第五章 資料室の謎(一)
「また、あの人と会うみたい」
「止めるな。止めたら、理由を探す」
「でも、最近、前より深く考えてる」
「わかってる」
「じゃあ、どうするの」
「先に予定を入れる。考える時間を減らす」
「そんなことをしたら、余計に気づかない?」
「気づかれる前に、別のほうを向かせる」
しばらく、返事はなかった。
「……それで、また笑えるなら」
土曜日のこもれびは、いつもより少し静かだった。
窓際の席では、年配の女性が文庫本を読んでいる。カウンターでは、春日井さんが珈琲豆を量る小さな音がしていた。
カランカラン、とドアベルが鳴る。
入ってきた菜穂は、私を見つけると軽く手を上げた。
けれど、それだけだった。
いつもなら、席へ着く前から話し始める。
商店街で見かけた人のこと。会社で起きた妙な出来事。昨日食べたものが思っていた味と違った、という、本当にどうでもいい話まで。
今日はコートを脱いでも、鞄を隣の椅子に置いても、何も言わなかった。
「どうしたの?」
「うん」
「うん、なの?」
「うん……」
菜穂は笑おうとしたようだったが、口元はすぐに戻ってしまった。
春日井さんが、私たちの間を一度見た。
「奥のお席をお使いになりますか」
「いいんですか?」
「今日は、そちらのほうがよろしいかと」
事情を尋ねることなく、春日井さんは本棚に囲まれた奥の席を示した。
菜穂は小さく頭を下げた。
「ありがとうございます」
私たちが席へ移ると、春日井さんは珈琲を二つ運んできた。
「ごゆっくり」
それだけ言って、木の仕切りの向こうへ戻っていく。
菜穂はカップに手を添えたまま、しばらく湯気を見ていた。
「会社で、なくなったものがあるの」
「大事なもの?」
「たぶん、値段だけなら高くない」
「値段では決められないものなのね」
菜穂が顔を上げた。
「うん。二度と作り直せないもの」
来月、菜穂の勤めるサクラモール葉住店では、開業三十周年を記念した社内イベントが予定されているという。
当日は社内のホールやロビーを使い、開業当時の写真や商品、従業員が使っていた道具などを並べる。
その事前準備として、菜穂のいるフロアの展示準備室では、展示台や解説パネルを使った仮組みが進められていた。
「本番と同じように、一度並べてみるの」
「見やすい高さや、照明の当たり方を確かめるため?」
「そう。写真や図面だけだと、実際に置いた時に全然違ったりするから」
展示準備室の隣には、会社の古い記録を保管する資料室がある。
どちらの部屋も廊下から出入りできるほか、室内の扉でもつながっているらしい。
「なくなったのは、資料室にあった業務日誌」
「日誌?」
「葉住店が開業した時から、ずっと書き続けてるもの。売上とか、その日の業務報告とか。開業したばかりの頃は、館内で起きたことや、従業員同士の伝達なんかも、かなり細かく書いてあったみたい」
手書きの日誌には、開業当時の混乱も残されていた。
機械が動かなかったこと。
届くはずの商品が届かなかったこと。
初めての週末に客が押し寄せ、予定していた休憩を誰も取れなかったこと。
仕事上の記録ではあるが、そこにいた人たちの声や癖まで、行間に残っているようなものなのだろう。
「今回の展示では、その開業初年度の日誌を使う予定だったの」
「一冊だけ?」
「うん。展示台の上に開いて置いて、横に解説をつける予定だった」
資料室には、葉住店の開業以来の日誌が年度ごとに並んでいる。
日誌は、サクラモールのイメージカラーである濃紺を使った特注品だった。
開業当時から規格はほとんど変わっておらず、どの店舗でも同じ表紙、同じ大きさの日誌が使われている。
背表紙に記されているのは年度だけだった。
店舗名や記録された期間は、表紙を開き、内側に押された印や最初のページを確認しなければわからない。
「一年で一冊じゃないの?」
「うん。書き終わったら次の日誌に替えるから、忙しかった年は冊数が多いし、少ない年もあるんだよね」
「じゃあ、同じ年度の日誌が何冊も並んでいるんだ」
「そう。何冊あるかも、年によって違うの。それで、自分が見たい日誌を棚から出した場所には、青い札を差し込むんだよ」
