第四章 しおりの謎(三)
しおりのことが本当に商店街の話題になったのは、それから数日後のことだった。
こもれびの閉店後、いつもの席に小さな紙片が何枚も並べられていた。
淡い生成り色のもの、少し白すぎるもの、角がきれいに丸いもの、ぎこちなく切られたもの。片側に金色の線が引かれているものもあれば、線が少し波打っているものもある。
小さな謎の会、と春日井さんが名づけた集まりは、もともと大げさなものではない。こもれびに持ち込まれたささやかな引っかかりを、商店街の人たちが珈琲片手に眺めるだけの会である。
けれど今回は、テーブルの上に並んだ紙片の数だけ、商店街のあちこちに小さな入口が開いているようだった。
「本日の議題は、しおりの謎について、ということでよろしいでしょうか」
春日井さんが、いつもの落ち着いた声で言った。
「議題って言うと、急にちゃんとした会みたいですね」
菜穂が言うと、春日井さんは少しだけ笑った。
「ちゃんとしていない会ほど、名前だけはちゃんとしておくものです」
「名言っぽい」
「名言っぽいですが、逃げ道です」
カウンターの奥では、湯気の細い線がゆっくり立ちのぼっている。こもれびはもう閉店しているので、入口の札は「準備中」に返されていた。
けれど店内には、春日井さんと私と菜穂のほかに、木犀堂の柳田吾郎さん、松尾時計店の松尾宗一さん、雑貨店つづりの篠宮千歳さん、ベーカリー桜井の桜井真一さんが集まっていた。
修司さんは、まだ家で仕事をしている時間だった。在宅勤務とはいえ、終わるのは十九時半である。今日も「終わったら迎えに行きます。謎に足首まで浸からないように」とメッセージが届いていた。足首までならまだ浅いのでは、と返しかけて、やめた。そういうところを見透かされるから、修司さんは厄介なのだ。
「まずは、うちからですかね」
柳田さんが、小さな木箱をテーブルの端に置いた。
箱の中には、木犀堂で見つかったしおりがまとめて入っていた。前に見せてもらったものよりも、少し増えているように見える。
「本に挟まっていたもの、棚の端に落ちていたもの、百円文庫の箱から出てきたもの。厳密には分けていません。気づいたらここに入れていました」
柳田さんは、箱から何枚かを取り出して並べた。
『読めない日は、背表紙だけ眺めればいい』
『見つからない』
『急がなくていい。
紙は逃げない』
『途中でやめた本も、あなたを責めたりしない』
『今日は、ここまででいい』
短いものもあれば、二行に分かれたものもある。言葉の調子も少しずつ違っていた。けれど、どれも小さな紙の上に、静かに収まっている。
「うちでも見つかったよ」
ベーカリー桜井の桜井さんが、エプロンのポケットから透明の袋に入れたカードを二枚取り出した。ひとつは店先の黒板メニューの裏に貼られていたもの。もうひとつは、紙袋を置いている棚のすき間から出てきたものだという。
桜井さんは、袋から出したカードをそのままテーブルに置いた。
『しおりの跡だけ、残っている』
『朝が重い日は、昼にひとかけらでいい』
「パン屋さんっぽいのと、パン屋さんっぽくないのがある」
菜穂がつぶやいた。
桜井さんは少し照れたように笑った。
「朝が重い日は、っていう方は、ちょっといいなと思ったんだよ。朝ごはん食べられない日って、あるじゃない。そういう子がいるなら、うちの小さいパンでも買っていけばいいかなって」
「商売につなげた」
「違うよ。ほんの少しね、ほんの少し」
店内に笑いが起きた。
けれど桜井さんは、すぐに少し困った顔になる。
「最近、若い子たちが黒板の裏をのぞいたり、棚の下を見たりするようになってね。悪い子たちじゃないんだけど、ちょっと困ってるんだ。黒板、倒したら危ないでしょ」
「それは困りますね」
春日井さんが静かに言う。
「言葉を探すために、誰かの店を傷つけてしまっては、言葉の方も居心地が悪いでしょう」
春日井さんらしい言い方だった。
次に、雑貨店つづりの篠宮さんが、自分の紙袋をごそごそと探った。雑貨店の店主らしく、紙袋の中からはカードだけでなく、小さなリボンや値札の予備まで一緒に出てきた。
「うちは、隠し場所だけなら売るほどありますから」
「本当にありそう」
