第四章 しおりの謎(一)
その日、菜穂は本のあいだから一枚のしおりを拾った。場所は旧道さくら商店街の古書店、木犀堂。店の奥にある百円文庫の棚で、何気なく一冊の本を開いた時、それはひらりと床に落ちたらしい。
「落ちてきた瞬間、ちょっと運命感じたのよ」
こもれびのテーブルに両肘をつきながら、菜穂は、なったこともない文芸少女になり切ってため息をついた。
午後三時を少し過ぎたこもれびには、焙煎した豆の香りと、焼き菓子の甘い匂いがゆるく混ざっていた。窓の外では、商店街の古いアーケードが西日に照らされて、少しだけ飴色に見える。私は菜穂の向かいで、何杯目かのカフェオレに口をつけた。
「しおりに運命って、ずいぶん大きく出たわね」
菜穂は本が大好きではあるが、それ以上に効率を重視するタイプである。本を読むときは、独自で開発した速読法を駆使する。なので、しおりを使うことはないらしいのに、運命とは。
「だって、見てよ」
菜穂は小さな紙片を、テーブルの真ん中へそっと置いた。名刺よりもひと回り小さい、淡い生成り色の紙だった。角は丸く切られていて、片側に細い金色の線が引かれている。
市販のしおりというより、誰かが自分の手で切り、自分の手で飾り、自分の手で言葉を置いたものに見えた。
そこには、細いグレーのペンで、こう書かれていた。
『今日は、ここまででいい』
私は思わず、しおりから目を離せなくなった。たった一行だった。けれどその一行は、読んだ人の肩から荷物をひとつ下ろすみたいに、静かで、少しだけあたたかかった。
「……きれいね」
「でしょ? こういうの、澪好きそうだと思って」
「好きそうっていうか、好きだけど」
「認めるの早い」
菜穂が笑った。けれど、すぐに声をひそめる。
「でもね、これ、ただのしおりじゃないみたいなの」
「どういうこと?」
「若い子たちの間で、ちょっと話題になってるらしいのよ。この商店街」
私は瞬きをした。
「この商店街が?」
「そう。この、旧道さくら商店街が」
菜穂はスマートフォンを取り出し、画面を何度か指で滑らせた。それから、私の方へ向ける。そこには、写真投稿型のSNSが表示されていた。
写っていたのは、古い木棚の隅。硝子の小瓶。こもれびの窓辺によく似たカーテン。どこかの店先に置かれた小さな猫の置物。そして、そのいくつかの片隅に、さっきのしおりに似た小さなカードが写っていた。
「場所ははっきり書いてないの。ただ、『今日はここに置いてきました』っていう一言と写真だけ」
「宝探しみたい」
「そうなのよ。でも、書いてある言葉がね、なんか、すごくいいらしくて」
菜穂は画面を拡大した。写真の中のカードには、こう書かれていた。
『閉じてもいい。
本は、また開けるから』
私はまた、しばらく黙ってしまった。何かを無理に励ます言葉ではなかった。がんばれ、とも、前を向け、とも言っていない。ただ、閉じることを許している。
「これを探しに、若い子が来てるってこと?」
「らしいのよ。私も今日、木犀堂で高校生くらいの子たちが棚のすき間を見ているのを見かけてさ。最初は万引きかと思って、ちょっと観察しちゃったんだけど」
「菜穂」
「わかってる。疑ってごめんって心の中で謝ったわよ。でも、その子たち、本じゃなくてしおりを探してたの」
菜穂は、テーブルの上のしおりを指先で軽く押さえた。
「で、私も本を開いたら、これが落ちてきたってわけ」
「木犀堂の店主さんは知ってるのかしら」
「知らないっぽかった。『ああ、それね。前にも何枚かありましたよ。お持ちになりたいならどうぞ』くらいの感じ」
「ずいぶんのんびりしてるわね」
「木犀堂さんだからね」
たしかに、と私は思った。木犀堂の店主は、古い本と同じ速度で生きているような人だった。慌てる姿を見たことがない。もし店の本の中から化石が出てきても、「昔のものですからね」と言いそうな気がする。
その時、こもれびの扉についた小さなベルが鳴った。からん、と乾いた音がして、店の空気が少し動く。
「こんにちは。澪さん回収便です」
聞き慣れた声に、私は思わず肩をすくめた。
入口に立っていたのは、夫の修司さんだった。
土曜日の愚痴の会は女子会なので、男子禁制だ。この時間は、お互いに「やりたいことをやる時間」になっている。
