第一章 壁時計の謎(二)
「五分遅れてる? 本当に?」
私は腕時計をしないタイプだから、携帯電話を出さないと時間の確認はできない。そもそも店に時計があるので、確認する必要がなかった。
ごそごそとお気に入りのエコバッグの中から携帯電話を取り出した。
「本当だ……五分遅れてる……」
「でしょ? 私、毎回見てるんだからさ。すごいでしょ?」
軽い自画自賛をぶち込みつつ、菜穂が自慢げな顔をしている。
菜穂は高校生のころから腕時計が好きで、いつもいろいろなテイストの時計をつけている。今日は青いストーンのついた、ブレスレットのような時計をしていた。
「え? ずっとじゃないよね? いつから?」
私は思わず聞いた。
五分なんて、気づかない程度の時間ではある。
珈琲を飲みに来ているのだから、のんびりしたいというのはあくまでも私の考え方であって、店の時計がずれていていいわけではないだろう。
春日井さんにも、時間にとらわれずゆっくりしていってほしいという基本的な考え方はあるのだろうが、電車に乗る人や、バスで帰る人のために、大きな壁時計が設置されている……と思っていた。
「今月に入ってからよ。気づいたのはね。でも、時間を見るのが癖みたいなものだから、ずれた日と、私が気づいた日にはそんなに差がないと思うけどね」
「毎回って、土曜日に来たとき?」
「そう。土曜日の午前中。私たちがここに来ると、だいたい五分遅れてる」
「だいたい?」
「いや、ほぼ五分。そこが気持ち悪いのよ。古い時計なら、三分だったり七分だったりしそうじゃない?」
菜穂はそう言って、自分の腕時計を見た。
青い石のついた文字盤が、ランプの光を小さく返す。
「しかも、春日井さんがそんなに雑に時計を放っておくと思う?」
「思わない」
それは、即答できた。
この店で、春日井さんが何かを雑に扱うところを、私は見たことがない。
「でしょう? カップの重さまで気にする人が、壁時計だけ五分遅れっぱなしって、変じゃない?」
「たしかに」
「それに、松尾さんが見てるんでしょ? 金曜日に」
菜穂の視線が、奥の席へ向いた。
宗一さんは珈琲を美味しそうに飲み、静かに壁時計へ視線を向けたように見えた。
つられて、私も壁時計を見上げた。
入口から見て正面寄り、店の前庭に面した壁には、窓から「こもれび」へ入ってくる細い路地が見えている。
その壁は重厚な雰囲気で、さまざまな絵画や装飾品が掛かっている。これがいわゆる英国式パブのような、と言われる部分なのだろう。
時計は、その壁の中央あたりに掛かっている。
黒に近い木枠は、長い年月を吸い込んだように艶を帯びていて、文字盤の白だけが、店内の落ち着いた色の中で静かに浮かんでいた。
振り子の小窓からは、金色の丸い錘がゆっくりと揺れている。
チ、チ、チ。
急かすでもなく、眠らせるでもなく、ただそこにいる人たちの時間を、少しずつ整えているような音だった。
その木枠の中で、長針は少しだけのんびりした顔をしている。
「古い時計だから、多少は仕方ないんじゃない?」
「古い時計だから多少は仕方がないっていうなら、ほぼ五分というところが腑に落ちないのよー! ずれってそんなに几帳面!? おかしいじゃない」
春日井さんは、私たちの会話が聞こえていたらしく、少しだけ困ったように笑って言った。
「松尾さんが、さっきもおっしゃっていましたよ」
「何をですか?」
「この時計は、少し走る、と」
「走る?」
菜穂が首をかしげる。
「実際の時間より、少し進みやすいそうです。古い時計には、そういう癖があるんだとか」
「進みやすいんですか? 遅れるのではなく……」
「正確すぎる時計より、この店には合っている気がしまして。お代わりはいかがですか?」
春日井さんは、そこで話を切るように、静かに珈琲ポットを持ち上げた。
追及されたくないというより、それ以上はこの場で言葉にしない方がいい、と判断した人の動きだった。なんとなく、そんな気がした。
