第二章 児童書の謎(六)
こもれびの扉を開けると、珈琲の香りが先に迎えてくれた。
図書館からここまで歩いてきた数分のあいだ、誰もほとんど話さなかった。川べりの風は冷たく、灰色のコートの女性は、布のバッグの持ち手を両手で包むように握ったままだった。
カラン、とドアベルが鳴る。
春日井さんがカウンターの奥から顔を上げた。私たちの後ろにいる女性と、千尋さんが胸元に抱えた白い封筒を見て、ほんの一瞬だけ目を細める。けれど、何も聞かなかった。
「いらっしゃいませ」
いつもと同じ声だった。その同じ声に、私は少しだけ救われた気がした。特別なことが起きている時ほど、いつも通りの声は、細い橋になる。
「奥の席へどうぞ」
何かを察したように、春日井さんはそう言って、カウンターから出てきた。
灰色のコートの女性は、店の中を見回した。
大きな店ではない。窓際に二人掛けの席があり、カウンターには常連らしい男性が一人、新聞を畳んでいた。奥には、本棚と木の仕切りに囲まれた席がある。
私たちは、そこへ案内された。
完全な個室ではない。けれど、声を落とせば、ほかの席までは届きにくい。図書館で開けなかった言葉を置くには、ここは少しだけ温かかった。
「お飲み物は」
春日井さんが、静かにたずねる。
灰色のコートの女性は、すぐには答えなかった。
私はメニューを開かずに言った。
「私は珈琲を」
「私も」
菜穂が続ける。
千尋さんは封筒を膝の上に置いたまま、小さく頭を下げた。
「昨日と同じ、ルイボスティーをお願いします」
春日井さんはうなずき、最後に女性を見た。
「紅茶を」
女性は、ようやくそう言った。
「温かいものを」
「かしこまりました」
春日井さんはそれ以上何も聞かず、カウンターへ戻っていった。
その背中を見送ってから、私は女性の方へ向き直った。
菜穂は私の隣に、千尋さんは女性の斜め前に座っている。白い封筒は、テーブルの中央ではなく、千尋さんの手元に置かれたままだった。
図書館のもの。
誰かの言葉。
そのどちらでもあるような封筒だった。女性は、封筒を見ていた。見ているのに、触れない。その沈黙を、私は急がせなかった。
やがて春日井さんが、飲み物を運んできた。
珈琲が二つ。ルイボスティーが一つ。紅茶が一つ。湯気が、テーブルの上でゆっくりほどける。
春日井さんはカップを置き終えると、少しだけ声を落とした。
「ごゆっくり」
その一言だけ残して、奥の席から離れていく。
灰色のコートの女性は、紅茶のカップに両手を添えた。
まだ飲まない。ただ、その温度を確かめるように、指先をカップに沿わせている。
「まず」
私は静かに言った。
「ここへ来てくださって、ありがとうございます」
女性は答えなかった。けれど、顔をそむけることもしなかった。
「責めるために、お連れしたわけではありません」
私は続けた。
「図書館の本にカードを入れることが、よくないことだという話は、たぶんもう、ここでする必要はないと思っています」
女性のまぶたが、わずかに伏せられた。
「でも、あのカードに書かれていた言葉は、ただのいたずらではありませんでした」
千尋さんの手が、封筒の上で止まっている。
菜穂も黙っていた。いつもなら何かを言いそうなところで、言わずにいてくれる。その静けさが、今はありがたかった。
「読めたんですね」
女性が言った。紅茶の湯気の向こうで、声だけが細く立ち上がった。
「はい」
私はうなずいた。
「すみません。内容がわからなければ、図書館の本に害のあるものかどうか、判断がつかなかったものですから。内容を写した控えを、真鍋さんから見せていただきました」
「そうですか」
女性はそう言ったきり、また黙った。
その時だった。
こもれびのドアベルが、もう一度鳴った。
カラン。
私は顔を上げた。
入口に立っていたのは、図書館の柱の陰にいた女性だった。茶色いコートに、やわらかそうなスカーフ。外の風に当たってきたのか、頬が少しこわばって見える。
その女性は、店内を見回すこともなく、奥の席へまっすぐ視線を向けた。
灰色のコートの女性の手が、紅茶のカップから離れた。
私は、二人のあいだに流れたものを見た。
驚きだけではない。懐かしさだけでもない。もっと長い時間の底から浮かび上がってきた、名前のないもの。
茶色いコートの女性は、奥の席の手前で足を止めた。そして、震える息を一つだけ吐いてから、言った。
「その人を責めるなら、私も同じです」
こもれびの奥の席に、湯気だけが静かに揺れていた。
誰も、すぐには動かなかった。
