第五章 資料室の謎(三)
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月曜日の昼過ぎ、菜穂から短いメッセージが届いた。
『箱、開いた。』
その下に、少し間を空けて、もう一行。
『日誌、入ってた。』
どちらの日誌なのかは、尋ねるまでもなかった。
その日の夕方、菜穂は仕事を終えると、まっすぐこもれびへやってきた。
ドアベルが鳴り終わるより先に私を見つけ、奥の席へ向かってくる。
「澪」
「うん」
「あった」
菜穂は椅子へ座る前に、そう言った。
「開業日誌が、本社便の箱に入ってた」
春日井さんが、菜穂の前に水を置いた。
いつものように事情は尋ねず、けれど、すぐには席を離れなかった。
「今日は、珈琲より紅茶のほうがよさそうですね」
「どうしてわかるんですか」
「顔に書いてあります」
春日井さんはそれだけ言って、カウンターへ戻っていった。
菜穂は鞄を隣の椅子へ置き、両手で水のグラスを包んだ。
「本社の資料管理で、朝一番に箱を開けてくれたの。白い包みは、ちゃんと三冊あった」
「そのうちの一冊が、開業日誌だった」
「うん」
「残りの二冊は?」
「借りてた日誌。返す予定だった三冊のうち、二冊は合ってた」
「一冊だけが入れ替わっていたんだね」
菜穂は小さくうなずいた。
「開業日誌を包んであった保存紙は、ほかの二冊と同じだったって。返却先を書いた紙も、三冊まとめて一枚ついてたから、外からはわからなかったみたい」
「包み方は?」
「少し折り目がずれていたらしいけど、急いで包んだのかなって思うくらいだって。大田さんも、自分が包んだ時の折り方まで正確には覚えてないって」
白い保存紙に包まれた三冊。
そのうち一冊だけが、返されるはずのない日誌だった。
「開業日誌に、傷は?」
「なかった。ページが抜かれたり、書き込みを消されたりもしてないって」
菜穂の肩が、ほんの少し下がったように見えた。
日誌が戻ったことへの安堵と、そこに入っていたことへの重さが、同じ場所に乗っているようだった。
「よかった」
「うん。日誌が無事だったのは、本当によかった」
菜穂はそう言ったあと、グラスから手を離した。
「でも、私が運んだ箱に入ってた」
「入っていたね」
「やっぱり、私が外へ出しちゃったんだ」
「菜穂」
「わかってる。中身を入れたのは私じゃないって言いたいんでしょう?」
「先に言われた」
「昨日から何度も聞いたから」
「何度も言う必要があると思ったからね」
菜穂は少しだけ口を尖らせた。
「じゃあ、今日は私から言う。私は三冊あるのを確認した。箱に入れて、封をして、地下へ運んだ。そこまでは、言われたとおりにやった」
「うん」
「でも、その三冊の中に開業日誌が入ってることには気づかなかった」
「白い紙の外からはわからなかった」
「うん」
「だったら、菜穂が見落としたんじゃない。見えないようにされていたんだよ」
菜穂は答えず、テーブルの木目を指でなぞった。
やがて春日井さんが、薄い琥珀色の紅茶を運んできた。
菜穂の前にだけ、小さな蜂蜜の壺が添えられている。
「甘くしてもいい日です」
「ありがとうございます」
菜穂は蜂蜜をひと匙落とした。
細い糸が紅茶へ沈み、ゆっくりと見えなくなっていく。
「返すはずだった、もう一冊は?」
私が尋ねると、菜穂は顔を上げた。
「見つかった」
「どこで?」
「資料室」
「やっぱり、棚に戻っていたんだ」
「うん。でも、葉住店の開業日誌があった場所じゃなかった」
菜穂は鞄から、土曜日と同じ見取り図を取り出した。
折り目が少しやわらかくなっている。
「資料室にある日誌を、今日は一冊ずつ取り出して、表紙の裏の印まで確認したの。そしたら、同じ年度の日誌が並んでいる棚に、返すはずだった一冊が混ざってた」
「背表紙だけなら、そこにあっても気づかない」
「年度と巻数しか書いてないからね。開いて印を見るまで、別の支店の日誌だってわからなかった」
「青い出庫札は?」
「開業日誌の場所に残ったまま」
つまり、借り物の日誌は、開業日誌の元の位置へ戻されたわけではない。
同じような背表紙が並ぶ別の場所へ、目立たないように差し込まれていた。
「金曜日に背表紙だけ確認した時も、その日誌は見えていたはずだよね」
