第四章 しおりの謎(五)
菜穂の言う「いい考え」は、思っていたよりずっと静かなものだった。
木犀堂の柳田さんに話を通し、店に迷惑がかからない形で、元の投稿を引用する。そこに、ただ一言だけ添える。
新しいしおりが見つかったそうです。
言葉は、見つけた人だけに。
写真は、本棚の端だけだった。棚の番号も、本の題名も写っていない。けれど、あの投稿をずっと追いかけていた人なら、たぶんわかる。そんなぎりぎりのところを、菜穂は器用に選んだ。
その相談をするため木犀堂へ行った時、私はもう一つ、柳田さんに確かめてもらった。
菜穂がざわっとしたと言った四枚は、ほかのしおりより後に見つかったものなのか。
柳田さんが桜井さんや篠宮さん、松尾さんにも確認してくれたところ、正確な日付までは残っていなかったものの、四枚はいずれも、薄い紙に書かれた休ませる言葉のしおりが知られるようになったあとで見つかったものだった。
紙と言葉だけではない。
現れた時期も、二つに分かれていたことになる。
「釣り針じゃないからね」
菜穂は、こもれびでそう言った。
「じゃあ、何?」
「鈴」
「鈴?」
「来てほしい人にだけ聞こえる、小さい鈴」
それは少しだけ菜穂らしくない、きれいな言い方だった。本人もそれに気づいたのか、すぐに咳払いをしてスマートフォンを伏せた。
「まあ、言い換えると、合法的な待ち伏せです」
「言い換えない方がよかったわね」
春日井さんが、カウンターの奥で小さく笑った。
「待ち伏せというより、待ち合わせになればいいですね」
その言葉で、こもれびの空気が少しやわらかくなった。
投稿をしてから、半日ほどは何も起こらなかった。
けれど翌日の午後、木犀堂から春日井さんのところへ連絡が入った。若い女の子が、百円文庫の箱の前から動かないでいるらしい。本を探しているようにも見えるし、何かを待っているようにも見える、と柳田さんは言った。
私と菜穂が木犀堂へ向かうと、店先の百円文庫の箱の前に、その人は立っていた。
大学生くらいだろうか。淡い水色のカーディガンに、白いトートバッグ。長い髪を耳の下でひとつにまとめている。指先は本の背表紙に触れているのに、目はどこか別の場所を探しているようだった。
菜穂が、私の隣で小さく息をのむ。
「あのアイコンの子かも」
菜穂の目線の先には、その子が持っているトートバッグがあった。そこにぶら下がっていたキーホルダーには、SNSのアイコンと同じ白い花がついていた。
声をかける前に、柳田さんが店の奥から静かに出てきた。
「いらっしゃいませ」
それだけだった。
木犀堂では、その一言だけで十分な時がある。急かさない。問い詰めない。けれど、見ていないふりもしない。古い本と同じ速度で、柳田さんはその子のそばに立った。
女の子は、びくりと肩を揺らした。
「あの……ここに」
声が細かった。
「ここに、しおりがあるって」
「ええ」
柳田さんはうなずいた。
「あります」
その子の指先が、本の背表紙から離れた。
「どこに、ありましたか」
「店の奥にあった詩集の中です。ずいぶん前に買い取った本でしたが、昨日、たまたま開きまして」
柳田さんは、カウンターの上に置いてあった薄い紙片を取り出した。
生成り色の紙。片側に細い金色の線。角はきれいに丸められている。これまで見てきた、薄い方のしおりと同じ紙だった。
その子は、しおりを見た瞬間、息を止めたようだった。
柳田さんは、しおりを渡す前に、少しだけこちらを見た。私は小さくうなずく。菜穂も、珍しく黙っていた。
しおりには、こう書かれていた。
『ここへ来なくなっても、忘れたわけじゃない。
歩ける道が、少し増えただけ』
その子は、しおりを両手で受け取った。
何度も何度も、声に出さずにその言葉を読んでいるようだった。目元が少しずつ赤くなっていく。けれど、涙はすぐにはこぼれなかった。涙より先に、肩の力が抜けていくのがわかった。
「……来なくなったの、嫌になったからじゃないんですか」
ようやく、その子が言った。
柳田さんは答えなかった。
代わりに、私が一歩だけ前に出た。
「たぶん、少し元気になったからだと思います」
女の子がこちらを見る。
警戒と驚きが、同じくらい混ざった目だった。
「あなたは、その人を探していたんですね」
私が言うと、その子はしおりを握りしめた。
「探してなんか」
そこまで言って、言葉が途切れる。
木犀堂の中は静かだった。外を通る自転車の音と、遠くのパン屋から漂ってくる焼きたての匂いだけが、ゆっくり店の前を横切っていく。
「……探してました」
女の子は、ぽつりと言った。
「あの人の言葉を見つけると、少し楽だったんです。学校に行けない日も、家に帰りたくない日も、ここに来ると、どこかに一枚あるかもしれないって思えたから」
菜穂が、何か言いかけてやめた。
その子は続けた。