「札?」
「出庫札。『出庫中』って書いてある札を、日誌の代わりに棚へ差しておくの。だから、もともとどこにあったかはわかる。同じような日誌が並んでるから一目でわかるようにね」
「札は残っているのよね」
「うん。でも、日誌は戻ってきてない」
事件が起きたのは、前日の金曜日だった。
開業初年度の日誌は資料室から展示準備室へ移され、仮設の展示台に置かれていた。
同じ展示準備室には、本社へ返す日誌も三冊あった。
別の支店の歩みを紹介する展示の参考として、本社の資料管理部門から借りていたものだった。そちらはすでに確認を終え、返却の準備が整えられていた。
「借りた三冊は、一冊ずつ白い保存紙で包まれてた」
「包みの外から、中身は見える?」
「見えない。傷まないように、きちんと包んであるから」
三冊の白い包みは、展示準備室の入口近くにまとめて置かれていた。
その日のうちに、同じ部屋に置かれた紺色の返却箱へ入れ、社内便で本社へ返す予定だったという。返却箱は本社便の回収が来ると次の箱が設置され、次の回収が来るまでいつ入れてもいいようなルールになっている。
基本的には18時までに箱に入っていることというのが、受付ルールだったが、回収便へ渡す菜穂に直接お願いすれば、回収前なら入れてもらえた。内線で待ってほしいと泣きつかれることも稀だがある。
「それを運ぶのが、私の担当なんだよねぇ」
菜穂の仕事は、展示準備室の入口付近に白い包みが三冊あることを確認し、返却箱へ入れることだった。
箱に封をして台車へ載せ、地下の集荷場所まで運ぶ。
「それって中身は確認しないの?」
「しない。それは展示を担当してる人が、包む前に確認してるから。私は三冊あるかだけ見ればいいことになってた」
「包みを開け直したら、保存紙も無駄になっちゃうのか」
「そう。それに、返却する資料を勝手に開けるのも違うからね」
菜穂はカップを持ち上げたが、飲まずに戻した。
受け皿とカップが触れ、小さな音がした。
「社内便は、普段なら十八時二十分とか、二十五分くらいに来てね」
「決まった時刻ではないんだ」
「交通状況で少し前後するから。でも、その日は十八時十分頃に担当の人から直接連絡が来たの。今日は少し早めに、十八時十五分頃に回収させていただきたいって」
「五分から十分ほど早かった」
「うん。それくらいなら、全員に知らせるほどでもないよなって思ってさ」
あとから本社へ送りたいものを持ってくる人がいれば、今日は少し早く来てしまったのだと謝ればよい。ルール的にも破ってはいない。
菜穂はそう考えた。
「だから、白い包みが三冊あるのを確認して、箱へ入れて、封をした。十八時十五分に台車で地下へ運んだの」
「その時、包みには触っているのね」
「もちろん。でも、三冊とも同じくらいの大きさだったし、持った感じも特に変わらなかった」
菜穂が返却箱を地下へ運んだあと、展示担当者が展示準備室へ戻った。
そこで、展示台に置かれていたはずの開業初年度の日誌がなくなっていることに気づいた。
「資料室へ戻した人はいなかったの?」
「いなかった。開業日誌があった場所には、出庫札が残ったままだった」
「ほかの場所へ移した可能性は?」
「展示準備室も資料室も、みんなで探した。でも見つからなかった」
「資料室の棚にある日誌も、一冊ずつ開いて確認したの?」
「そこまではしてない。机の下とか、別の棚に置かれてないかとか、目につくところを探しただけ。開業した年の日誌が、ほかの場所に紛れてないかは背表紙を見て探したよ」
会社は、廊下に設置された防犯カメラの映像も確認した。
展示準備室や資料室の中までは映っていない。
けれど、大きな日誌をそのまま抱え、廊下を歩く人物は映っていなかった。
「カメラに映っていたのは」
菜穂は唇を結んだ。
「紺色の返却箱を、台車で地下へ運んでいる私だけ」
開業初年度の日誌は、本社へ返す三冊と同じ規格だった。
濃紺の表紙。
ほとんど変わらない大きさと厚さ。
「会社の人に言われたの」
菜穂は、膝の上で両手を重ねた。
「私が包みを開けてない以上、返却箱の中に開業日誌が入っていた可能性は否定できないって」
