と思ってしまうから」
「そう」
私は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「優しさって、伝えればいいとは限らないんだと思う。相手によっては、伝わった瞬間に重荷になることがある」
カウンターの中で、春日井さんが静かに目を伏せた。
宗一さんは何も言わなかった。
ただ、壁時計を見上げている。
「だから、時計なんですね」
私は言った。
「誰かが待っているわけじゃない。誰かが特別扱いしているわけでもない。ただ、時計がそう示しているだけなら、原田さんは安心して入れる」
菜穂は、何かを言いかけて、やめた。
その沈黙がいつもの菜穂にしては珍しくて、私は少しだけ驚いた。
「五分だけ、時間が遅れる」
私の声は、自分で思ったよりも小さかった。
「誰かが、まだ間に合ったと思えるように」
チ、チ、チ。
古い時計は、何も知らない顔で動いている。
けれど、たぶん本当に何も知らないわけではない。
少なくともこの店では、あの五分は、ただの遅れではなかった。
宗一さんは、ゆっくりと新聞を畳んだ。
「時計は、正しい時刻を示すためにあります」
宗一さんは、静かに言った。
「けれど、正しさだけが、人を安心させるとは限りません」
その言葉を最後に、宗一さんはカップを持ち上げた。
春日井さんが、ほんの少しだけ微笑んだ。
菜穂は壁時計を見上げ、絹子さんは「まあ、粋なこと」と小さくつぶやいた。
私は、時計の音を聞いていた。
チ、チ、チ。
その音は、もう私を急かしてはいなかった。
宗一さんが珈琲を飲み終わり、いつものように息子さんが待つ時計店へ帰っていき、菜穂がすごい話を一通り終えたあと、絹子さんが静かに話し出した。
「小耳にはさんだんだけど、原田さん、いつもの通院に加えて、違う病気の疑いで検査続きだったらしいわ。それでいつもより帰りが遅くなってしまったのね。でも、その検査も終わって、何もなかったって嬉しそうに話していたらしいわ」
「じゃあ、もう五分遅れることもないんだね」
菜穂が、壁時計を見上げて言った。
黒に近い木枠の中で、長針は静かに進んでいる。
今の時刻は、私の携帯電話とほとんど同じだった。
「そうかもしれないわね」
絹子さんが、カップを両手で包みながら言った。
「必要がなくなったなら、それが一番いいもの」
春日井さんは、カウンターの中でカップを拭いていた。
その手がほんの少しだけ止まったように見えたけれど、何も言わなかった。
言わなくていいのだと思った。
原田さんは、自分のために時計が五分だけ遅れていたことを知らない。
知らないまま、金曜日の夕方に「間に合った」と思って、カウンターの端に座った。
知らないまま、いつもの珈琲を飲んで、少しだけ安心して帰っていった。
それでいい。
優しさは、相手に気づかれればいいというものではない。
届かない場所に置いておくから、重荷にならずに済むものもある。
私はもう一度、壁時計を見上げた。
チ、チ、チ。
古い時計は、今日は正しい時刻を刻んでいる。
けれど私は知っている。
こもれびの時計は、誰かのために五分遅れていたことがある。
誰かが、まだ間に合ったと思えるように。
その五分は、誰にも説明されるためのものではなかった。
言葉にしてしまえば消えてしまう、こもれびだけの小さな余白だった。 次の土曜日も、こもれびのドアベルはいつも通りに鳴った。
カランカラン。
その音を聞いた瞬間、私は先週から耳の奥に残っていた壁時計の音を思い出した。
チ、チ、チ。
もちろん、店に入れば本物の音が聞こえる。
黒に近い木枠の時計は、先週と同じ場所で、何事もなかったように針を進めていた。
「こんにちは。いつもの二つ、お願いします」
菜穂はいつも通りだった。
勢いよく席に座り、紙袋を椅子の横へ置き、コートを脱ぎながら、もう会社の話を始める準備をしている。
「聞いて。今週もまたすごいのが来たから」
「すごいの」
「そう。人間関係って、どうして毎週新作が出るのかしらね」
私は笑った。
笑ったけれど、視線はどうしても壁時計の方へ行ってしまう。
菜穂が、ぴたりと口を止めた。
「……行ったでしょ」
「どこへ?」
「とぼけない。金曜日の夕方。こもれび」
私は脱いだコートを椅子に掛けようとしたまま、少しだけ動きを止めた。
「顔に出てる?」
「出てる。今の澪、会社の愚痴を聞く顔じゃなくて、犯人を前にした探偵の顔してる」
「犯人なんていないわよ」
「じゃあ、時計を前にした探偵」