「でも、急に投稿が止まって。しおりもなくなって。もうここに来ないんだって思ったら、すごく怖くなって」
「だから、似たしおりを置いたの?」
菜穂の声は、いつもよりずっとやわらかかった。
女の子は、小さくうなずいた。
「最初は、誰かが気づいてくれたらいいなって思ったんです。似たしおりがあるって、どこかで話題になれば、あの人が見てくれるかもしれないって。戻ってきてくれるかもしれないって」
「元の人みたいに、なりたかった?」
私が聞くと、その子は首を振りかけて、でも途中で止まった。
「わかりません」
それは、嘘ではない声だった。
「なりたかったのかもしれないし、戻ってきてほしかったのかもしれないし、自分が置いた言葉でも誰かが救われたら、あの人がいなくても大丈夫になるかもしれないって思ったのかもしれない」
言葉が、少しずつ震えはじめる。
「でも、全然大丈夫じゃなかった。しおりを置けば置くほど、もっと探したくなって、もっと見つからなくなって」
女の子は、手の中のしおりを見た。
「最後は、何を書いても、いかないでって意味になっちゃった」
その言葉で、私は厚い紙のしおりを思い出した。
見つからない。
しおりの跡だけ、残っている。
同じ棚を、また探した。
止まったまま、待っている。
どれも、誰かを責める言葉ではなかった。けれど、どれも同じ場所に座り込んでいる言葉だった。
「あなたのしおりを見つけて、助かった人もいるかもしれない」
私は言った。
女の子は、驚いたように顔を上げた。
「でも、お店の人が困る置き方は、もうやめましょう。黒板の裏や、棚の奥や、時計の後ろは危ないから」
「……はい」
「それから」
私は少しだけ言葉を選んだ。
「救ってくれた人を、救ってくれた場所に縛らなくてもいいんだと思います」
女の子の目が揺れた。
「その人がここへ来なくなったのは、あなたを置いていったからじゃない。たぶん、歩ける道が増えたから。ここ以外にも、息ができる場所ができたから」
しおりの言葉を、もう一度見る。
『ここへ来なくなっても、忘れたわけじゃない。
歩ける道が、少し増えただけ』
「その人は、あなたを置いていったんじゃないわ。先に少し、歩けるようになったのかもしれない」
女の子の目から、ようやく涙がこぼれた。
菜穂が慌ててバッグを探る。
「ティッシュ、ティッシュ……あった。新品じゃないけど、未使用」
「新品じゃない未使用って、なに」
「袋がくしゃくしゃなだけ」
女の子は泣きながら、少しだけ笑った。
その笑い方を見て、私は少しほっとした。
柳田さんが、カウンターの奥から小さな木箱を持ってきた。
「もしよければ」
女の子が顔を上げる。
「この店の片隅に、しおりを置く場所を作ろうと思います」
「置く場所?」
「ええ。棚の奥や本の中に隠すのではなく、ここに。誰かに言葉を残したい方が、そっと一枚置ける場所です。もちろん、個人名や連絡先のようなものは困りますが」
柳田さんは、少しだけ考えるように木箱を撫でた。
「本を買う時に、持っていきたい方が一枚持っていく。それくらいのものなら、本とも相性がよさそうです」
「柳田さん、それ、素敵です」
菜穂が目を輝かせた。
「名前つけましょう。しおりの止まり木とか」
「鳥ですか」
「じゃあ、しおりの休憩所」
「急に公共施設みたいになった」
私が言うと、菜穂はむっとした顔をした。
「澪も考えてよ」
「うーん……しおり箱?」
「そのままだ」
「そのままが一番わかりやすいでしょう」
柳田さんは、静かに笑った。
「では、しおり箱で」
「採用された」
菜穂がなぜか悔しそうにした。
女の子は、そのやりとりを見ながら、しおりを胸の前で大事そうに持っていた。
「あの」
「はい」
「私、ここに置いてもいいですか。今度は、ちゃんと」
柳田さんはうなずいた。
「ええ。店が開いている時間に、ここへ持ってきてください」
女の子は、涙の跡を指で拭いながら、小さく頭を下げた。
「すみませんでした。お店のものを勝手に触ったり、変なところに置いたりして」
「じゃあ、まずは桜井さんと松尾さんに謝りに行きましょうか。黒板と時計の持ち主代表として」
菜穂が言った。
「持ち主代表……」
「棚については、柳田さんに謝れば大丈夫。たぶん棚まで話を通してくれるから」
女の子が、きょとんとした顔で柳田さんを見る。
柳田さんは真面目な顔でうなずいた。
「棚には、あとで私から伝えておきます」
「柳田さん、棚と話せるんですか」
「長い付き合いですから」
女の子が、涙の残る顔で少しだけ笑った。
それだけで、この場所にあった固い結び目が、ほんの少しほどけた気がした。
その日の夕方、私はこもれびに戻った。
春日井さんは、話を最後まで聞くと、いつものように静かに珈琲を淹れてくれた。菜穂は「私の鈴作戦、大成功だったでしょ」と胸を張り、私は「合法的な待ち伏せじゃなかったっけ」と返した。