「菜穂が入れたと思われているの?」
「強く疑われてるわけじゃないよ」
返事が少し早かった。
「私が資料を持ち出す理由なんてないし、みんなもそれはわかってくれてる。ただ、建物の外へ運んだ可能性がある人として、事情を聞かれてるだけ」
聞かれているだけ。
菜穂はそう言ったが、その言葉を何度も自分に言い聞かせているように聞こえた。
「本社には連絡したの?」
「した。でも、返却箱を確認できるのは月曜日になるの」
「もう届いているんじゃないの?」
「金曜の夕方に回収された箱は、いったん社内便の集配倉庫へ運ばれるの。本社への配達は平日だけだから、今はまだ倉庫にある」
サクラモール葉住店は、土曜日も日曜日も営業している。
菜穂たちの勤務はシフト制で、菜穂はこの土曜日が休みだった。翌日の日曜日は出勤するという。
けれど、本社は土曜日と日曜日が休みだった。
「私が明日会社へ行っても、箱は本社に届いてないの。月曜の朝に本社へ運ばれて、資料管理の担当者が立ち会って開けることになってる」
「では、箱の中に何が入っているかは、それまで誰にもわからないのね」
「うん」
返却箱の中に開業日誌があれば、少なくとも行方はわかる。
けれど、なぜ本社へ返す三冊の中へ紛れ込んだのかという問題は残る。
開業日誌が入っていなければ、行方はさらにわからなくなる。
「杉浦さんだけは、すぐにかばってくれたの」
「杉浦さん?」
「私が入社した頃に、仕事を教えてくれた人。今は本社にいるの」
菜穂が慣れない仕事で失敗した時も、杉浦さんは人前で責めず、あとから一つずつやり方を教えてくれたという。
数年前に本社へ異動したあとも、ときどき葉住店へ連絡をくれる。
今回、本社から日誌を借りる際にも、杉浦さんが間に入って手配をしてくれたらしい。
「事情を聞いた杉浦さんが、真っ先に言ってくれたの」
菜穂は、その時の言葉をなぞるように、ゆっくり続けた。
「菜穂さんが資料を持ち出すような人ではありません」
そこで一度、言葉を切った。
「私が知っています、って」
菜穂の表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
「ありがたかった。みんなが疑ってなくても、ああいう時って、自分まで自分のことがわからなくなるから」
「包みを入れた時のことを、何度も思い返した?」
「うん。三冊だった。ちゃんと確認した。箱にも自分で入れた」
「白い包みが三冊だったことは絶対に間違いないって言えるのね」
「そう」
白い包みが三冊。
菜穂が確かめたのは、その数だけだった。
「澪」
菜穂が、少し困ったように眉を寄せた。
「これ、ただの探し物だと思う?」
私はすぐには答えなかった。
なくなったものを探すだけなら、月曜日に返却箱を開ければよい。
けれど、開業日誌が箱の中から見つかったとしても、それで終わりにはならない。
誰かが、開業日誌を返却箱へ紛れ込ませたのだとしたら。
菜穂の仕事を知り、菜穂の手で社内便に載せさせたのだとしたら。
日誌を建物の外へ運んだのは、菜穂だったという形だけが残る。
「これは、ただの探し物ではないと思う」
菜穂が顔を上げた。
「誰かが、菜穂の仕事を利用して日誌を外へ出したのだとしたら、もう事件だよ」
事件。
口にした言葉が、湯気の薄くなったテーブルの上へ落ちた。
これまで私たちのところへ来たのは、五分ずれた時計や、返らない言葉や、本に挟まれた小さなしおりだった。
誰かの気持ちが、ものの陰に隠れていただけだった。
けれど今回は違う。
誰かが意図して、ものを動かしている。
しかも、その誰かは、菜穂が疑われる形を利用した。
そのことに、私は自分で思っていた以上の憤りを感じていた。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
新しい章に入りました。
今回は菜穂の職場のお話です。
そう……あのパンチのきいた人たちのいる……職場です。
楽しんでいただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