「うん。でも、そこにあるのが普通の日誌に見えた」
「棚に隠したというより、棚の一冊にしたんだ」
菜穂が、私の言葉を確かめるように繰り返した。
「棚の一冊に」
「違う支店の日誌だとわからないように、よく似た日誌の間へ入れた」
会社の資料室に、濃紺の日誌は何冊もある。
一冊だけなら目立つ。
けれど、同じ色と形のものが並ぶ場所へ戻せば、それはすぐに風景の一部になる。
「じゃあ、大田さんが間違えて包んだわけじゃないのかな」
「その可能性も、まだ完全には消えないよ」
「開業日誌を間違えて包んで、借りた日誌を間違えて棚に戻したとか?」
「できなくはない」
「でも、二つも間違える?」
「一つの間違いから、二つの場所が入れ替わったとも考えられる」
私は見取り図の上に、指で二つの場所を示した。
展示台。
白い包み。
「大田さんが、開業日誌を借り物だと思って包んだ。その代わりに、借り物の日誌を開業日誌だと思って展示台へ置いた」
「それなら、間違いは一回?」
「日誌の見分けを間違えた一回だけで、場所は入れ替わる」
菜穂はしばらく考え、首をかしげた。
「でも、大田さんは、三冊を包んでる間も開業日誌が展示台にあったって言ってたよ」
「濃紺の日誌があった、としかわからない」
「中は見てないから?」
「うん」
「じゃあ、展示台にあったのが、借り物の日誌だった可能性もあるんだ」
「ある」
私は答えながら、紙の上に並んだ時間を見た。
牧野さんが、開業日誌を展示台へ戻した。
その二分後、大田さんが部屋へ入った。
大田さんは、借り物の日誌三冊を包んだ。
その間、展示台には濃紺の日誌があった。
けれど、それがいつまで開業日誌だったのかは、誰も表紙の裏まで確かめていない。
「だったら、やっぱり大田さん?」
「まだ決められないよ」
「でも、包んだのは大田さんだよ」
「包んだ人だから、入れ替えられたとは限らない」
「入れ替えられた?」
菜穂が顔を上げた。
「間違えたんじゃなくて?」
「まだ、どちらもある」
私は、菜穂が持ってきた新しいメモを指した。
「大田さんが包み終えたのは、十七時四十五分頃だったね」
「うん」
「菜穂が白い包みを確認した時には、三冊とも入口の近くにあった」
「そう」
「その間に、誰かが一冊だけ包み直すこともできる」
「開業日誌と、借り物の日誌を入れ替えて?」
「うん」
菜穂の指が、蜂蜜の壺の蓋に触れた。
「でも、何のために?」
「それを考えないといけない」
「開業日誌を隠したかったから?」
「隠すだけなら、資料室の棚へ入れることもできたよね」
「実際、借り物の日誌は棚に入ってた」
「うん。でも、開業日誌のほうは白い紙に包まれて、本社便に入っていた」
日誌を目の前からなくしたいだけなら、もっと簡単な場所はいくつもあった。
資料室の別の棚。
展示用の箱の下。
誰もすぐには開けない戸棚。
それなのに、開業日誌は返却する三冊のうちの一冊として、本社便へ乗せられていた。
「大田さんが、間違えたんじゃなくて、わざと包んだ可能性もあるってこと?」
「あると思う」
「資料管理の担当だから、日誌を展示に出したくない理由があったとか?」
「それは本人に聞かないとわからない。でも、本社へ送ってしまえば、少なくとも葉住店の展示準備室からはなくなる」
「返却資料の中に入ってたら、取り違えたって言えるしね」
菜穂はそう言ってから、自分の言葉に少し驚いたように口を閉じた。
「……大田さんがやったって決めたわけじゃないよ」
「わかってる」
「でも、包んだ人だから、一番やりやすかったのは確かだよね。大田さんの場合は動機より、機会ってわけか」
「そうだね」
開業日誌を白い保存紙で包み、借り物の日誌の一冊を棚へ移す。
大田さんなら、どちらも不自然に見えないまま行うことができた。
けれど、それだけで大田さんが入れ替えたとは言えない。
「牧野さんは?」
「え?」
「月曜日は、どこにいるの?」
菜穂はしばらく考えてから、手元の見取り図へ目を落とした。
「三十周年の準備が始まってからは、毎週月曜日に本社へ行ってる。展示の打合せがあるから」
「今日も?」
「行ってるはず」
「だったら、牧野さんにとっても、本社へ送られることには意味があるかもしれない」
「本社で受け取るつもりだったってこと?」
「可能性の一つとしてはね」