灰色のコートの女性は、紅茶のカップから手を離したまま、入口に立つ女性を見ていた。目をそらすことも、立ち上がることもできないようだった。
茶色いコートの女性も、それ以上近づいてこない。ただ、奥の席の手前で両手を握りしめている。
春日井さんが、カウンターの奥から静かに出てきた。
「お席を、ひとつ」
そう言って、誰に許しを求めるでもなく、奥の席の端へ椅子を運ぶ。音を立てないように置かれた椅子は、まるで最初からそこにあったみたいに、すっと場所になじんだ。
茶色いコートの女性は、春日井さんに小さく頭を下げた。
「……すみません」
「温かいものをお持ちします」
春日井さんは、それだけ言ってカウンターへ戻っていった。
私は、茶色いコートの女性を見た。図書館で柱の陰にいた人。その視線は、やはり灰色のコートの女性だけに向いている。
私は、言葉を選んだ。
「お知り合い、ですか」
灰色のコートの女性の唇が、小さく震えた。
答えたのは、茶色いコートの女性の方だった。
「昔の」
それだけ言って、彼女は少し息を吸った。
「昔の友だちです」
友だち。その言葉は、あまりにも普通だった。けれど、普通だからこそ、ここへたどり着くまでの時間が長すぎたのだと私には感じられた。
灰色のコートの女性が、ようやく声を出した。
「私は片桐……片桐文です」
茶色いコートの女性の肩が、はっきりと揺れた。
長く閉じていた箱の蓋が少し浮いたように見えた。
「文ちゃん」
その返事は、かすれていた。
「あ……すみません、私は小森百合子です」
百合子さんは、文さんを見つめていた目を私たちの方へ向けながらそう答えた。
椅子に腰を下ろそうとして、途中でためらう。
「私も、入れました」
誰に向けてというより、テーブルの上の白い封筒に向かって言うような声だった。
「あの本に。カードを」
文さんは目を伏せた。長いあいだ置きっぱなしにしていたものを、ようやく目の前に出された人のように、静かに息を吐いた。
私は、その沈黙の意味を急いで決めつけないようにした。
二人は、わかっていたのだ。
名前がなくても。
声がなくても。
あの本の中に置かれた短い言葉が、誰から誰へ向けられたものなのかを。
千尋さんが、封筒の上に手を置いた。
「確認だけさせてください」
声はやわらかかったが、図書館の人としての線はそこにあった。
「あの本は、館内でだけ読んでいただく児童書です。カードを挟んだままにすることは、今後はできません」
百合子さんがうつむく。
「はい」
文さんも静かにうなずいた。
「すみませんでした」
「責めたいわけではありません」
千尋さんは慌てて言った。
「ただ、本を守るために、そこだけはお伝えしておきたくて」
文さんが、封筒を見た。
「その中に、最後の」
千尋さんはうなずいた。
「はい。最後に見つかったカードの内容を写したものが入っています。原物は図書館で保管しています」
百合子さんの指が、膝の上で強く握られた。
自分が書いた言葉のはずなのに、その言葉が今ここで開かれることを、怖がっているように見えた。
文さんは、まだ封筒を見ている。けれど、手を伸ばせない。
私は、その封筒がまるで熱を持っているように見えた。
紙一枚のはずなのに、触れるには勇気がいるもの。五十年分の言葉は、軽い紙には重すぎる。
「開けても、いいですか」
千尋さんが二人に尋ねた。
百合子さんは、文さんを見た。
文さんも、百合子さんを見た。
その視線は一瞬だけ重なって、すぐに離れた。けれど、離れる前に、ほんの小さくうなずき合ったように私には見えた。
「お願いします」
文さんが言った。
千尋さんは封筒を開けた。中から取り出された白い紙には、短い記号と、その下に千尋さんの丁寧な字で書かれた読み取りがあった。
11/26。
そこにあった暗号の意味は、ただ一言。
ほんとうは。
それだけだった。
百合子さんは、その言葉を黙って見つめていた。自分で書いた言葉なのに、もう一度そこへ戻る道を探しているように。
文さんも、しばらく何も言わなかった。
こもれびの奥の席で、湯気だけが静かに揺れている。珈琲の香りも、紅茶の色も、今は遠く感じられた。
やがて百合子さんが、ぽつりと言った。
「本当は……」
語りかけるように。
文さんは百合子さんを見つめていた。
百合子さんのまぶたが、小さく震えた。
文さんは、少しだけ息を吸った。
「私たち、もっと話さなくちゃいけなかったわね」
その言葉は、あまりにも静かだった。けれど私には、それがこの場に置かれた最初の本当の返事のように思えた。
