第四章 しおりの謎(二)
木犀堂へ行ってみよう、と言い出したのは菜穂だった。
こもれびで修司さんが頼んでくれた焼き菓子を食べ終え、私はしおりをもう一度だけ眺めた。
『今日は、ここまででいい』
その一行は、何度読んでも静かだった。静かすぎて、かえってその向こう側に、誰かの息づかいがあるような気がする。
「気になるなら、聞きに行ったほうが早いでしょ」
菜穂はそう言って、スマートフォンを鞄にしまった。
「木犀堂さん、まだ開いてる時間だし」
「でも、修司さんが迎えに来てくれたのに」
私が隣を見ると、修司さんは当然のような顔でうなずいた。
「寄り道ですね。了解しました」
「いいの?」
「澪さんの寄り道は、だいたい俺の知らない景色につながってるからね。これはもう、ほぼ散歩デートです」
「菜穂もいるけど」
「では、三人散歩デートです」
「え、やだ。楽しそう」
菜穂が「私は空気になります」と、なぜかすました顔で言った。
空気にしては、菜穂も楽しそうだった。
春日井さんに挨拶してこもれびを出ると、午後の光は少し傾き始めていた。
旧道さくら商店街のアーケードには、買い物帰りの人たちの足音がゆるく響いている。八百屋の前では大根が山になり、パン屋の扉からは焼きたての匂いが漏れていた。
いつもどおりの商店街なのに、菜穂のスマートフォンで見た写真のせいか、あちこちに小さな秘密が隠れているように見える。
「なんかさ」
菜穂が歩きながら、つづりの店先に並んだ小瓶をちらりと見た。
「こうやって見ると、カードを隠せそうな場所、めちゃくちゃあるね」
「探すつもり?」
「今は我慢してる」
「今は、なのね」
「大人だから」
修司さんが小さく笑った。
「大人は、そう言いながら、だいたい我慢できてないんですよ」
「修司さん、それは澪のこと?」
「うちの澪さんは、我慢してるときほど目が忙しくなります」
「観察しないで」
「してないよ。見てるだけ」
「それを観察って言うの」
そんなことを言っているうちに、木犀堂の前へ着いた。
木犀堂は、商店街の中でもひときわ時間の流れが遅い店だった。
古い木枠のガラス戸には、手書きの文字で「古本・古道具」と書かれている。店先には百円文庫の箱が三つ並び、背の焼けた文庫本が、まるで日なたぼっこでもしているように詰め込まれていた。
戸を開けると、小さな鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
奥から、木犀堂の店主が顔を上げた。
名前は柳田さんという。
年齢は春日井さんと同じくらいに見えるが、春日井さんが湯気の立つ珈琲なら、柳田さんは乾いた紙の匂いがする人だった。
声も動きも静かで、こちらが急いでいても、少しだけ速度を落としたくなってしまうような人だった。
「先ほどはどうも」
菜穂が、手にしていたしおりを軽く持ち上げた。
「このしおりのことで、少し聞きたいことがあって」
「ああ、それですか」
柳田さんは、まったく驚かなかった。そして、うれしそうにこう言った。
「きれいでしょう」
「きれいですけど、そこじゃなくて」
菜穂が苦笑する。
「こういうしおり、前にも何枚かあったって言ってましたよね」
「ええ。ありましたね」
柳田さんは、カウンターの横に置かれた小さな木箱を開けた。
中から、数枚の紙片を取り出す。
淡い生成り色の紙。丸く切られた角。片側に細い金色の線。
菜穂が拾ったものとよく似たものもあれば、少し大きさの違うものもあった。
それらは丁寧に、箱の中にしまわれていた。
私は思わず、一歩近づいた。
「これ、全部、本に挟まっていたんですか?」
「本に挟まっていたものもありますし、棚の端に落ちていたものもあります。百円文庫の箱の底から出てきたものもありましたね」
柳田さんは、やさしいまなざしで箱を見つめた。
「あとは、私が気に入って抜いておいたものや、見つけた方が持ち帰らずに置いていったものです。基本的に、本に挟まっていたものは、そのままにしていますので」
「そんなに?」
「いつの間にか、少しずつ」
柳田さんは、紙片を一枚ずつカウンターに並べた。
最初の一枚には、こう書かれていた。
『読めない日は、背表紙だけ眺めればいい』
次の一枚には、
『急がなくていい。
本は逃げない』
もう一枚には、
『途中でやめた本も、あなたを責めたりしない』
私は、胸の奥が少しだけゆるむのを感じた。
