第五章 資料室の謎(二)
「一応、誰が最後に見たかは聞いてあるの」
そう言って、菜穂は鞄から折り畳んだ紙を取り出した。
テーブルの上で広げられたのは、会社のフロアを簡単に描いた見取り図だった。
中央にまっすぐな廊下があり、片側には執務エリアと打合せ室。反対側には給湯室や化粧室が並び、その少し先に資料室と展示準備室がある。
二つの部屋の間には、廊下へ出なくても行き来できる扉が描かれていた。
「菜穂が描いたの?」
「うん。だいたい合ってる」
「資料室より給湯室のほうが広く見えるけど」
「そこは私の利用頻度が反映されています」
菜穂は真顔で答えた。
「縮尺じゃなくて、思い入れで描いたんだ」
「お茶は大事だからね」
春日井さんが置いていった珈琲から、細い湯気が上がっている。
土曜日の午後のこもれびは、いつもより静かだった。
カウンターの端には、洗い終えたカップが伏せられている。
こんな穏やかな時間の中に、会社から消えた濃紺の日誌の話だけが、少し場違いな影を落としていた。
「最後に日誌を見たかもしれない人は、三人。紛失発覚に近い時間に展示準備室に出入りした人ね」
菜穂は見取り図の横に、三人の名前を書いた。
牧野さん。
大田さん。
杉浦さん。
「牧野さんは、開業した頃の売場責任者だった人。もう退職してるんだけど、三十周年展示の監修を頼まれて、会社に来てたの」
「日誌に名前が出てくる人?」
「うん。開業当時のことを知ってるから」
菜穂は、牧野さんの名前の隣に時刻を書き足した。
「十七時半頃から、展示準備室で開業日誌を読んでたって」
「何のために?」
「展示に使うところを確認するため。開業したばかりの頃の出来事を、解説パネルに入れる予定だったの」
「日誌を読み終えたあとは?」
「十七時三十八分頃に閉じて、展示台へ戻したって言ってた」
「時刻は、本人が覚えていたの?」
「腕時計を見たらしいよ。日誌を読んだあと、受付の人に確認したいことがあって、十八時までに行こうと思ってたんだって」
私は紙の上の数字を見た。
十七時三十八分。
細かい時刻には、それを覚えている理由がいる。
理由のある数字なら、少なくとも本人の中では、何かと結びついている。
「牧野さんは、展示されたくないことが日誌に書いてあるかもしれないって」
菜穂の声が、少し低くなった。
「開業したばかりの頃って、判断を間違えたこともあったらしいの。売場の配置とか、人の動かし方とか。今ならしないようなことも、日誌にはそのまま残ってるって」
「日誌をなくしたいとは?」
「言ってないよ。ただ、ないと言えば嘘になる、とは言ってた」
「何が?」
「展示されたくないことがあるかって聞かれて」
牧野さんがどんな顔でそう答えたのか、私は知らない。
けれど、三十年前の失敗が解説パネルの中で誰かに読まれる場面を想像すれば、何も感じない人のほうが少ない気がした。
「でも、日誌を持ち出すつもりはないって。自分の失敗も会社の歩みだからって言ってた」
「菜穂が直接聞いたの?」
「展示担当の人が聞いて、私も近くにいた」
私は牧野さんの名前の横に、小さく丸をつけた。
日誌を見た。
展示台へ戻した。
見られたくない記録がある。
けれど、それだけでは日誌が消えた理由にはならない。
「次が大田さん」
菜穂は二人目の名前を指した。
「資料管理の担当者。本社の資料管理部門から借りていた、別支店の日誌三冊を包んだ人」
「開業日誌と同じ形の?」
「ほとんど同じ。濃紺の表紙で、大きさも厚さも似てる」
「外から見て、どこの日誌かわかる?」
「背表紙には年度と巻数しか書いてないの。支店名は表紙を開けて、裏に押してある印を見ないとわからない」
菜穂は両手で本を開く真似をした。
「借りていた三冊は、白い保存紙で一冊ずつ包んだんだよね」
「うん。私が運んだもの」
「その包みを作った時、開業日誌は?」
「展示台にあったって」