「でも牧野さんは、十七時三十八分に日誌を展示台へ戻して部屋を出たって……」
「本人はそう話している」
「大田さんも、そのあと展示台に日誌があったって」
「濃紺の日誌があった、としか確認していない」
菜穂は腕を組み、見取り図をにらんだ。
「じゃあ、牧野さんが戻した時には、もう別の日誌だった可能性もある?」
「借り物の日誌と入れ替えてから、展示台へ戻したように見せたのなら」
「でも、大田さんが包んだ三冊の中に開業日誌を入れておかないといけない」
「二冊の置き場所を交換するだけなら、それほど時間はかからない」
「十七時三十八分まで牧野さんはひとりだったんだもんね」
菜穂は見取り図の牧野さんと大田さんの名前を、交互に見た。
「大田さんなら、三冊を包む時に入れ替えられた」
「うん」
「牧野さんなら、その前に日誌そのものを交換できたかもしれない」
「うん」
「どっちも、とにかくここから日誌を消したかった……」
「そうなるね」
「杉浦さんは?」
その名前が出た時、私は見取り図の反対側にある打合せ室を見た。
「会議のあとにも、日誌が展示台にあったと話している」
「だから、杉浦さんは違うんじゃない?」
「そうとも言い切れないよ」
「え?」
「杉浦さんが見たのは、本当に開業日誌だったのかな……今回本社便から開業日誌が出てきた時点で、杉浦さんの話は見え方が全く変わってくるんだよね」
菜穂が、ゆっくりと瞬きをした。
「展示台にあったって言ってたよ」
「濃紺の日誌があった、とは言える。でも、表紙の裏の印まで確かめたわけじゃないんでしょう?」
「そこまでは聞いてない」
「だったら、杉浦さんが見たのは、返すはずだった別支店の日誌だった可能性もある」
菜穂は見取り図の上へ視線を落とした。
返却箱からは、本物の開業日誌が見つかった。
その代わりに、返すはずだった一冊は資料室の棚から見つかっている。
二冊は、どこかで場所を入れ替えていた。
「じゃあ、展示台に残ってたのが、借りてたほうの日誌?」
「そうなら、杉浦さんの話ともつながる」
「開業日誌だと思って見てたけど、実際は違ったってこと?」
「見た目だけなら、間違えてもおかしくないよね」
どの日誌も、表紙は同じ濃紺だった。
背表紙にあるのは、年度と巻数だけ。
置かれている場所まで同じなら、わざわざ開いて確かめようとは思わないかもしれない。
「だったら、杉浦さんはやっぱり関係ないんじゃない?」
菜穂の声には、ほっとしたような響きが戻っていた。
「見間違えただけならね」
私はそう答えた。
杉浦さんの証言が正しければ、会議のあとにも展示台には一冊の日誌があった。
けれど、それが開業日誌だったことまでは、まだ誰も確かめていない。
わかったのは、日誌が消えたことではなかった。
二冊のよく似た日誌が、どこかで互いの場所を取り替えていたということだけだった。
二つの事実の間には、まだ埋まっていない場所がある。
「私、昨日は返却箱とは別のところで消えたって言ったけど」
「うん」
「外れたね」
菜穂は目を瞬いたあと、わずかに笑った。
「澪でも外すんだ」
「外すよ」
「推理小説の探偵としては、ちょっと頼りないんじゃない?」
「私は探偵じゃないからね」
「じゃあ、何だっけ」
「本を読む人」
「今回は業務日誌だけど」
「文字が詰まっていれば、だいたい本の仲間」
「ずいぶん広く取ったね」
菜穂の笑い声が、小さくこぼれた。
昨日よりは、少しだけ軽い音だった。
「でも、外れたおかげでわかったこともある」
「何?」
「展示台が空になるまでの道筋がね」
私は、見取り図の隅に描かれた返却箱を見た。
三冊のうち、一冊だけ。
返されるはずの日誌と場所を入れ替え、白い紙に包まれていた。
それが間違いだったのか、誰かの意思だったのか。
まだ、どちらとも決められない。
けれど日誌は、なくなったのではなかった。
誰かの手で、別の行き先を与えられていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
日誌の行方……どうなるんでしょうか。
更新が遅くなりますが、完結まで頑張ります!
お見守りいただけると幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




