第四章 しおりの謎(四)
その夜、私は家のダイニングテーブルに、預かってきたしおりを並べていた。
こもれびの灯りの下で見るのと、自宅の明かりの下で見るのとでは、同じ紙片でも少し表情が違って見える。生成り色の紙はより白く、金色の線は少しだけ硬く光った。テーブルの端では、修司さんが湯気の立つマグカップを二つ並べている。
「澪さん」
「なぁに?」
「しおりに見つめ返されてるよ」
「見つめてはいないと思う」
「いや、これは見つめてる。小さい紙なのに、けっこう目力がある」
修司さんはそう言って、私の前にマグカップを置いた。中身はカフェインレスの紅茶だった。夜に珈琲を飲むと、私が眠れなくなることをよく知っている。
「ありがとう。そうやって覚えていてくれるの、嬉しい」
「今、俺の心に赤いスタンプが押されました」
「どんなスタンプよ」
「大変よくできました、ってやつ」
「それ、自分で押すものじゃないでしょう」
「澪さんに押してもらったので、今日はもう勝ちです」
修司さんは、いつものように少し大げさに胸を張った。
家の中でこういうことを言われるのは、嫌ではない。むしろ、たぶん、かなり好きだ。外で言われると照れくさいだけで、ここではちゃんと嬉しい。
「で、しおり会議は続行中?」
「会議というほどじゃないけど」
私は、テーブルに並べたしおりを見下ろした。
言葉の内容で分けようとすると、どうしても曖昧になる。ほっとするものと、胸の奥がざわつくものがある。けれど、それはただの感覚かもしれなかった。そう思うと、どうしても指先が止まってしまう。
「分けたいんだけど、うまく分けられないの」
「何で?」
「言葉の感じ」
「感じ」
修司さんは、椅子に座りながら小さく笑った。
「澪さんらしい基準だ」
「でも、感じだけで分けるのは危ないでしょ。思い込みになるかもしれないし」
「なるほど。名探偵にも、証拠が必要なわけですね」
「名探偵ではないけど」
「俺の中では、だいたい名探偵です」
「だいたいって何」
「日常の謎にだけ強い名探偵」
「限定されてる」
「限定版は価値があるから」
「そうやって、すぐ丸め込むとこ好きよ」
私が言うと、修司さんは一瞬だけ黙った。それから、少しだけ口元をゆるめる。
「澪さん、家だと強いね」
「家だから」
「外でも言ってくれていいんだよ」
「それは別」
「残念。でも家で聞けるなら十分です」
修司さんはそんなことを言いながら、テーブルの上のしおりを二枚、そっと持ち上げた。紙を傷めないように、指先だけで軽くしならせる。その手つきは、ふだんキーボードを叩いている時よりずっと慎重だった。
「これ、紙が違うね」
「紙?」
「うん。こっちは少し薄い。手触りも柔らかい。で、こっちはちょっと厚い。表面がつるっとしてる」
修司さんは、二枚をテーブルの上に戻した。
「よくわかるわね」
「名刺用にいろいろカード紙を買うからね。厚さとか、表面の感じとか、けっこう気になるんだよ。印刷した時の色の乗り方も違うし」
「そういえば、前に紙見本をやたら集めてたわね」
「あれは男のロマンです」
「紙が?」
「紙は奥深いよ。薄いくせに、態度がある」
なんとなくわかるような、わからないようなことを言いながら、修司さんはしおりを一枚ずつ確かめていった。やがて、テーブルの上に二つの山ができる。
「このあたりは、たぶん同じ紙。こっちは別の紙だと思う。紙の厚さと、金の線の感じが似てる。それだけだと足らないなら、この分けたしおりの角はそろってる」
私は息を止めるようにして、その二つの山を見た。確かに一つの山は角がピタッと一致している。分けたから気が付いたけれど、バラバラに一緒になっていたときはほんの少しの違いなので、気が付きにくい。
そこに、言葉の違和感が形を持って現れていた。一つの山には、読む人を休ませる言葉が並んでいる。もう一つの山には、何かを探している言葉が並んでいる。偶然と言うには、あまりにもきれいに分かれていた。
「……分かれた」
「分かれたね」
「修司さん、これ」
「うん」
修司さんは、私の言葉の続きを待つように、静かにうなずいた。
「同じ人じゃないのかもしれない」
「かもしれないね」
「でも、似せてる」
「似せてると思う。紙も、線も、サイズも。ぱっと見た時に同じに見えるようにしてる」
修司さんはそこで、少しだけ声を落とした。
「でも、同じにしようとしてるのに、言葉だけが隠しきれてない」