菜穂が身を乗り出した。
「どこにあったんですか?」
「陶器の小さな家の中、猫の置物の下。それから、木製の引き出しの三段目にもありました」
「完全に宝探しじゃない」
「最初は、誰かの遊びだと思ったんです。でも、最近はカードだけを探しているお客さんもいて」
篠宮さんは、テーブルに三枚のカードを並べた。
『選べない日は、眺めるだけでいい』
『同じ棚を、また探した』
『かわいいと思えたものが、今日の味方です』
「つづりさんのは、なんか場所に合ってるね」
菜穂が言った。
「そうなんです。だから最初は、うちの商品に合わせてくれたのかなと思っていたんですけど」
篠宮さんは、少し困ったように笑った。
「でも、カードを探しに来る子たちの中に、楽しそうというより、必死な子がいるんです。見つからないと、すごく落ち込んでしまう子もいて」
「そんなに?」
「ええ。小さなカード一枚なのに、まるで合格発表でも見るみたいな顔をしているんです」
松尾時計店の松尾さんも、胸ポケットからカードを取り出した。
「うちは、柱時計の裏に挟まっていましたのと、ガラス製の置時計の下でした」
「柱時計の裏って、普通のお客さんは見ませんよね」
私が言うと、松尾さんはうなずいた。
「ええ。だから、掃除の時に気づきました。うちの古い時計は、背面にほこりが溜まりやすいので」
松尾さんは二枚のカードを並べた。
『止まったまま、待っている』
『止まった時間があってもいい。
針は、また動き出せるから』
時計屋さんで見つかるには、できすぎているくらいの言葉だった。片方は、止まったままの時間を見つめている。もう片方は、動き出す日が来るかもしれないと、遠くに灯りを置いている。
「これ、いいですね」
菜穂が、二枚目のカードを見て言った。
「でしょう。うちの時計にも聞かせたいくらいです」
松尾さんが真面目な顔で言うので、春日井さんが小さく咳払いをした。笑いを隠したのだと思う。
テーブルの上には、いろいろな店から持ち寄られたカードが並んでいた。
『読めない日は、背表紙だけ眺めればいい』
『見つからない』
『急がなくていい。
紙は逃げない』
『途中でやめた本も、あなたを責めたりしない』
『今日は、ここまででいい』
『しおりの跡だけ、残っている』
『朝が重い日は、昼にひとかけらでいい』
『選べない日は、眺めるだけでいい』
『同じ棚を、また探した』
『かわいいと思えたものが、今日の味方です』
『止まったまま、待っている』
『止まった時間があってもいい。
針は、また動き出せるから』
どれも、悪い言葉ではない。
けれど、並べてみると、同じ紙の上に違う温度の言葉が混ざっているように見えた。
菜穂が、テーブルの上をじっと見下ろす。
「ねえ、澪」
「なに?」
「なんか、全部いい言葉のはずなのに、並べると変じゃない?」
「変?」
「うまく言えないけど。ほっとするやつと、胸の奥がざわっとするやつがある」
その言い方は、いつもの菜穂にしては慎重だった。
私はうなずいた。
菜穂が感じているものは、私が木犀堂で感じたものと同じだった。紙や文字や金色の線の違いだけではない。もっと根っこのところで、置かれた言葉の重さが違っている。
けれど、まだそれを結論にするには早い気がした。
「投稿していた人は、もう更新していないんですよね」
柳田さんが言った。
菜穂はスマートフォンを取り出し、SNSの画面を開いた。みんなが少しずつ身を乗り出す。
「元の投稿は、半年くらい前で止まってる。最後の方は、病院帰りとか、今日はこもれびで温かいものを飲んだとか、木犀堂で本を買ったとか、そういう内容が多いかな」
「名前は?」
「本名じゃないと思う。顔も出してない。手元とか、棚とか、カードの端だけ」
「その方の投稿が止まってからも、カードだけは見つかっているということですか」
松尾さんが静かに言った。
「そうなりますね」
春日井さんが答えた。
断定するには、まだ足りない。けれど、テーブルの上には確かにいくつもの沈黙があった。似たような小さな紙に書かれているのに、どれも同じ顔をしているわけではない。
「でもさ」
菜穂が、少し困ったように笑った。