「大田さんは、いつ展示準備室へ?」
「十七時四十分頃」
牧野さんが部屋を出た、すぐあとだった。
「廊下から展示準備室に入って、作業台で三冊を包んだの。それから入口の近くにまとめて置いた」
「包み終わったのは?」
「十七時四十五分頃」
「その間も、開業日誌は見えていた?」
「作業台から展示台が見えるから、濃紺の表紙は見えてたって」
「中を確認したわけではないんだね」
「そこに置かれていたから、開業日誌だと思ったんじゃないかな」
菜穂は一度言葉を切ってから、付け足した。
「でも、大田さんが包み始める前には、牧野さんが置いた日誌があったはずでしょう?」
「その間に誰も動かしていなければね」
「二分くらいだよ」
「二分でも、本を一冊動かすことはできるよ」
「そうだけど」
菜穂は納得しきれないように、見取り図を見た。
「大田さんは、三冊を包んだあと、資料室に入ったの」
「廊下へ出て?」
「ううん。二つの部屋をつないでる中の扉から」
菜穂の指が、展示準備室と資料室の間を行き来した。
「資料室で別のものを片づけて、そのまま資料室側の扉から廊下へ出た。展示準備室には戻ってないって」
「その間、展示準備室に誰かが入ったかは?」
「わからない」
会社の部屋は、謎を解くために作られてはいない。
人が仕事をするためにあり、仕事に必要な範囲で出入りする。
誰が何時何分に、どの扉を使ったか。
あとからすべてを正確に並べようとすれば、どうしても空白が残る。
「大田さんが怪しいって言ってる人もいる」
菜穂が、少し声を落とした。
「三冊を包んだのは大田さんだから。開業日誌を包みに入れることもできたんじゃないかって」
「包んだ三冊の中身を、そのあと確認した人は?」
「いない」
「菜穂も開けていない」
「私は今日、本社便に乗せたいから、入っていることを確認してから運んでねっていわれただけだからね」
菜穂はそう答えたあと、カップの持ち手に指をかけた。
「でも、開けたほうがよかったのかな」
「開けない決まりだったんでしょう?」
「決まりっていうほどじゃないけど、本社便に乗せるものは、用意した人が中身を確認して包むの。私はみんなが送ってほしいものを滞りなく本社便として送り出すのが仕事」
「だったら、菜穂は決められたとおりにしただけだよ」
「でも、私が運んだ箱の中に入ってたら」
「まだ、入っていたと決まったわけじゃない」
菜穂は珈琲をひと口飲んだ。
カップを戻す音が、いつもより少しだけ小さかった。
「三人目が、杉浦さん」
その名前を口にした時、菜穂の声が少しやわらかくなった。
「私が入社した時、仕事を教えてくれた先輩。今は本社にいるけど、三十周年の準備を手伝うために来てたの」
「借りた三冊の返却先も、杉浦さんのいる本社?」
「そう」
菜穂は、杉浦さんの名前の横に、打合せ室を示す矢印を引いた。
「十七時五十五分頃から、ここでオンライン会議に出てた」
「展示準備室からは遠い?」
「廊下を挟んで斜め向かいくらい。遠くはないよ」
「会議のあと、どうしたの?」
「展示準備室へ資料を取りに戻ったって」
「その時、日誌は?」
「あったって」
菜穂は、今度はすぐに答えた。
「展示台に開業日誌があって、入口の近くには返却箱もまだ置いてあったって」
「じゃあ、そのあとで菜穂が箱を運んだことになるんだ」
「うん。だから杉浦さんが言ってくれたの。私が展示準備室へ入った時には、日誌はまだ展示台にあったはずだって」
「菜穂が触ったのは、白い包みだけ」
「そう。三冊あるのを確認して、箱に入れただけ。包んであったものを入れましたって大田さんにも言ってたから、包まれてない状態の開業日誌が直前まで展示台にあったっていう証言は助かったんだ」
それなら、確かに菜穂が運んだ箱に開業日誌が入っていたとは考えにくい。
杉浦さんが日誌と返却箱を見た。
そのあと菜穂が部屋へ入り、白い包みを三冊運んだ。
今聞いた話だけを並べれば、そうなる。
