第一章 壁時計の謎(三 )
こもれびを出たあとも、壁時計の音はまだ耳の奥に残っていた。
チ、チ、チ。
実際にはもう聞こえるはずがない。
けれど、旧道さくら商店街を菜穂と並んで歩いているあいだも、あの小さな音だけが、どこかで私の後ろをついてきているような気がした。
「まだ時計のこと考えてるでしょ」
菜穂が、隣で紙袋を揺らしながら言った。
「え、やだ。顔に出てた?」
眉間にしわでも寄せていたかと、思わず両頬に手を当て、顔の筋肉を和らげるようにマッサージをしてしまう。
「出てた。澪が考え込むときって、眉間じゃなくて目の奥が静かになるのよね」
「なにそれ」
「長年の観察結果。ところで、美味しい珈琲を飲んだら、家でも飲みたいという気分になると思いませんか? なりますよねぇ。ということで、さっき話題に出ていた焙煎所月ノ香に付き合ってもらってもよいかしら」
ものすごく長いセリフを一息で言い放った菜穂は、返事を聞く前に駅の方へと歩き出した。
焙煎所月ノ香の珈琲は私も大好きで、澪ブレンドを定期購入している。珈琲好きには叱られるかもしれないが、なんともあの酸味が苦手なのだ。
酸味が苦手なのは、相性のいい珈琲に出会えていないだけなのかしらとも思うが、とりあえず今は澪ブレンドを楽しんでいる。
店主の黒瀬さんは、若いころに旅先で飲んだ一杯の珈琲に人生を決められてしまった人だ。なので、月ノ香にはさまざまな珈琲豆が取りそろえてあり、私好みのものも用意してもらえるのだ。
ゆっくりと商店街を駅の方へ向かって歩き出す。秋の終わりの、どこか物寂しいような風が吹き抜ける。
青空は気持ちいいが、春の風とは確実に違う。もう少しで冬が来ると知らせるような風だった。
「月ノ香に行くなら、宗一さんの時計店の方だね」
私が壁時計のことを忘れられずにいると気づいたからか、菜穂がそんなことをつぶやいた。
松尾時計店は、葉住駅へ向かう通りの途中にある。
店先には、看板代わりの大きな時計が掲げられていた。腕時計をする習慣のない私は、町中で確認できる時計をだいたい網羅している。行く先々で、確認をさせてもらうのだ。
ここ、松尾時計店の大きな時計は、私が電車に乗るときに間に合うかどうかの指標となる、大変お世話になっている時計だ。
合っていると思っていた時計がずれているという先ほどの経験から、私は思わず携帯電話を取り出した。
「……合ってる」
「なにが?」
「松尾時計店の時計。時間、ぴったり」
菜穂は店先の時計を見上げ、それから私の携帯電話をのぞき込んだ。
「そりゃ時計屋さんだもの。今日は澪ブレンド買わないの? なら、買ってきちゃうね」
「うん、まだあるから大丈夫よ。行ってきて」
うわの空で答える。
菜穂はやれやれという顔で月ノ香へ入っていった。
そう。
時計屋さんなのだ。
店先の時計を一分もずらさない人が、こもれびの壁時計だけを五分遅れのままにしている。
それを、古い時計だから、という言葉だけで片付けるには、どうにも針の収まりが悪かった。
そして、あの二人の会話だ。
聞くともなしに聞いてしまったけれど、「原田さん」よね。春日井さんはなんて言っていたっけ。
「昨日の原田さん、間に合いましたよ」
間に合いましたよ……。
何に。
閉店時間に、だろうか。
それとも、バスに。
駄目だ。情報が足りないまま考えても、それはただの想像。
ここは我が家の特別ご近所捜査官に聞くしかない。
その名も、河瀬絹子。
我が母である。
「お待たせ! どう? ちょっとは頭の中、整理できた?」
「うん、ありがとう。これからお母さんのところに行ってくる」
「出た。葉住市情報本部」
菜穂は河瀬家のことを茶化したが、その表現はあながち間違いではない。なぜか情報が集まってくる。ちょっとしたことでも、これって……と尋ねると、だいたい、それはねぇ……と答えが返ってくるのだ。
「気になることがあるから、ちょっと情報仕入れてくる。またね」
「今度、もうちょっと早い時間から絹子さんに会いに行くね。んじゃ、また」
菜穂と別れ、我が実家へ向かう。
とはいえ、私の家である雨宮家と実家の河瀬家は、スープの冷めない距離である。実家に向かう道が帰宅路というわけで、体に染みついた慣れた道を歩き出す。
商店街を抜け、「こもれび」へ入る小径を通り過ぎる。まっすぐに行くと、葉住市の医療エリアが見えてくる。総合病院があり、その周辺には小さなクリニックが軒を連ねている。さまざまな診療科があるため、病院には事欠かない。
年を重ねると、病院にお世話になることが多くなるので、この立地は本当に助かる。
ちょうど丁字路の横棒にあたる場所に病院があり、右へ曲がると、その先には大きなショッピングモールがある。菜穂の勤め先である。
ここでお勤めの皆さんが、パンチのきいたストーリーを提供してくれるのである。買い物に行くときはもちろんそんなことはおくびにも出さず、大人の対応をしている。