その言い方がおかしくて、私は少しだけ笑った。
「それほど大層な話でもないのだけれど」
断りを入れるようにつぶやいて、私は改めて壁の時計を見やった。
しかし菜穂の顔を見る限り、彼女の好奇心はまだ収まっていないようだった。
春日井さんが、音もなく二人の前にカップを運んできた。
「どうやら今日は、お仕事の話題ではないようですね」
穏やかな声が、店内の空気に溶けるように響いた。春日井さんには、すべてお見通しのようだ。
「すごいのよりすごそうだから聞かせてよ。澪は納得いった顔してるけど、私にとっては十分謎なんだから」
「そうか、そうよね。じゃあ、何が謎か挙げてみて」
「ん、オーケー! じゃあ挙げてみるね。私と澪が気になったことだから、春日井さんの話とかも出るけど、そこは大目に見てね」
「もちろんですよ。私のことがどう出てくるか、とても楽しみです」
春日井さんの懐の深い言葉に安心して話し出そうとした、その時だ。
カランカラン。
笑顔で話しながら、絹子さんと宗一さんがこもれびへ入ってきた。
「あら、愚痴の会、始まってるのね」
爽やかに絹子さんがそう言って、さりげなく同じ席へ荷物を置いた。
始まってるのね、なんて言っているが、もちろんこの会で菜穂が不思議がっていた謎が解けるのを知っているのだ。絹子さんにつかまって前回の話をしたと、菜穂から聞いている。
あわせて、自分の情報がどのように使われて謎が解けるのか、気になっているのだろう。
宗一さんは、いつもの奥の席にいつものように座っている。静かに新聞を広げて読み出した。
「つまりさ」
菜穂は、カップを両手で包みながら言った。
「こもれびの壁時計の変なところって、ひとつじゃないのよね」
宗一さんは新聞を広げていたけれど、ページはさっきから一枚もめくられていない。
「まず、土曜日の午前中。私たちがここに来るとき、この時計はだいたいいつも五分遅れてる。三分でも七分でもなく、ほぼ五分」
菜穂が壁時計を見上げる。
「それから、春日井さんがその時計を放っておくとは思えない。カップの重さとか、コースターの木目とか、珈琲豆の焙煎とか、そこまで気にする人が、店の真ん中にある時計だけ雑にするとは思えないもの」
春日井さんは、少しだけ苦笑した。
「そこまで見られているとは思いませんでした」
「見ますよ。常連ですから」
菜穂が胸を張る。
私は昔から変わらない菜穂の様子に、思わず吹き出してしまった。
チ、チ、チ。
「それで三つ目」
菜穂は、今度は奥の席へ視線を向けた。
「この時計は、松尾さんが金曜日に見てるんですよね」
宗一さんは、新聞から目を上げなかった。
けれど、カップを持つ手が、ほんの少しだけ止まったように見えた。
「金曜日に時計屋さんが見ている。それなのに、翌日の土曜日にはもう五分遅れてる。これも変」
「古い時計だから、多少はずれるんじゃないの?」
絹子さんが、わざとらしく首をかしげる。
母はこういうとき、知らないふりをするのがうまい。知らないふりをして、こちらがどこまで考えているのかを見る。
「そこなの」
私は言った。
「春日井さんが、前に言っていましたね。松尾さんが、この時計は少し走るって」
「走る?」
絹子さんが聞き返す。
「実際の時間より、少し進みやすいということです」
春日井さんが、静かに補足した。
「古い時計には、そういう癖があるそうです」
「つまり」
菜穂が、待ってましたとばかりに身を乗り出す。
「遅れる時計じゃなくて、進む時計なのよ。それなのに土曜日には五分遅れてる。ここが一番気持ち悪い」
絹子さんが、ふうん、と言って壁時計を見た。
「進む時計が、遅れている」
「そう」
私はうなずいた。
「それに、松尾時計店の店先の時計は、ぴったり合っていました」
「それはそうでしょう」
宗一さんが、初めて口を開いた。
低く、静かな声だった。
「時計屋の看板時計がずれていたら、商売になりませんから」
菜穂が、にやりと笑った。
「そうなんです。つまり、松尾さんは時計を合わせられない人じゃない。むしろ、一分もずらさない人です」
宗一さんは、それ以上は何も言わなかった。
その沈黙が、かえって答えの輪郭を少し濃くした。
「だから」
菜穂は、指先で自分の腕時計を軽く叩いた。
「こもれびの時計が五分遅れているのは、壊れているからでも、古いからでも、うっかりでもないんじゃないかって話になる」
店内が、少しだけ静かになった。
チ、チ、チ。
壁時計だけが、変わらず時を刻んでいる。
「誰かが、そうしてる」