細い湯気を立てながら、深い色の珈琲がカップへ落ちていく。
表面に小さな波紋が広がり、すぐに静かになった。
菜穂は「いただきます!」と、さっきまでの疑問を珈琲の香りであっさり棚上げにした。そういうところが菜穂らしい。
ふと視線を向けると、いちばん奥の席では宗一さんが静かに新聞を広げていた。
ただ、その指先が紙をめくる速度はどこまでも緩やかで、時折思い出したかのように、顔を上げて壁時計を仰ぎ見ている。
喫茶店で時計に目をやる客など、決して珍しい存在ではない。
けれど、宗一さんのあの眼差しは、単に時刻を確認しているというよりは、まるで古い時計の機嫌をそっとうかがっているかのように私には見えたのだ。
珈琲の香りは、さっきより少し深く感じられた。
春日井さんは、私たちのカップに静かに珈琲を注ぎ終わると、何事もなかったようにカウンターの中へ戻っていく。
「で、話戻すけどさ」
菜穂はもう会社の話に戻るつもりらしい。
その切り替えの早さは、昔から変わらない。
けれど私は、どうにも壁時計から目を離せなかった。
今日の「こもれび」では、何人かのお客さんがのんびりとそれぞれの時間を過ごしていた。
窓際の二人がけの席には、若いカップルが一組。向かい合っているのに、二人とも別々の本を読んでいる。けれど時々、どちらかが相手のカップを指さして、小さく笑う。
本棚の近くでは、白髪まじりの女性が文庫本を片手にチーズケーキを食べていた。ページをめくるたびにフォークが止まり、フォークを持つたびにページをめくる手が止まる。どちらも諦めきれないらしい。
カウンターの端には、新聞を読む男性。奥の席には宗一さん。
それぞれが別々のことをしているのに、不思議と誰も浮いていない。
こもれびは、誰かと話したい人にも、ひとりでいたい人にも、同じだけ椅子を用意してくれる店だった。
ここには、さまざまなジャンルのミステリーの蔵書がある。店の壁が一面大きな書棚になっていて、珈琲を飲んでいるお客さんは自由に読んでいいことになっている。
私も三度の飯よりミステリーが好きなので、春日井さんとも話が合い、母もこの店に入り浸っていることもあって、もれなく常連になったのだった。
そうしていつの間にか、美味しい珈琲、美味しいケーキ、美味しい軽食を、菜穂と一緒にローテーションで楽しむのが恒例になった。
かと思うと、ひとりでミステリーを読みに来たときには、必要な言葉だけを交わして、すっと引いてくれる心地よさがある。
母といるとき、菜穂といるとき、ひとりのとき。
春日井さんは、それぞれ違う距離感で私を扱ってくれる。
その心地よさが、私の救いでもあった。
そんなことをつらつらと考えているところへ、春日井さんの声がふわっと耳に届いた。
「昨日の原田さん、間に合いましたよ」
「……ああ。それはよかった」
宗一さんは短くそう答えた。
その声は、誰かの到着をただ聞いただけにしては、少しだけ安堵しているように聞こえた。
そして、なぜか壁時計を見上げた。
原田さんというのは、ここ「こもれび」の常連さんの一人だ。
通院の帰りに時々この店へ寄り、カウンターの端で一杯だけ珈琲を飲んで帰る。
物腰のやわらかい人で、いつも誰かの邪魔にならないように、少しだけ身を小さくして座っている印象があった。
間に合った。
その言葉が、妙に耳に残った。
何に、と聞くほどのことではない。
けれど、宗一さんが壁時計を見上げたせいで、その言葉は私の中に小さく引っかかった。
古い時計だから遅れる。
そう思えば、それで済む話だった。
けれど、走る時計が遅れているとなると、話は少しだけ変わってくる。
チ、チ、チ、と壁時計が鳴っている。
その音が、さっきよりほんの少しだけ、私を急かしているように聞こえた。
ここまで読んでいただいてありがとうございます。
本日2回目の投稿となります。
少しづつ謎が顔を出し始めます。
引き続きどうぞよろしくお願いいたします。




