第三章 失せ人の謎(三)
菜穂の言葉に従って、私は岩倉さんの話を、頭の中でもう一度並べ直してみた。
みんなも、岩倉さんが先ほどより簡潔に話をなぞるのを聞きながら、あのとき一緒に店の中から改装中のビルを見つめていたような気分になっているようだった。
夕方の四時四十分すぎ。
晴れていたけれど、風が強かった日。落ち着いた店内。ところどころ空いたショーケース。レジの横で折られていた、焼き菓子用の白い箱。
向かいの改装中のビル。灰色の養生シート。木を叩くような工事の音。風を受けるたび、ばさっと鳴る音。
そこへ、男女二人が入っていく。
女性は、ビルの関係者。男性は、紺色のスーツ。銀縁の眼鏡。黒い薄型の鞄。
女性だけが出てきて、男性は出てこない。
それなのに、少しあとで、同じ男性がパティスリー岩倉に現れる。モンブランを三つ買っていく。
同じ流れを、何度か繰り返す。
景色の中で動くものを、ひとつずつ置き直してみる。
入口。養生シート。ショーケース。白い箱。紺色のスーツ。黒い鞄。モンブラン。
繰り返すたびに、少しずつ頭の中が片づいていくような気がした。
けれど、片づいた場所に、まだひとつだけ、うまく置けないものが残る。
「その男性の靴は、見えたかな」
松尾さんの声で、私はこもれびの奥の席へ戻った。
「靴、ですか?」
岩倉さんが聞き返す。
「工事中の建物に入るなら、足元も気にしそうだと思ってね」
松尾さんは、カップに手を添えたまま言った。
声は穏やかだった。けれど、そのひと言は、さっきまでぼんやりしていた景色の足元に、急に明かりを落としたようだった。
「黒い革靴だったと思います。少なくとも、スニーカーや長靴ではありませんでした」
「革靴で、改装中のビルへ」
絹子さんが、ゆっくりと言った。
「少し歩きにくそうね」
「そうですね。ただ、女性の方と一緒でしたし、打ち合わせか何かだと思ったんです」
岩倉さんはそう言ってから、小さく首をかしげた。
「実際、そういうこともありますよね。工事の関係者でも、最初の打ち合わせにはスーツで来る方もいますから」
「現場の人というより、仕事の話をしに来た人に見えた?」
春日井さんが尋ねる。
「はい。最初は、そう見えました」
最初は。
その言葉が、少しだけ引っかかった。
最初は、という言い方には、あとで印象が変わったときの影がある。
私は岩倉さんを見た。けれど岩倉さんは、紙箱の中のモンブランへ視線を落としていた。
「作業をする方でしたら、スーツではなく、作業服でいらっしゃいますよね」
真鍋さんが、ゆっくりと言った。
「そうですね。私も、そう思いました。現場の方もいらっしゃいましたし」
「でも、消えた」
菜穂が小さく言った。それから、慌てたように手を振る。
「いや、消えたって言うと怖いけど」
「第一回から怪談にしないでね」
「してない。まだ、ぎりぎりしてない」
「ぎりぎりなんだ」
菜穂は、少しだけ眉を寄せてモンブランを見た。
フォークはまだ持っていない。栗に負けないようにしているのか、謎に集中しているのか。たぶん、どちらも半分ずつだった。
「ねえ、そろそろ食べてもいい?」
「今?」
「うん。ここまで考えたら、栗に勝てる気がしてきた」
「勝ち負けだったんだ」
菜穂は、フォークを入れる前に、なぜか少しだけ姿勢を正した。
「いただきます」
栗のクリームに、フォークの先がゆっくりと沈む。
「でもさ、その人、変だよね」
「どこが?」
「だって、工事中のビルに革靴で入って、出てきたところは見えてなくて、そのあとケーキ屋さんに来て、モンブランを三つ買うんでしょ」
「うん」
「なんか、全部ちょっとずつ普通なのに、並べると普通じゃない」
菜穂らしい言い方だった。
ひとつひとつは、たしかに普通だ。革靴で打ち合わせに行く人はいる。ケーキを三つ買う人もいる。モンブランを選ぶ人もいる。