左へ曲がり、川を渡るとまっすぐ。河瀬家は、旧道さくら商店街から少し離れた住宅地の一角にある。
今どきの家が並ぶ通りの中で、その家だけは少し時間の流れが違って見えた。黒瓦の屋根は低く大きく、深い軒が庭先へ影を落としている。白い漆喰の壁と、落ち着いた色の木の格子。古い家ではあるけれど、傷んだ印象はなく、むしろ毎日きちんと手を入れられていることが、門まわりの掃き清められた石畳からも伝わってくる。
門は木製の引き戸で、横には小さな表札が掛かっている。達筆すぎて少し読みにくい「河瀬」の二文字は、昔から変わらない。
庭には、季節の花が少しずつ植えられていた。春には椿、初夏には紫陽花、秋には菊と小さな薔薇。純和風の家なのに、母は昔から薔薇だけはどうしても植えたがる人だった。剪定された枝のあいだから、古びた縁側が見える。
玄関へ続く飛び石の脇には、苔むした灯籠と低い松。玄関先には小さな鉢植えがいくつか並び、母が今朝も水をやったらしい土の匂いが、かすかに残っていた。
私が門を開けると、家の中から、甲高い声が一度だけ響いた。
チェロさんだ。
茶色い毛玉のようなポメラニアンで、本人は番犬のつもりでいる。けれど外へ出ることはなく、いつも玄関の内側から、来客の種類を慎重に聞き分けている。
「チェロさん。ただいま」
私が声をかけると、すぐ向こうで爪が床を叩く音がした。たぶん、玄関の上がり框のあたりで、尻尾を振りながら待機しているのだろう。
「あら、もう愚痴の会は終わったの?」
庭からひょいっと顔を出したのは、先ほどから噂の特別ご近所捜査官、絹子さんだ。
「うん、終わった。それで、ちょっと気になることがあってね」
「あら、そうなの。じゃあ、あがんなさいな」
絹子さんが「よっこいしょ」と言いながら玄関を上がる。私もあとに続いた。
おとなしく待っていたチェロさんが、絹子さんの足元を嬉しそうにくるくると回っている。私などまったく眼中にないようである。先ほどの挨拶で事足りたようだ。
玄関を上がって、まっすぐ廊下を進む。
チェロさんは、右手にあるチェロさんの部屋、なんという優雅でラグジュアリーな空間だろう、へトトトと入っていき、チェロさん専用ベッドへダイブしている姿が見えた。
「ますます犬離れが進んでるわね。そのうち二本足で歩いて、一緒にお茶飲むわよ、あれ」
「いいじゃない。澪ちゃんのところのマープルも、そのうちしっぽが二本に分かれるんでしょ」
軽口をたたきながら、ダイニングというか、台所の椅子に落ち着く。
私の好きな玄米茶を出しながら、絹子さんが口火を切った。
「んで、なんだって?」
「こもれびの常連さんで、原田さんっていたよね?」
「ああ、原田さんね。宗一さんのお友だちよ。お仕事終わりに病院に行ってるみたいね」
「そうなんだ。体、悪いの?」
「いや、持病があって毎週通ってるんだって。でも最近、いつもの時間に会わないなぁと思って、ちょっと他の人に聞いてみたんだよね」
「ああ、お仕事終わりくらいの時間に見かけなくなったの?」
「うん、そう。そしたら、ここ何週間かは遅い時間に見かけたわ、って聞いたから、時間がずれただけなのねってほっとしたのを覚えてるわ」
「いつもの金曜日よね」
「そう、金曜日」
さすが特別ご近所捜査官である。欲しい情報は確実に手に入った。
しかし、ここで話を終わらせて、じゃあね、と帰るわけにいかないのが、絹子さんの絹子さんたる所以である。もらった情報以上のものを持っていかれるのである。
とりあえず、先ほど愚痴の会でもらいたてほやほやのネタを提供する。ここで提供するのは菜穂も了承済みだ。口が堅いのは、今まで争いごとが起こっていないことで証明されている。
原田さんはとても優しい人で、直接「どうしたんですか」と聞いたりすると、逆にこちらのことを気にして、自分のことより相手のことを考え始めてしまう。自分の通院のことまで後回しにしそうな人だから、こういう話は、私みたいに他からそっと聞くくらいじゃないと入ってこないのよ、と絹子さんはもう一つ情報をくれた。
そろそろいい時間になったので、お暇することにした。
「いつでもご飯食べにおいで」
「ありがとう! 今度みんなで来るね」
家を出て、そんなに離れていない我が家へ急ぐ。
金曜日の夕方。
原田さんが「こもれび」へ来る時間。
そのとき、あの時計は何を示しているのか。
それを確かめなければ、この小さな音は、きっと私の中で鳴りやまない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本日は、一日二回投稿する予定です。
はじめての小説投稿でまだまだ緊張していますが、楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。