その言い方に、私は胸の奥を軽く押されたような気がした。
言葉だけが隠しきれていない。
そうだ。
紙は似せられる。金色の線も真似できる。角を丸く切ることもできる。けれど、言葉の向いている方角までは、簡単には真似できない。
「最初の人は、誰かを休ませたかった」
私は、小さく言った。
「でも、もう一つの方は、誰かを探してる」
「うん」
「もしかしたら、その誰かは、最初の人なのかもしれない」
修司さんは、すぐには返事をしなかった。その沈黙に、私は顔を上げる。
「修司さん?」
「いや」
修司さんは、少し笑った。
「探す方は、しんどいだろうなと思って」
「……そうね」
「でも、澪さんが探すなら、少し違うかもね」
「なにが?」
「捕まえるためじゃなくて、ほどくために探すでしょ」
そんなことを真顔で言われると、困る。
私は紅茶のマグカップを両手で包んだ。少しぬるくなった陶器の温度が、手のひらにゆっくり移ってくる。
「修司さんは、私のことをよく見すぎだと思う」
「好きなので」
「うん」
私は少しだけ視線を落とした。
「私も、修司さんのそういうところが好き」
修司さんは、また黙った。けれど今度の沈黙は、先ほどのものとは違っていた。少し照れて、少し嬉しそうで、何を言っても負けそうだから黙っているような沈黙だった。
修司さんは後ろからそっと私を抱きしめて、ようやく口を開いた。
「……今のは、かなり効きました」
「何に?」
「俺に」
思わず笑ってしまった。
それで少しだけ、しおりたちの沈黙が軽くなった気がした。
翌日の午後、私は預かったしおりを封筒に入れて、こもれびへ向かった。
修司さんは仕事の合間に、玄関まで見送りに出てきてくれた。在宅勤務なので、短い休憩ならこうして顔を出せる。
「足首までだよ」
「まだ何も言ってない」
「澪さんの顔に、今日はこもれびで続きを考えますって書いてある」
「私、顔に書きすぎじゃない?」
「澪さんの顔は、俺には大きめの掲示板です」
「嫌な掲示板ね」
「かわいい掲示板だよ」
「嬉しいけど、出かけに言うのはずるい」
「好きって言われたので、今日は勝ち越しです」
「勝ち負けなの?」
「俺の中では毎日優勝してる」
「はいはい。行ってきます」
「行ってらっしゃい、澪さん」
結局、私は少し笑ったまま玄関を出ることになった。
こもれびに着くと、菜穂はもう来ていた。春日井さんもカウンターの奥で、いつものように珈琲を淹れている。
「おはよう、じゃないね。こんにちは、澪」
「こんにちは」
「昨日のしおり、持ってきた?」
「持ってきたわ」
私は封筒からしおりを取り出し、テーブルの上に二つの山を作った。菜穂が目を丸くする。
「なにこれ。分けたの?」
「修司さんが、紙質の違いに気づいたの」
「修司さんが?」
「名刺用のカード紙をよく見るから、気になるんですって」
「あの人、澪のことだけ見てるんじゃなかったのね」
「え?なにそれ」
「いや、紙も見てたんだなって」
春日井さんが、カップを置きながら少しだけ笑った。
「見るものが多い方は、気づくことも多いですね」
私は、二つの山を指した。
「こっちは、紙が柔らかい。薄くて、少しざらっとしてる。金色の線も細い。こっちは、少し厚い。表面がつるっとしていて、金色の線も少し太い」
菜穂はしばらく黙って、二つの山を見比べた。
それから、ぽつりと言った。
「……気持ち悪いくらい、分かれたね」
「ええ」
「私がざわっとしたやつ、全部こっちじゃん」
菜穂が指したのは、厚い紙の山だった。
私は、その山にある四枚のしおりを並べ直した。
『見つからない』
『しおりの跡だけ、残っている』
『同じ棚を、また探した』
『止まったまま、待っている』
「紙が違うなら、やっぱり別の人ってこと?」
「その可能性が高いと思う。しかも、似せようとしている」
「なりすまし?」
菜穂の声が少し硬くなった。
「まだ、そう決めつけるには早いわ。でも、少なくとも元の投稿主とは別の人が、似たしおりを作っている可能性がある」
「でも、なんのために?」
春日井さんが静かにカップを置いた。
「元の方が、気づくように、でしょうか」
私は、春日井さんを見た。
「私も、それを考えました」
「どういうこと?」
菜穂が聞く。