やっぱり、似ている。
言葉の形が似ているのではない。言葉の立っている場所が似ていた。
こちらに向かって大きな声を出しているのではなく、隣に座って、同じ棚を眺めているような静けさがあった。
「普通は、抜いたり、捨てたりするものじゃないんですか?」
菜穂が尋ねると、柳田さんは少し考えた。
「レシートや買い物メモなら抜きます。個人名が書かれているものも、もちろん抜きます。でも、これは誰かを困らせるものではなさそうでしたから」
「だから、そのまま?」
「本と相性がよかったんです」
なんとも柳田さんらしい答えだった。
修司さんが、カウンターの端に並んだしおりを眺めながら言った。
「本にしおりが挟まっていると、前の人が読んだ気配が少し残りますよね。俺も、買ったときについていた帯は、丁寧にたたんで本に挟んでおくタイプです」
「ええ。古本には、そういうものも値段に入っている気がしまして」
「わかるような、わからないような」
菜穂が首をかしげた。
「私は、本はきれいなほうが好きだけどなあ」
「菜穂は、速読で走り抜けるタイプだからじゃない?」
「言い方」
柳田さんは、そんな私たちのやり取りを見て、かすかに笑った。
「こういうしおりを挟んでいた方には、心当たりがあります」
私は顔を上げた。
「覚えているんですか?」
「はっきりしたお名前までは。けれど、何度も来てくださった方でしたから」
柳田さんは、店の奥のほうへ目を向けた。
そこには、古い文庫棚と、背の高い単行本の棚が並んでいる。
「若い方でした。大学生くらいでしょうか。いつも午後の少し遅い時間に来て、棚の前に長く立っていました。買う日もあれば、買わずに帰る日もありました。こちらから話しかけると、少し困ったように笑うので、なるべくそっとしていました」
菜穂が、珍しく黙って聞いている。
「本を売りに来ることもありました。買っていった本を、しばらくしてまた持ってくるんです」
「その本に、しおりが?」
私が尋ねると、柳田さんはうなずいた。
「ええ。何度か、同じようなしおりが挟まっていました。読み終えた本は、比較的早く戻ってきました。途中までしか読めなかった本は、長く手元に置いていたようです。それでも、しばらくすると売りに来ることがあって。そういう本には、しおりが挟まったままのことが多かった気がします」
私は、カウンターに並んだ言葉をもう一度見た。
『途中でやめた本も、あなたを責めたりしない』
それは、誰かに向けた言葉であると同時に、自分自身へ紡いだ言葉だったのかもしれない。
「さっき見ていた投稿の中に、病院帰りに寄った商店街だって書いてあったんですけど」
菜穂が言った。
「その方、病院の帰りにここへ来ていたのかもしれないって、聞いたことはあります?」
柳田さんは、少しだけ目を細めた。
「病院、ですか」
「ええ。投稿には、そんな感じのことが書いてあって」
「なるほど」
柳田さんは、それ以上を詮索するような顔はしなかった。
ただ、小さく息を吐いて、棚のほうへ視線を戻した。
「たしかに、疲れている日はありました。でも、ここへ来るときは、少しほっとした顔をしていましたよ」
店の奥で、古い時計が小さく鳴った。
こもれびの時計よりも控えめな音だった。
木犀堂の中では、時間まで紙に包まれているように聞こえる。
「このしおりの投稿、柳田さんは知っていましたか?」
「投稿?」
「SNSです。携帯に写真や文を載せるものですね」
「ああ。若い方が、本より夢中になっているものですよね」
「まあ、最近はそうかもしれないですね」
菜穂が少し残念そうに答えた。
「まあ、だいたい合ってます」
「私はあまり詳しくないもので……その方の投稿というのは、知りませんでした」
柳田さんは、まじめな顔のまま言った。
「ただ、最近、若い方がよく来るようにはなりました。本を探しているというより、棚のすき間や箱の底を見ている方が多いので、不思議には思っていましたが」
「やっぱり」
菜穂が私を見る。
「探しに来てるんだ」
私は、さっき菜穂が見せてくれた投稿を思い出した。
場所を明かさず、写真だけを残す。見つけた人だけがわかる、小さな道しるべ。
最近の投稿にも、「今日はここに置いてきました」と書かれていた。
最初は誰かのための祈りだったものが、いつの間にか、別の誰かをこの商店街へ呼んでいる。
そのとき、カウンターに並んだ紙片の中に、一枚だけ目を引くものがあった。