私がそう言うと、春日井さんはカウンターの中で手を止めた。
絹子さんは、カップに口をつけたまま、目だけで私を見ている。
菜穂は、もう答えを聞く準備ができている顔だった。
そして宗一さんは、新聞を閉じた。
その音は、とても小さかったのに、こもれびの中ではずいぶん大きく聞こえた。
「誰のための五分なのか」
そう言ってから、私はしばらく黙って頭の中を整理した。
「何のために、あの時計は五分遅れるのか。ううん、違う。何のためではなく、誰のために」
菜穂が補足するように言った。
「誰が時計を遅らせてるかって、この場合、時計を触れる人って限られるよね」
「ええ」
私はうなずいた。
「春日井さん。こもれびの時計は、毎週金曜日に松尾さんが見ているんですよね」
春日井さんは、少しだけ宗一さんの方を見た。
それから、静かに答える。
「はい。古い時計ですから、ゼンマイや振り子の調子を見ていただいています」
「金曜日の、夕方に」
「……ええ」
その短い間で、春日井さんが何を考えたのかは分からない。
ただ、その目は驚いてはいなかった。
「金曜日に時計を見ているのに、土曜日には五分遅れている。しかも、その時計は本来、少し進みやすい」
私は壁時計を見上げた。
長針は、相変わらず少しだけのんびりした顔をしている。
「だったら、自然に遅れたんじゃありません。金曜日に、五分遅らせているんです」
菜穂が小さく息をのんだ。
「でも、五分遅らせたら、次の週にはまた五分ずれて、どんどん遅れていかない?」
「普通ならね」
私は言った。
「でも、この時計は少し走る。つまり、一週間かけて少しずつ進むんです」
絹子さんが、カップを置いた。
「なるほどね」
その声には、面白がっている響きがあった。母はこういうとき、本当に楽しそうな顔をする。
「金曜日に五分遅らせる。そこから一週間かけて、時計が少しずつ進む。次の金曜日には、ほぼ正しい時刻に戻っている」
菜穂が、腕時計と壁時計を交互に見た。
「それで、また金曜日に五分遅らせる」
「そう」
「だから私たちが土曜日の午前中に見ると、五分遅れてる……」
「そういうことだと思う」
言ってしまえば、仕組みは単純だった。
古い時計の癖を知っている人が、その癖を利用している。
それだけのこと。
けれど、単純だからこそ、そこには意図があった。
「問題は」
私は、奥の席へ視線を向けた。
「なぜ、そんなことをするのかです」
宗一さんは、黙っていた。
否定もしない。驚きもしない。
ただ、新聞を閉じたまま、テーブルの上に置いている。
「昨日の原田さん、間に合いましたよ」
私は、先週の春日井さんの声を思い出しながら言った。
「あの言葉が、ずっと気になっていました。間に合った、というのは何に間に合ったのか」
菜穂が、あっと小さく声を漏らした。
「閉店時間」
「たぶんね」
私はうなずく。
「原田さんは、金曜日の夕方に通院の帰りにここへ寄る。絹子さんから聞いた話では、とても遠慮深い人で、自分のために誰かが気を遣うことを嫌がる人」
「そうなのよ」
絹子さんが口を開いた。
「原田さんはね、誰かに迷惑をかけるくらいなら、自分が黙って引っ込む人なの。『大丈夫ですよ』って言われたら、その大丈夫が本当に大丈夫かどうかを、相手の顔色まで見て確かめるような人」
菜穂が、少しだけ眉を下げた。
「いるね、そういう人。優しいんだけど、自分には厳しすぎる人」
「だから」
私は言った。
「もし閉店時間を過ぎてしまうと思ったら、原田さんは入らない。春日井さんが『どうぞ』と言っても、きっと遠慮してしまう」
春日井さんは何も言わなかった。
けれど、カウンターの上に置かれた手が、ほんの少しだけ止まっていた。
「金曜日の夕方、私もここへ来てみました」
菜穂が、やっぱり、と口の形だけで言った。
「原田さんは、店に入る前に壁時計を見ました。閉店までまだ少しあると確認してから、カウンターの端に座ったんです」
あのときの原田さんの表情を、私は思い出す。
ほんの少しだけ肩の力が抜けたような、ほっとした顔。
春日井さんは、何も言わずにいつもの珈琲を淹れていた。
原田さんもまた、何も言わなかった。
ただ、いつもの席で、一杯だけ珈琲を飲んでいた。
「本当の時刻なら、もう入るのをためらう時間だったんだと思います」
店内が静かになる。
チ、チ、チ。
壁時計の音が、少しだけ大きく聞こえた。
「でも、原田さんが見た壁時計は、まだ珈琲一杯飲むのに大丈夫と思える時間だった」