本当なら、愚痴の会は午前中で終わるはずだった。
菜穂とエンドレスな話をしているうちに、気づけばもう三時を過ぎている。修司さんは、そろそろ迎えに行ってもいい頃だと思ったのだろう。
いつもの席に座っている私と菜穂を見つけて、修司さんはにこりと笑った。
「いた。よかった。無事にかわいい」
「修司さん、人前でそういうこと言わないで」
「家でいつも言ってるのに」
「それは家だからでしょ!人前!」
私は恥ずかしさでじたばたした。
菜穂が向かいで、ものすごく楽しそうに笑いをこらえていた。
「相変わらずですね、修司さん」
「あ、うちの澪さんを面白そうな方向へ連れていく顔をしてますね」
「失礼ね。今日はまだ連れていってません。入口に立たせてるだけです」
「それが一番危ないんですよ」
修司さんはそう言いながら、私の隣の席に腰を下ろした。春日井さんがカウンターの奥から、「修司さんはいつものですか」と声をかけた。
「お願いします。あと、澪さんに何か甘いものを」
「やだ、なんでわかったの?」
「考えごとをする時の澪さんには糖分が必要です」
「一応我慢してたのに」
「顔に書いてある」
そう言って、修司さんは私の顔をじっと見る。私はつい視線をそらした。夫婦というのは厄介だ。こちらが言葉にする前の小さな揺れを、勝手に拾ってくる時がある。
「で、今日は何の謎?」
「まだ謎って決まったわけじゃないわ」
「澪さんがそう言う時は、だいたいもう半分足を突っ込んでる」
「突っ込んでません」
「靴先くらいは入ってる」
菜穂が、とうとう声を出して笑った。
「修司さん、正解です」
「菜穂」
「だって、しおりを見つめる澪の目がもう静かだったもの」
私は返す言葉を探して、結局カフェオレを飲んだ。
修司さんはそこで、テーブルの上に置かれたしおりに気づいた。
「これ?」
「木犀堂の本に挟まってたの。若い子たちの間で、ちょっと話題になってるらしいわ」
修司さんはしおりを手に取らず、少し身をかがめて文字を読んだ。
『今日は、ここまででいい』
「いい言葉だね」
「でしょう?」
「うん。いい言葉だ」
修司さんはそこで、スマートフォンの画面に映った別のカードへ目を移した。菜穂が見せていた投稿のひとつだった。
そこには、少し違う雰囲気の言葉が写っていた。
『帰ってきて。
あなたの言葉を、まだ待っている人がいる』
修司さんは、その一文を見たまま黙った。その表情が、一瞬だけ変わった。本当に一瞬だった。笑っていた目元から、薄い影がすっと通り過ぎたように見えた。けれど次の瞬間には、いつもの修司さんに戻っている。
「修司さん?」
私が呼ぶと、彼はすぐに顔を上げた。
「ごめん。ちょっと、強い言葉だなと思って」
「強い?」
「優しそうに見えるけど、これは待っている側の言葉だから」
修司さんは、ゆっくりと息を吐いた。
「待たれる方は、案外しんどいこともある」
その言い方が少しだけ低くて、私は返事をし損ねた。こもれびの中では、春日井さんがカップを置く音がした。窓の外では、自転車のベルが一度だけ鳴った。
修司さんはすぐに、いつもの調子で笑った。
「まあ、俺は澪さんを待つの好きだけどね。待ってたらだいたい、面白い顔して帰ってくるから」
「どんな顔よ」
「謎を拾った猫みたいな顔」
「猫は謎を拾わないでしょ」
「拾うよ。しかも見せに来る」
菜穂がまた笑った。
けれど私は、さっきの修司さんの沈黙が、しおりの角に引っかかった小さなささくれみたいに気になっていた。
『今日は、ここまででいい』
『帰ってきて』
同じように小さな紙に書かれた言葉なのに、向いている方向が違う。
ひとつは、誰かを休ませるための言葉。
もうひとつは、誰かを呼び戻すための言葉。
その違いが、この時の私にはまだ、はっきりとは見えていなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
さて、新章突入です。
今まで登場しなかった修司さんがお迎えに来ましたね。
実は彼……澪LOVEなんです。
あ、わかりました?
楽しんでいただけたら幸いです。
どうぞよろしくお願いいたします。