「これ、悪いことって言い切れないのが難しいよね。カードを見つけて、本当に救われてる子もいるわけでしょ。商店街に若い子が来てくれるのも、悪いことじゃないし」
「ええ」
春日井さんがうなずいた。
「ただ、来てくださる方にも、この場所で働いている方にも、無理がない形であってほしいですね」
「うちの黒板は、無理が出始めてます」
桜井さんが手を上げる。
「それは早めに対策しましょう」
春日井さんが真顔で言ったので、また少し笑いが起きた。
顔も名前も知らない誰かの言葉に救われることはある。むしろ、知らないからこそ受け取れる言葉もあるのだと思う。近すぎる人の励ましは、時にまぶしすぎる。遠くから差し出された一行だから、そっと持てることもある。
けれど、その一行を握りしめすぎると、今度は手を開けなくなる。
私は、SNSの画面に並んでいたコメントを思い出した。
今日も救われました。
また探しに行きます。
この言葉がないと、少し不安です。
戻ってきてほしい。
最後の一文だけが、少しだけ重く残った。
その時、こもれびの扉についたベルが鳴った。
からん、と夜の音がした。
「こんばんは。澪さん回収便、業務終了につき出動しました」
修司さんだった。重くなりかけた店内の空気と、珈琲を一杯いただいてそろそろいい時間かな、というこちらの気持ちに応えるような登場だった。
仕事終わりのはずなのに、相変わらず声だけは軽い。店内に集まった顔ぶれを見て、少しだけ目を丸くしたあと、すぐに私を見つけて笑った。
「いた。今日は足首どころか、ひざまで浸かってますね」
「まだ足首です」
「澪さんの足首は、ずいぶん深いところにあるんだね」
「どういう意味よ」
菜穂が「修司さん、今日はひざ上です」と楽しそうに告げ口をした。
「菜穂」
照れくささもあって、私は口をとがらせて言った。
「報告義務でしょ、それは」
「誰への?」
「回収便への」
修司さんは笑いながら、私の隣まで来た。テーブルの上に並んだカードを見て、表情を少しだけ静かにする。
「こんなにあったんだ」
「商店街のあちこちから出てきたの」
私はそう説明した。
修司さんは、カードには触れず、少し身をかがめていくつかの言葉を読んだ。『急がなくていい』『朝が重い日は、昼にひとかけらでいい』『見つからない』『止まったまま、待っている』。最後の一枚で、ほんの少しだけ目が止まる。
「待つ言葉って、増えると重くなるね」
修司さんは、それだけ言った。
明るい声ではなかった。けれど、暗い声でもなかった。よく知っている道の途中に、昔つまずいた石を見つけたような声だった。
「修司さん?」
私が見上げると、彼はすぐにいつもの顔に戻った。
「さて、澪さん。今日はそろそろ帰りましょう。糖分と謎を摂取しすぎると、夜に目が冴えます」
「謎は摂取するものじゃないでしょう」
「澪さんはだいたい飲んでます」
「飲んでない」
「じゃあ、猫みたいに前足でつついてる」
「また猫」
菜穂が笑い、春日井さんがカップを片づけ始めた。小さな謎の会は、ひとまずそこでお開きになった。
けれど、テーブルの上のカードはまだ片づけられずに残っていた。
「このカード、今日私が預かってもいいかな」
そう私が言うと、みんなは「どうぞ」と快く応えてくれた。
『今日は、ここまででいい』
『見つからない』
似たような紙に書かれた、似ていない言葉たち。
誰かを休ませるために置かれた言葉と、何かを探し続ける言葉。
その二つが、いつから混ざり始めたのか。
そして、誰が今も商店街のどこかに、見つからない、という小さな声を隠しているのか。
こもれびの灯りの下で、しおりたちは何も言わなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
高校生の頃、学校帰りに寄れる場所に古本屋さんがありました。
すごい古い文庫本を高校生でも買える値段で売ってくれていて、よく入り浸ったものでした。
前の方が買われた日付、はさんだしおり、中には感想が書かれたものも。
そんな古書が私は好きです。
楽しんでいただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




