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やさしい嘘のほどき方 こもれび喫茶と小さな謎  作者: 翠川しおり
失せ人の謎

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第三章 失せ人の謎(四)

「私たちに、まだ言っていないことがありますね」

 私がそう言うと、こもれびの奥の席に、少し長い沈黙が落ちた。


 岩倉さんは、紙箱の端に指を添えたまま動かない。春日井さんは、カップを置いた手をそのままにしている。絹子さんは、妙に姿勢よく座っていた。


 菜穂だけが、フォークを持ったまま、私と岩倉さんを交互に見ている。

「え、なに。今、そういう場面?」

「そういう場面かもしれない」

「澪、急に探偵っぽい」

「私は探偵じゃないよ」

「でも今のは、だいぶ探偵だったよ」

 菜穂が小声で言った、そのときだった。


「ぶはっ」


 岩倉さんが、こらえきれないというように息を吐き出した。

 それにつられるように、絹子さんも肩を震わせる。春日井さんは笑い声こそ立てなかったけれど、目元がいつもよりずっとやわらかくなっていた。


「ほら、やっぱり澪ちゃんには通用しなかったじゃないか」

 岩倉さんは、少し涙目になりながら言った。

「いやあ、もう、いつばれるかとひやひやしていたんです。やっぱり隠し事は向きませんねえ」


「ちょっと待って」

 菜穂がフォークを置いた。

「え、仕掛け? 今の、仕掛けだったの?」

「全部ではありませんよ」

 春日井さんが静かに言った。

「起きた出来事自体は、本当です」

「でも、知っていたんですか?」

「少しだけ」

 春日井さんは、申し訳なさそうに微笑んだ。


 その「少しだけ」は、たぶん少しではない。菜穂も同じことを思ったのか、じっと春日井さんを見た。

「春日井さんの少しだけ、信用していいやつですか?」

「場合によります」

「信用できないやつだ」


 絹子さんが、そこで楽しそうに手を叩いた。

「でも、いい第一問だったでしょう。消えた男。三つのモンブラン。しかも場所は商店街。これを小さな謎の会の初回に出さない手はないわ」


「絹子さんも知っていたんですか?」

「もちろん。こういうときは、場を整える人間も必要なのよ」

「場を整える人、多くない?」

 菜穂の声には、少しだけ抗議が混ざっていた。けれど怒っているというより、仲間外れにされた子どものような顔に見えた。


 岩倉さんが、手を合わせるようにした。

「すみません。最初は本当に不思議だったんです。でも、途中で思い出してしまいまして。それで春日井さんに話したら、せっかくだから第一回の問題にしてはどうかと」


「春日井さんが?」

 菜穂が春日井さんを見る。

「提案したのは、岩倉さんです」

「整えたのは、春日井さんね」

 絹子さんが言う。

「背中を押したのは、絹子さんです」

 春日井さんが返す。


「つまり、共犯じゃないですか」

 菜穂が言った。

「第一回から共犯者がいる会って、どうなの」

「小さな謎の会らしいんじゃないかな」

 私が言うと、菜穂は少し考えてからうなずいた。

「それは、ちょっとそう」


 ようやく笑いが落ち着くと、岩倉さんは姿勢を正した。

「では、答え合わせをお願いしてもいいですか?」

「私が?」

「ええ。どこまで気づいたのか、聞かせてください」

 私は少しだけ迷った。

 答えを言い当てるために考えていたわけではない。けれど、ここまで来ると、言葉にしたほうがいい気がした。

 謎をほどくには、ほどけた糸を一度、きちんと並べる必要がある。


「まず考えたのは、どうやってビルから出たのか、でした」


 私は言った。

「裏口はない。少なくとも、人が抜けられるような道ではない。人違いでもなさそう。見落とした可能性はあるけれど、岩倉さんは、入口が開けば養生シートの動きや音で気づきやすい場所にいた」

 岩倉さんは、黙って聞いている。

「それでも岩倉さんは言いました。スーツ姿の男性が出てきたなら、気づいたはずだと」

 菜穂が、あ、と小さく声を上げた。

 私はうなずいた。

「そこが引っかかりました。スーツ姿の男性が出てきたなら。では、スーツ姿ではなかったなら」

 こもれびの奥の席に、また静かな気配が戻る。

 さっきまでの笑いが、今度は話を聞くための沈黙になっていた。

「その日は工事がありました。工事の音もしていた。現場の方もいた。工事中のビルの中なら、着替える場所や、作業に必要なものがあっても不自然ではない。だから男性は、中でスーツを脱ぎ、作業服に着替えたのだと思います」


「作業服」


 菜穂が繰り返す。

「岩倉さんが『スーツ姿の男性』として待っていた人は、いったん『現場の人』として外へ出た。だから、目の前を通っていても、同じ人として数えられなかった」

 私はそこで、一度言葉を切った。

「そのあと、どこかで再びスーツに着替え直した。たぶん車の中か、近くのどこかで。そして、パティスリー岩倉へ来た。だから、スーツ姿でビルへ入った男性が出てきていないのに、同じ姿のまま店に現れたように見えた」