「元の投稿主の投稿は、半年くらい前から止まっている。そのあとも、似たしおりが見つかっている。もし、その人を探している誰かがいるとしたら、自分が似たしおりを置き続ければ、元の投稿主が気づくかもしれないと思ったんじゃないかしら。どっちが先に置かれたカードかわからない今では可能性でしかないけどね」
菜穂は、口を開きかけて、すぐには何も言わなかった。その表情には、驚きと納得が半分ずつ浮かんでいた。
「つまり、元の人を呼ぶために、元の人みたいなことをしてるってこと?」
「そう」
「でも、直接呼ぶんじゃなくて?」
「直接呼べない相手なのかもしれない。名前も顔も知らない。SNSの投稿しか知らない。だから、その人が見ていた場所に、同じようなしおりを置く」
厚い紙の山は、静かにそこにあった。そこに並んだ言葉は、読んだ人を休ませようとしているというより、何かを探しているように見えた。
たぶん、元の投稿主を。
こもれびの中が、少し静かになった。
菜穂が、ゆっくりスマートフォンを取り出す。
「じゃあさ、その可能性を採用するとしたらね、探す場所が違ってたのかも」
「どういうこと?」
「私たち、元の投稿主を探そうとしてた。でも、今しおりを置いてる人を探すなら、見る場所は別じゃない?」
菜穂はSNSの画面を開いた。元の投稿主の最後の投稿ではなく、その下についたコメント欄を表示する。
「ほら。このアカウント、何回もコメントしてる」
顔写真はない。淡い青色の丸いアイコンに、白い花の絵だけが置かれている。投稿数は少ない。けれどコメントだけは、元の投稿主のページに何度も残していた。
「見つからなかった。同じ棚をまた見た。まだ待ってる気がする。……ほら、似てるでしょ?」
菜穂が画面を指先で軽く叩いた。
厚い紙のしおりに書かれていた言葉と、そのアカウントのコメントは、ところどころで薄く重なっていた。もちろん、まったく同じ言葉ではない。けれど、同じ場所を何度も見に行く感じや、待っていればまた何かが置かれるかもしれないと思っている感じは、よく似ていた。
「この人かもしれない」
私は言った。
菜穂が息をのむ。
「今、しおりを置いてる人?」
「まだ、わからない。でも、元の投稿主の言葉を追いかけている人がいる。その人の言葉と、厚い紙のしおりの言葉は似ている」
春日井さんが、静かにうなずいた。
「別の方がいる、という前提で見なければ、見えないものですね」
「ええ」
私は、テーブルの上の二つの山を見た。
今まで、商店街のあちこちから見つかるしおりは、一つの謎に見えていた。けれど本当は、二つの声が同じ場所に重なっていたのかもしれない。一つは、誰かを休ませるための声。もう一つは、その声を失いたくなくて、同じ場所を探し続けている声。
菜穂が、ぽつりと言った。
「この人も、迷子なんだね」
その言葉に、私は返事をしなかった。
ただ、厚い紙のしおりを一枚、そっと指先で押さえた。
その一言は、もうただの謎ではなかった。誰かの足音に、少しずつ近づいている気がした。
「でも、どうやってその人と会おうか」
私が言うと、菜穂が急に顔を上げた。
「それは、菜穂さんに任せて」
「嫌な予感しかしないんだけど」
「大丈夫。私にいい考えがあるのよ」
「その言い方、いちばん不安になるわ」
「失礼ね。ちゃんと考えてるわよ」
菜穂はスマートフォンを握ったまま、少しだけ真面目な顔になった。
「誰かを晒したり、追い詰めたりはしない。もちろん、法を犯すようなこともしない。元の投稿主さんも、今しおりを置いてるかもしれない子も、傷つけるつもりはない」
春日井さんが、静かに菜穂を見た。
「木犀堂さんには、先にお話ししておいた方がよさそうですね」
「もちろんです」
菜穂は、なぜか胸を張った。
「ここは菜穂さんに任せて!」
こういう時の菜穂は、頼もしい。
そして、少しだけ危ない。
私はテーブルの上のしおりを見下ろした。別の声がある。別の誰かがいる。そういう前提で見なければ、見えないものがある。
こもれびの中で、誰もすぐには何も言わなかった。ただ、春日井さんの淹れた珈琲の香りだけが、静かに深くなっていった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
だいぶ謎が見えてきましたね。
どういう手段を使うんでしょうか。菜穂さん。
楽しんでいただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