紙の色は似ている。片側に金色の線も入っている。
けれど、角の丸みが少しぎこちなく、線もわずかに太い。
何かが決定的に違うわけではない。
けれど、並べて見ると、その一枚だけ、ほんの少し息が荒いように見えた。
そこには、こう書かれていた。
『見つからない』
菜穂が眉をひそめた。
「……これ、急に独り言みたいじゃない?」
「独り言?」
柳田さんは、紙片を眺めた。
「私には、どれも似たように見えますが」
その返事は、とても正直だった。
柳田さんにとっては、どれも店のどこかから見つかったきれいな紙片で、捨てるには惜しいものなのだろう。
だから、同じ箱の中にしまっておいた。
それ以上でも、それ以下でもない。
「これは、どこにありました?」
「先週、百円文庫の箱の底にありました。朝に並べたときは、なかったような気もしますが、はっきりとは覚えていません」
「朝にはなかった?」
「たぶん、です。本を並べ替えるときに見落としたのかもしれませんし、どなたかがあとから置いたのかもしれません」
柳田さんは、本当にわからないという顔で首をかしげた。
その曖昧さが、かえって木犀堂らしかった。
この店では、本も時間も、人の記憶も、きっちり棚番号で管理されているわけではない。
いろいろなものが少しずつ混ざり合い、古い紙の匂いの中で眠っている。
「澪」
菜穂が、声を落とした。
「これ、同じ人が書いたのかな」
「まだ、わからない」
私はそう答えた。
でも、心の中ではもう、小さな線が一本引かれ始めていた。
同じような紙。
同じような短い言葉。
けれど、向いている方向が少し違う。
「その大学生くらいの方は、最近は来ていないんですよね」
菜穂が聞くと、柳田さんはゆっくりとうなずいた。
「ええ。しばらく、お見かけしていません」
「いつ頃から?」
「正確には覚えていませんが、半年以上は経つと思います」
半年。
その長さが、木犀堂の静けさの中で、思ったよりも大きく響いた。
本人は、半年以上ここへ来ていない。
それなのに、最近もカードは置かれている。
「最後に来たときのことは、覚えていますか?」
私が尋ねると、柳田さんは目を閉じるようにして、しばらく黙った。
「本を三冊、売りに来ました。文庫本が二冊と、詩集が一冊。そのうち一冊に、しおりが挟まっていました」
「どんな言葉でした?」
柳田さんは、木箱の中を探した。
けれど見つからなかったらしく、小さく首を振る。
「その本は、もう売れてしまいました。しおりも一緒に、誰かのところへ行ったのでしょう」
「覚えてませんか? 少しだけでも」
菜穂が身を乗り出す。
柳田さんは、困ったように笑った。
「正確には。ただ、たしか、道のことが書いてあったような気がします」
「道?」
「ええ。ここへ来る道、とか、別の道、とか。そんな言葉でした」
私は、古書店の床に差し込む薄い光を見た。
病院帰りに通っていたのかもしれない商店街。
誰かを休ませるような言葉。
誰かのために隠したのかもしれないカード。
そして、やがて来なくなった人。
来なくなった理由は、まだわからない。
けれど、修司さんが言ったように、待つ側の言葉は、ときに強い。
帰ってきて、と呼ぶ声は、優しさの服を着ていても、誰かの足首に結ばれる紐になることがある。
そのとき、店の入口の鈴が鳴った。
振り返ると、高校生くらいの女の子が二人、そろそろと店に入ってきた。
二人とも、スマートフォンを手にしている。
片方の子が、店先の百円文庫の箱を見て、小さく「あ、ここかも」とつぶやいた。
柳田さんは何も言わず、いつものように「いらっしゃいませ」とだけ声をかけた。
女の子たちは、本の背表紙を見るふりをしながら、箱の底や棚の端に視線を走らせている。
悪いことをしている様子ではない。
ただ、何かを探している。
菜穂が、私の袖を軽く引いた。
「ねえ、澪」
「うん」
私はうなずいた。
この商店街は、私たちが気づかないうちに、誰かの探しものの場所になっていたらしい。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
こんなしおりを探して商店街をうろついてみたい……。
それが始まりでした。
楽しんでいただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