「でも、びっくりしましたね」
春日井さんが、カップを置きながら言った。
「本当に、元のものらしいしおりまで見つかるなんて」
「それよ」
菜穂が、ぐっと身を乗り出した。
「私、あの投稿をするときは、“見つかったことにする”んじゃなくて、みんなに確認してもらった、あとから見つかった四枚のことをぼかして書いたつもりだったのよ。嘘はつかない、でも全部は言わない、っていう菜穂さんの高度な技術」
「高度かどうかは置いておくとして」
「置かないで」
「でも、柳田さんが薄い紙のしおりを、本当に古い詩集から見つけたと聞いた時は、私も驚いたわ」
あの薄い紙のしおりは、私たちが仕掛けたものではなかった。
菜穂の鈴に誘われて来た女の子を迎えるために用意した言葉ではなく、いつからか木犀堂の古い詩集の中で眠っていた言葉だった。それが、必要な時に、必要な場所から出てきた。
そんなふうに考えるのは、少し都合がよすぎるのかもしれない。
けれど古本屋には、そういう偶然が似合う気がした。
「嘘から出た誠、ってこういうことを言うのかしら」
菜穂が言った。
「嘘はついていないでしょう」
「そうなんだけど、こっちはちょっと鳴らしただけのつもりだった鈴に、本当に返事が来た感じ」
春日井さんが、静かにうなずいた。
「言葉も、残る場所を選ぶのかもしれませんね」
「春日井さんが言うと、しおりが自分で歩いてきたみたいに聞こえます」
「歩いたのではなく、待っていたのかもしれません」
二人のやり取りに、私は木犀堂の棚を思い出した。
誰かが読み終えた本。
誰かが手放した本。
誰かが途中で閉じた本。
その間に挟まれた一枚のしおりが、時間を越えて、別の誰かの手に届く。そう思うと、紙片一枚の小ささが、急に頼もしく見えた。
窓の外では、旧道さくら商店街の灯りがひとつずつともり始めていた。
「しおり箱、いいですね」
春日井さんが言った。
「ええ」
私はうなずいた。
「でも、あまり大げさにはしない方がいい気がします」
「そうですね。知っている人だけが、そっと使うくらいがよさそうです」
「イベント化したら、菜穂が張り切りすぎるし」
「聞こえてるわよ」
菜穂がすかさず言った。
その時、入口のベルが鳴った。
からん、といつもの音がする。
「こんばんは。澪さん回収便です」
修司さんだった。
店内に入るなり、私を見つけてほっとしたように笑う。
「いた。今日は無事に回収できそうだ」
「今日は足首までだったでしょう」
「どうかな。顔を見る限り、心のひざくらいまでは浸かってますね」
「また深くなってる」
菜穂が「今日は心のひざです」と報告する。
「報告しなくていいの」
「回収便への業務連絡よ」
修司さんは笑いながら、私の隣に座った。春日井さんが「いつものですね」と言い、修司さんは「お願いします」と答える。
「で、ほどけた?」
修司さんが、小さく聞いた。
「少しだけ」
「そっか」
それ以上は聞かなかった。
そういうところも、私は好きだと思った。もちろん、ここはこもれびだから、口には出さない。
ただ、テーブルの下で、修司さんの手の甲に指先を少しだけ触れた。
修司さんが、こちらを見ずに笑ったのがわかった。
数日後、木犀堂の入り口の棚の隅に、小さな木箱が置かれた。
箱の前には、柳田さんの字で短く書かれた札が添えられている。
『ご自由に一枚どうぞ。
残したい方は、店主まで。』
その木箱の中には、まだ数えるほどしか、しおりは入っていない。
けれどある日、私はその中に一枚の新しいしおりを見つけた。少し厚い紙ではなかった。金色の線も、前よりずっと控えめだった。手作りの角は少しだけいびつで、それがかえってやわらかく見えた。
そこには、こう書かれていた。
『見つからない日も、歩いている途中』
私はその一枚を見て、胸の奥が静かに温かくなるのを感じた。
誰かを呼び戻すためではない。
誰かに追いつくためでもない。
ただ、自分がまだ歩いていることを、そっと確かめるための言葉だった。
こもれびへ向かう道すがら、旧道さくら商店街の風はまだ冷たかった。時計屋の奥で古い針が小さく鳴り、つづりの店先では猫の置物がいつもの顔で通りを見ていて、パンの匂いがした。
言葉は、人を引き止める紐にもなる。
けれど、ちゃんとほどければ、次の道を照らす小さな灯りにもなる。
私はコートの襟を胸元で合わせ直し、こもれびの灯りへ向かって歩いた。
今日は、ここからでいい。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
しおりの謎、最終回でした。
私的には菜穂さんの雰囲気が好きです。
楽しんでいただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