私は宗一さんを見た。
「だから、原田さんは『間に合った』と思えた」
宗一さんは、壁時計を見上げた。
その顔には、困ったような、少し照れたような、けれどどこか穏やかな表情が浮かんでいた。
「……よく見ていらっしゃる」
やがて、宗一さんが言った。
それは肯定でも否定でもなかった。
でも、その場にいた誰もが、それを答えだと受け取った。
「でも」
菜穂が、少しだけ身を乗り出した。
「それなら春日井さんが、五分くらい閉店を遅らせればいいんじゃない?」
それは、とても自然な疑問だった。
たぶん、誰もが最初にそう思う。
春日井さんなら、きっと笑って「大丈夫ですよ」と言うだろう。
五分くらいなら、何でもないような顔で待つだろう。
けれど、それでは駄目なのだ。
「原田さんは、それを知ったら来られなくなるんだと思う」
私が言うと、絹子さんが小さくうなずいた。
「自分のために店を開けてもらっている、と思ってしまうから」
「そう」
私は、ゆっくりと言葉を選んだ。
「優しさって、伝えればいいとは限らないんだと思う。相手によっては、伝わった瞬間に重荷になることがある」
カウンターの中で、春日井さんが静かに目を伏せた。
宗一さんは何も言わなかった。
ただ、壁時計を見上げている。
「だから、時計なんですね」
私は言った。
「誰かが待っているわけじゃない。誰かが特別扱いしているわけでもない。ただ、時計がそう示しているだけなら、原田さんは安心して入れる」
菜穂は、何かを言いかけて、やめた。
その沈黙がいつもの菜穂にしては珍しくて、私は少しだけ驚いた。
「五分だけ、時間が遅れる」
私の声は、自分で思ったよりも小さかった。
「誰かが、まだ間に合ったと思えるように」
チ、チ、チ。
古い時計は、何も知らない顔で動いている。
けれど、たぶん本当に何も知らないわけではない。
少なくともこの店では、あの五分は、ただの遅れではなかった。
宗一さんは、ゆっくりと新聞を畳んだ。
「時計は、正しい時刻を示すためにあります」
宗一さんは、静かに言った。
「けれど、正しさだけが、人を安心させるとは限りません」
その言葉を最後に、宗一さんはカップを持ち上げた。
春日井さんが、ほんの少しだけ微笑んだ。
菜穂は壁時計を見上げ、絹子さんは「まあ、粋なこと」と小さくつぶやいた。
私は、時計の音を聞いていた。
チ、チ、チ。
その音は、もう私を急かしてはいなかった。
宗一さんが珈琲を飲み終わり、いつものように息子さんが待つ時計店へ帰っていき、菜穂がすごい話を一通り終えたあと、絹子さんが静かに話し出した。
「小耳にはさんだんだけど、原田さん、いつもの通院に加えて、違う病気の疑いで検査続きだったらしいわ。それでいつもより帰りが遅くなってしまったのね。でも、その検査も終わって、何もなかったって嬉しそうに話していたらしいわ」
「じゃあ、もう五分遅れることもないんだね」
菜穂が、壁時計を見上げて言った。
黒に近い木枠の中で、長針は静かに進んでいる。
今の時刻は、私の携帯電話とほとんど同じだった。
「そうかもしれないわね」
絹子さんが、カップを両手で包みながら言った。
「必要がなくなったなら、それが一番いいもの」
春日井さんは、カウンターの中でカップを拭いていた。
その手がほんの少しだけ止まったように見えたけれど、何も言わなかった。
言わなくていいのだと思った。
原田さんは、自分のために時計が五分だけ遅れていたことを知らない。
知らないまま、金曜日の夕方に「間に合った」と思って、カウンターの端に座った。
知らないまま、いつもの珈琲を飲んで、少しだけ安心して帰っていった。
それでいい。
優しさは、相手に気づかれればいいというものではない。
届かない場所に置いておくから、重荷にならずに済むものもある。
私はもう一度、壁時計を見上げた。
チ、チ、チ。
古い時計は、今日は正しい時刻を刻んでいる。
けれど私は知っている。
こもれびの時計は、誰かのために五分遅れていたことがある。
誰かが、まだ間に合ったと思えるように。
その五分は、誰にも説明されるためのものではなかった。
言葉にしてしまえば消えてしまう、こもれびだけの小さな余白だった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
第一章 最終回でございました。
ほんの少しの謎の、ほんの少しの優しさのお話でした。
明日から第二章が始まります。
どうぞよろしくお願いいたします。