百合子さんは、両手を膝の上で握り直した。何度もほどこうとして、ほどけなかった結び目に、ようやく指をかけるように。
「本当は」
百合子さんは言った。文さんが、ゆっくりと顔を上げる。
百合子さんは文さんを見ていた。逃げるような目ではなかった。けれど、泣き出す直前の子どものように、必死でこらえている目だった。
「本当は、私も高校に行きたかった」
文さんの指が、紅茶のカップの横で止まった。
百合子さんは続けた。
「行きたかったの。文ちゃんと同じ制服を着て、同じ道を歩いて、帰りにまた図書館に寄って……それを、言えなかった」
声が、少しずつ震えていく。
「家のことがあったから。働かなきゃいけなかったから。仕方ないって、何度も自分に言った。でも本当は、仕方ないなんて思えてなかった」
文さんは、何も言わなかった。ただ、百合子さんから目をそらさなかった。
「文ちゃんが悪いわけじゃないのに」
百合子さんの手が、膝の上でぎゅっと握られる。
「私、置いていかれるみたいで、悔しかった。寂しかった。それを、あなたにぶつけた」
こもれびの奥の席で、古い時間がゆっくり息を吹き返していく。
文さんの唇が、何かを言おうとして震えた。けれど、先に百合子さんが深く頭を下げた。
「あの時、ひどいことを言ってごめんなさい」
その言葉は、カードの中には入っていなかった。
でも、ずっと本の後ろで待っていたのは、たぶんこの言葉だった。
文さんは、しばらく何も言わなかった。
百合子さんは頭を下げたまま、動かない。膝の上で握られた手の甲に、細い血管が浮いている。五十年という時間は、言葉にすれば短いのに、手の上にはこんなにはっきり残るのだと私は思った。
「私も」
やがて文さんが言った。
百合子さんの肩が、小さく揺れた。
「私も、言えなかったの」
文さんの声は静かだった。
百合子さんの謝罪を受けて、すぐに感情を返すのではなく、どの言葉なら本当のことを傷つけずに置けるのか、ひとつずつ選んでいるような声だった。
「あなたに、進学なんて意味がないって言われた時、私は怒ったわけではなかったと思う」
百合子さんが、息を止める。
文さんは続けた。
「いいえ、怒っていなかったというのは違うわね。傷ついたの。自分が行こうとしている場所を、いらないものみたいに言われた気がしたから」
百合子さんの指が、膝の上でぎゅっと握られた。
「でも、反論しなかった」
文さんは、紅茶のカップを見つめたまま言った。
「進学には意味があるとか、私は行きたいから行くんだとか、言おうと思えば言えたはずなのに。言わなかった」
「どうして……」
百合子さんの声は、かすれていた。
「あなたが、本気でそう思って言っているわけではないと、どこかでわかっていたから」
文さんが顔を上げる。
「それを言ったら、あなたを追い詰めると思ったの。あなたが行けないことを、私が正しい言葉で責めることになる気がした」
百合子さんは何も言えなかった。
私にも、その沈黙がどういう色をしているのか、すぐには決められなかった。後悔なのか、驚きなのか、それとも、長い時間をかけて見ないようにしていたものを、急に差し出された戸惑いなのか。
「だから、黙ったの」
文さんは言った。
「でも、黙ることは、やさしさじゃなかった」
その言葉に、百合子さんの目が揺れた。
「私は、あなたと話すことを避けたの。あなたがどうしてそんなことを言ったのか、何に苦しんでいたのか、聞かなかった。聞かない方が、お互いを傷つけずに済むと思った」
文さんは、ほんの少しだけ息を吐いた。
「でも、それは結局、あなたを一人にしただけだったのね」
「違う」
百合子さんが、思わずというように言った。
その声は少し大きくなりかけて、すぐに自分で押さえられた。百合子さんは両手を膝の上で握り直す。
「違うの。私が逃げたの」
文さんが、百合子さんを見る。
「文ちゃんが何も言わなかったからじゃない。私、顔を合わせたら、またひどいことを言うってわかってた。進学なんて意味がないとか、そんなこと言って、本当は自分が一番行きたかったくせに」
声の終わりが震えた。
「自分で言ったことなのに、言った瞬間から嫌だった。でも、謝りに行く勇気もなかった。会ったら、また文ちゃんの制服とか、教科書とか、そういうものを見て、自分が勝手に苦しくなって、また心にもないことを言ってしまうと思った」
菜穂が、膝の上で指を組み直した。
何か言いたそうで、でも言わない。今は、二人の言葉がこぼれ落ちないように、ただ受け止めているのだと私には見えた。