「すごい」

 菜穂が、ほとんど息だけで言った。

「消えたんじゃなくて、別の人に見えていたんだ」

「うん」

 私はうなずいた。

「たぶん、岩倉さんは見逃していません。ただ、見たものを、同じ人として読まなかったんです」


 岩倉さんは、ゆっくりと拍手をした。

「正解です。そこまでは、本当にそのとおりです」

「そこまでは?」

 菜穂がすぐに反応した。

 岩倉さんは、少し困ったように笑った。

「もうひとつあります。澪さんが最後に気づいたほうです」


 私は紙箱の中を見た。

 三つのモンブランは、少し形を崩している。菜穂は半分ほど食べていて、岩倉さんの前のものも少しだけ減っていた。私の前のモンブランには、まだほとんど手をつけていない。


「店に入ってきたとき、男性は迷っていなかった。ショーケースの前でも、選んでいるというより、モンブランがあるかどうかを確認しているようだった」

 岩倉さんが小さくうなずく。

「初めてのお店なら、あまりそうはならないと思いました。もちろん、人によります。でも、パティスリー岩倉のモンブランを買うつもりで来たように見えた。だから、その人はお店を知っていたのだと思います」


「でも、岩倉さんは見覚えがないって言ってたよね」

 菜穂が言った。

「そう。だから少し変だった。お店を知っている人なのに、岩倉さんには見覚えがない。そこだけなら、昔来た人か、誰かに聞いた人かもしれない」

 私は、岩倉さんを見た。

「でも、岩倉さんは『モンブランを三つ』と聞いたとき、何かを思い出したのではないかと思いました」


 岩倉さんの指先が、また紙箱の端に触れた。今度は隠すためではなく、そこに置かれたものを確かめるような触れ方だった。

「だから聞きました。思い出したことはありませんでしたか、と」

 私は続けた。

「岩倉さんが言っていなかったことは、その男性が誰なのかに思い当たっていたこと。正確には、その場で思い出したこと、ですね」


 岩倉さんは、今度こそまっすぐにうなずいた。

「はい。正解です」

 菜穂が、感心したように息を吐いた。

 少しだけ首をかしげたあと、納得したようにモンブランをもう一口食べる。

「おいしいから、今回はそれでいい」

「栗に許された」

「かなり名誉なことだよ」

 岩倉さんは、そんなやり取りを眺めてから、少し声を落とした。


「ここから先は、どうか、ここだけの話にしてください」


 その言葉で、奥の席の空気が整った。


 春日井さんは、何も言わずにお茶を足した。絹子さんは、笑っていた顔を少しだけ引き締める。真鍋さんも、百合子さんも、文さんも、黙って岩倉さんを見た。


「その男性は、あのビルの持ち主のご長男です」


 岩倉さんは言った。

「昔、この商店街に住んでいました。ご両親と、お姉さんと一緒に。今はもう、ここを離れて長いですけれど」


「長男さん」

 菜穂が小さく言った。

「私は、最初は気づきませんでした。子どもの頃の姿しか覚えていませんでしたし、スーツ姿でしたから。でも、モンブランを三つと聞いて、思い出したんです」

「モンブランで?」

「ええ。あの方のお母様が、うちのモンブランを好きでいてくださって」

 岩倉さんの声が、少しだけやわらかくなった。

「昔、よく買いに来てくださったんです。特に、あの男の子は、お母様と一緒にうちのモンブランを食べるのが好きだったと聞いていました」

「だから、三つ」

 菜穂が言った。

 岩倉さんはうなずいた。

「ええ。お父様と、お母様と、自分の分だそうです」

 父と母と、自分の分。

 その三つという数が、今度は少し違って見えた。

 謎の数ではなく、食卓の数。誰かに会いに行くための数。


「でも、その長男さんは、どうして今まで……」

 真鍋さんが、途中で言葉を止めた。聞きすぎたと思ったのかもしれない。

 岩倉さんは、少しだけ考えてから答えた。

「若い頃、大工になりたいと言って、家を出たそうです」

 その声は、店先で世間話をするときのものではなかった。

「ご両親は反対したと聞いています。危ない仕事はしてほしくない。安定した仕事に就いてほしい。家のことも考えてほしい。心配だったのでしょう。でも、言葉が強くなってしまった」


 誰も口を挟まなかった。


「ご本人も、引けなかった。自分は、誰かの温かい家を建てたい。そう言って、反対を押し切るように家を出たそうです。そこから長いあいだ、ご両親とはきちんと会えていなかったと」