「杉浦さんは、本社便が回収されたことを知っていたの?」
「知ってたと思う」
「思う?」
「あとで、返却分はいつものように本社便で出したのよねって聞かれたから」
「菜穂は、何て答えたの?」
「はい、いつものように私が下まで持っていきましたって」
「その日は少し早かったんだよね」
「うん。でも、特に話はしてないよ。時間が前後することは最近はけっこうあったから」
菜穂は当たり前のことを説明するように答えた。
「日誌がないと気づいたのは、そのあと?」
「うん。展示担当の人が確認しに行ったの」
「何を?」
「印刷に出す解説パネル。開業初日の記述に出てくる役職名が合っているか、今日中に確認してほしいって連絡が来たんだって」
「それで日誌を見に行った」
「展示台になくて、最初は誰かが資料室へ戻したと思ったみたい」
「資料室には?」
「元の場所に青い出庫札が残ってた」
出庫中。
日誌の代わりに棚へ差された青い札は、戻っていないことだけを示している。
「ほかの棚は調べたんだよね」
「背表紙の年代だけね。でも、全部を取り出して表紙の裏まで確認したわけじゃない」
「どうして?」
「もう時間も遅かったし、日誌の数が多いから。年度によっては一冊じゃなくて、何冊もあるの」
「背表紙だけでは、支店まではわからない」
「うん」
「だったら、資料室のどこかへ戻し間違えた可能性は残ってるね」
「私もそう思った」
菜穂は、少し勢いを取り戻したように身を乗り出した。
「誰かが展示台から持っていって、別の年のところへ入れちゃったとか。展示に使う資料も多かったから、箱の下に入り込んだとか」
「何度探しても目に入らないこともあるもんね」
「本って、たまにやるよね」
「探している時だけ薄くなる」
「そうそう。あと、見つかった瞬間に堂々とする」
「ずっとここにいましたけど、って顔をする」
菜穂が笑った。
ほんの少しだけ、いつもの菜穂に戻ったように見えた。
「でも、月曜日になったら返却箱も確認するんでしょう? 棚をひっくり返して探すより、本社に届いた箱を確認したほうが早いもんね」
「うん。」
「三冊とも、予定どおり借り物の日誌なら」
「開業日誌は、まだ会社の中にある」
「反対に、開業日誌が入っていたら」
菜穂の笑みが消えた。
「私が運んだことになる」
「運んだのは箱だよ」
「同じじゃない?」
「違う」
私は、見取り図の入口近くに描かれた四角を指した。
「菜穂は、そこに置かれていた白い包みを三冊確認して、箱へ入れた。包みの中に何が入っていたかを決めたのは、菜穂じゃない」
「でも、外へ出したのは私」
「誰かが菜穂に運ばせたのなら、菜穂がなくしたことにはならないよ」
「誰かが、って」
「まだ決まってない」
私は三人の名前を見た。
牧野さんは、日誌を読んだ。
大田さんは、よく似た三冊を包んだ。
杉浦さんは、会議のあとにも日誌があったと話している。
三人の話がすべて正しければ、日誌は本社便の箱には入っていない。
展示台から消えたのは、それよりあと。
そう考えるのが、いちばん素直だった。
「今のところは」
私は、見取り図を菜穂のほうへ戻した。
「返却箱とは別のところで消えたと考えたほうがよさそう」
「じゃあ、やっぱり会社の中?」
「たぶん」
「見つかるかな」
「月曜日になれば、箱の中身もわかる。資料室も、もう一度きちんと確認できる」
菜穂はうなずいた。
けれど、その指は見取り図の上に置かれたままだった。
二つの部屋。
三人の証言。
白い包みと、濃紺の日誌。
紙の上では、どれも静かに並んでいる。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
すみません、いろいろと練り直しまして…更新がままならなくて。
頑張って書きつつ更新してまいりますので、どうかよろしくお願いいたします。
楽しんでいただけたら幸いです。