でも、同じ人の一連の動きとして並べると、どこかでうまく噛み合わない。
「その男性は、店に入ってきたとき、迷っている様子はありましたか?」
私は岩倉さんに尋ねた。
「迷っている様子、ですか?」
「はい。初めての店を探して入ってきた人なら、看板を見たり、入口の前で少し立ち止まったりすることがあると思って」
岩倉さんは、記憶を探すように目を伏せた。
「外で迷っている感じはありませんでした。店には、普通に入ってきました」
「普通に」
「はい。少なくとも、場所を探していたようには見えませんでした」
「ショーケースの前では?」
「少し見ていました。でも、あれは迷っていたというより……」
岩倉さんは、そこで一度言葉を止めた。
「確認していた、という感じだったかもしれません」
「確認」
春日井さんが静かに繰り返す。
「はい。モンブランがあるかどうかを、見ていたような」
こもれびの奥の席に、少しだけ沈黙が落ちた。
モンブランがあるかどうか。
三つという数ではない。モンブランそのもの。
もっと言えば、パティスリー岩倉のモンブラン。
「最初から、モンブランを買うつもりだったんですね」
私が言うと、岩倉さんはうなずいた。
「そう見えました。ショートケーキやシュークリームには、あまり目を止めませんでしたから」
「初めて来たお店で、そんなふうに買いますかね」
菜穂が言った。
「私は無理。まず全部見る。なんなら二周見る」
「三沢さんは、別の意味で参考にならないかもしれません」
春日井さんが言う。
「春日井さん、今さらっとひどくないですか?」
「いえ、観察結果です」
「それが一番ひどい」
菜穂は口を尖らせたけれど、少し楽しそうにも見えた。
その軽さに助けられながらも、私は岩倉さんの言葉をもう一度拾っていた。
迷っていない。確認していた。モンブランがあるかどうかを見ていた。
それは、店の名前や評判を知っている人の動きに近い。
もちろん、商店街のケーキ屋を知っている人はいくらでもいる。誰かから聞いたのかもしれない。通りかかったことがあるのかもしれない。
けれど、岩倉さんは、その男性に見覚えがないと言った。そして、見覚えのない男性の注文を、こんなにもはっきり覚えている。
消えた男の話だから、覚えていて当然。そう考えることもできる。
でも、それだけではないような気がした。
「岩倉さん」
私は、ゆっくりと声をかけた。
「はい」
「その男性が、モンブランを三つ、と言ったとき」
「はい」
「何か、思い出したことはありませんでしたか?」
岩倉さんの指先が、紙箱の端でほんの少し止まった。
それは、言葉にすれば小さすぎる動きだった。けれど、私は見落とせなかった。
「思い出したこと、ですか?」
岩倉さんは、いつもより少しだけ丁寧に聞き返した。
丁寧すぎる聞き返しだった。
春日井さんが、カップを置く音を少しだけ小さくした。菜穂も、モンブランから顔を上げる。
岩倉さんは、すぐには答えなかった。
こもれびの奥の席に、栗の甘い匂いだけが残る。黙っている時間が、少しだけ長かった。
その沈黙は、迷いというより、どこまで話すかを測っているように見えた。
私は、責めたいわけではなかった。
ただ、岩倉さんが持ってきた三つのモンブランは、最初からただの演出ではなかったのだと思った。
記念すべき第一問。消えたスーツ姿の男性。そして、三つのモンブラン。
「岩倉さん」
私はもう一度、静かに言った。
「私たちに、まだ言っていないことがありますね」
さて、三個目のモンブランを食べ終えた頃でしょうか。
もうすぐ謎は解けます。皆さんはどうですか?
もう少し毎日投稿(20時)を続けます。
どうぞ引き続き、よろしくお願いいたします。