 失せ人。


 その言葉が、章の題名としてではなく、誰かの家の中に長く置かれていた影のように感じられた。


 いなくなった人。


 でも、いなくなりたかっただけではない人。


「今回、あのビルの改装の話を、お姉さんが知らせたそうです。彼は今、一人前の大工さんになっていて、造作の仕事も任されるようになっている。どうしても自分も関わりたいと、頼み込んだそうです」


「造作って?」


 菜穂が小さく聞いた。


「建物の中の細かな仕上げですね。棚や建具、内装の木の部分などを作る仕事です」

 春日井さんが説明した。

「家の中の、手が触れる場所を作る仕事なんですね」

 私が言うと、岩倉さんはうなずいた。

「そうです。だから、あのビルに関わりたかったのかもしれません。自分が出ていった場所を、自分の手で直すために」


 自分が出ていった場所を、自分の手で直す。

 それは謝罪の言葉とは違う。けれど、言葉より先に差し出せるものでもあるのだと思った。

「昨日は、家業を継いだお姉さんと、打ち合わせのためにビルへ入ったそうです。最初は仕事の話をするため、スーツ姿でした」

 岩倉さんは、少しだけ笑った。

「そのあと、中で作業服に着替えた。現場の方に混じって、平たい箱を抱えて外へ出たそうです。私は、資材か道具を運んでいる人だとばかり思っていました」


「その箱に、スーツと鞄を入れていたんですね」

 私が言うと、岩倉さんはうなずいた。

「ええ。箱を車まで運び、そこでスーツに着替え直してから、うちへ来たそうです」

「それで、岩倉さんには消えたように見えた」

 菜穂が言った。

「はい」


 岩倉さんは、少し恥ずかしそうに笑った。

「私も最初は、本当に驚きました。ですが、モンブランを注文されたあとで、顔や声や、昔の面影が急につながったんです。ああ、あの子だ、と」


「あの子」

 百合子さんが、そっと繰り返した。

 その言葉には、年を重ねた町の人だけが持つ温度があった。


「お会計のときに、少しだけ話しました。もしかして、と聞いたら、彼も笑って認めてくれました。これから両親に会いに行くんです、と」


 岩倉さんは、紙箱の中を見た。

「渡せたら、ですけど。そう言っていました」

 そのひと言だけで、モンブランの箱を持つ手の重さが、少しわかった気がした。


 甘いものは軽い。

 けれど、それを誰かに渡すまでの距離は、ときどきとても重い。


「この話を、第一回の謎にしてもよかったんですか?」

 真鍋さんが静かに尋ねた。

「ええ。もちろん、ご本人に許可は取りました」

 岩倉さんは少し笑った。

「ご家族の細かな事情は、ここだけにすること。それと、自分の会社の名刺を配ってくれるなら、と」

「営業上手」

 絹子さんが楽しそうに言った。

「ええ。最後にウインクされました。いい大工になったんだなと思いましたよ」

 菜穂が、ぽつりと言う。

「帰ってきてたんだね」

 私はうなずいた。

「うん。いなくなったわけではなかったんだね」


 ただ、違う姿になっていた。

 見る側が、それを同じ人だと気づけなかっただけで。


 小さな謎の会の第一問は、誰かが消えた話ではなかった。

 帰るまでに時間がかかった人の話だった。


   *


 パティスリー岩倉を出た男性は、白い箱を両手で持ち直した。


 商店街の空気は冷えていた。店の少し先には、先にビルを出ていた姉が立っていた。濃い色のコートの襟に、風が触れている。


「本当に行くの?」

 姉が聞いた。


 男性は、白い箱を見下ろした。

「行くよ」


「無理しなくてもいいのよ。今日じゃなくても」

「今日じゃないと、また行かない気がする」

 姉は、すぐには何も言わなかった。

 通りの向こうでは、改装中のビルの養生シートが、風に押されて小さく鳴っていた。


「あの柱、まだ残ってた」

「うん」

「子どもの頃、背の高さを測った傷もあった」

「お母さん、消さなかったのよ」

 男性は笑おうとして、うまく笑えなかった。


「俺、人の家を建てる仕事をしてるのにさ」

 白い箱の角を、指が少しだけ押す。

「自分の家に帰れないままじゃ、格好悪いだろ」


 姉は、小さく息を吐いた。


 それは笑ったようにも、泣きそうになったようにも見えたという。


「お母さん、まだモンブラン好きだよ」

「知ってる」

「お父さんは、甘いものは別にって顔すると思う」

「それも知ってる」

「でも、食べると思う」

 男性は、今度は少しだけ笑えた。

「それも、知ってる」


 二人は並んで歩き出した。


 白い箱の中には、モンブランが三つ。

 謝る言葉より先に、帰り道を知っているものがある。

 消えたように見えた人は、消えていなかった。


 別の姿で、ずっとそこにいた。


ここまでお読みいただきありがとうございます。


モンブラン、喜んでもらえたそうです。


さて、明日からまた新しいお話です。

ついにあの人が登場します。

どうぞよろしくお願いいたします。

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