「だから、会わないようにしたの」
百合子さんは続けた。
「図書館にも、しばらく行かなかった。あの本を見たら、文ちゃんを思い出すから。思い出したら、謝りたくなるから。でも、謝りたいのに、会ったらきっとまた感情がこぼれてしまうから」
文さんは、静かに聞いていた。
百合子さんの言葉が乱れても、途中で直さなかった。責めなかった。ただ、ひとつずつ受け取るように聞いていた。
こもれびの壁時計が、静かに秒を刻んでいた。
チ、チ、チ。
その音は、図書館でページをめくる音とは違う。けれど、どこか似ていた。
薄い紙を一枚ずつめくるように、時間が進んでいく。
二人は、しばらく黙っていた。
どちらも、大声で責めなかった。どちらも、自分だけが悪いとは言わなかった。ただ、五十年以上前に同じ場所で絡まった糸を、年を重ねた手つきで、少しずつほどこうとしていた。
「私たち」
文さんが、ぽつりと言った。
「やっぱり、もっと話さなくちゃいけなかったわね」
百合子さんの顔が、静かに歪んだ。
「ええ」
その返事は、ほとんど息のようだった。
「話せばよかった。文ちゃんが高校に行くことも、私が行けないことも、嫌だって、寂しいって、羨ましいって。そう言えばよかった」
「私も、聞けばよかった」
文さんは言った。
「あなたが本当はどう思っているのか。進学のことをどう感じているのか。私に何を言いたかったのか」
百合子さんは、小さく首を振った。
「言えなかったと思う」
「それでも、聞けばよかった」
文さんの声は、少しだけ強くなった。責める強さではなかった。五十年越しに、自分自身へ向けるための強さだった。
百合子さんの涙が、ひとつ落ちた。
「ごめんね」
「うん」
文さんはうなずいた。
「私も、ごめんなさい」
それは、誰が悪かったかを決めるための謝罪ではなかった。
百合子さんが、そっと手を伸ばした。
途中で止まる。
文さんも、その手を見ていた。
ほんの少しだけ遅れて、文さんの手がテーブルの上に置かれた。百合子さんの手が、その近くに降りる。
触れたわけではない。
けれど、五十年分の距離にしては、それは十分すぎるほど近かった。
同じ言葉が、やっと同じ場所に降りた。
私は、白い封筒を見た。
そこにはもう、これ以上の答えは入っていない。紙に書かれた暗号は、二人をここまで連れてくるための細い糸だったのだろう。
ここから先は、糸ではなく声でたどるしかない。
菜穂が、そっと息を吐いた。
その音に気づいたのか、百合子さんが少しだけこちらを見た。
「ごめんなさい。こんな話を、知らない方の前で」
「いいえ。こちらこそ、ずいぶん奥の棚まで入り込んでしまいました」
私は小さく頭を下げた。
「でも、途中で本を閉じるのも、少し違う気がしたんです」
百合子さんは、少しだけ困ったように笑った。
「本に、頼りすぎましたね」
文さんが白い封筒を見た。
千尋さんが、静かに口を開いた。
「あの本は、これからも図書館にあります」
二人の視線が、千尋さんへ向いた。
「ただ、カードを入れる場所ではなくなります。でも、本を読みに来ることはできます。あの棚の前に立つこともできます」
文さんは、少しだけ目を伏せた。
「もう、暗号は封印ですね」
「はい」
千尋さんはやわらかく、けれどはっきりと答えた。
「でも、もし言葉があるなら、できれば本ではなく、ご本人に」
百合子さんは文さんを見た。
文さんも百合子さんを見た。
その視線のあいだに、さっきより少しだけ温度が生まれているように見えた。
「本人に」
百合子さんが、確かめるように言った。
「そうね」
文さんはうなずいた。
「今度は、そうしましょう」
今度。
その言葉が、こもれびの奥の席にそっと置かれた。過去の続きを語るためではなく、これからの約束として。
私は、冷めかけた珈琲に手を伸ばした。カップの表面には、窓から入る薄い光が揺れている。
児童書の謎。
そこに隠れていたのは、謎ではなかった。
二人の中学生の思いと後悔が混ざった、長い時間の奥に置き忘れられていた言葉たちだった。
そしてその言葉たちは、ようやく本の外で、続きを探し始めていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
謎、ほどけました。そろそろ珈琲飲みたくなってませんか?
しばらくは毎日20時に更新予定です。
こもれび喫茶で起こる小さな謎を、ゆっくり楽しんでいただけたら嬉しいです。
どうぞよろしくお願いいたします。




