第三章 失せ人の謎(二)
「詳しく聞かせてください」
私がそう言うと、岩倉さんは小さくうなずいた。
テーブルの中央には、箱に入ったままの三つのモンブランが並んでいる。栗の甘い匂いだけは、もうこもれびの奥の席にほどけ始めていた。
「昨日のことです。時間は、夕方の四時四十分を少し過ぎたくらいだったと思います」
「はっきり覚えているんですか?」
真鍋さんが尋ねた。声は控えめだったけれど、その聞き方は図書館の人らしく、丁寧に話の芯を探しているようだった。
「ええ。五時に、予約品を受け取りに来るお客様がいらっしゃる予定だったので、時計を何度か見ていたんです。焼き菓子の詰め合わせを予約されていて、ちょうど箱を用意しているところでした」
「なるほど。では、その前後の時刻は覚えやすいな」
松尾さんが、カップに手を添えたままうなずく。
「はい。天気は晴れていました。ただ、風が少し強かったです。冬の夕方らしい、冷たい風で」
こもれびの窓の外でも、街路樹の細い枝が揺れている。
昨日の同じ時間を、私は頭の中に置いてみた。
夕方。薄くなっていく光。ショーケースのガラス。向かいの古いビル。
まだそれらは、ばらばらにしか並ばない。
「雨は?」
絹子さんが聞いた。
「降っていません。少なくとも、傘を差していた方はいませんでした」
「傘で顔が隠れた、ということはないわけね」
絹子さんは、ふむ、と鼻の奥で小さく音を立てた。その音は、少し楽しそうにも聞こえた。
小さな謎の会。
名前がついたばかりなのに、みんなすでに少しだけ前のめりになっている。
菜穂も前のめりにはなっていたけれど、ときどきモンブランを見ていた。話に集中しているのか、栗に呼ばれているのか。たぶん、両方だ。
「その時間、お店は混んでいましたか?」
百合子さんが聞いた。
隣の文さんは、百合子さんのカップへ少しだけ視線を向けてから、また岩倉さんを見た。
「いえ。夕方の混雑は少し過ぎていました。放課後の子たちがシュークリームを買っていったあとで、店内は落ち着いていました。ショーケースの中もところどころ空いていて、私はレジの横で箱を折ったり、ガラスを拭いたりしていました」
「厨房には?」
松尾さんが静かに聞いた。
「その時間は、ほとんど入っていません。奥へ行ったとしても、ほんの短い時間です。生菓子の仕込みはもう終わっていましたし、閉店作業にはまだ少し早かったので」
「つまり、店の前にいた時間が長かった」
「はい。あのビルの入口は、うちの店からよく見えるんです。真正面というより、少し斜めですけど。ショーケースのガラス越しに、自然と目に入る位置です」
私も窓の外を見た。
こもれびからでは少し角度が違うけれど、パティスリー岩倉の店先からなら、向かいのビルの入口は見やすいのだろう。
そう思える位置に、その建物はあった。
「改装のことは、前もって聞いていたんですか?」
私が尋ねると、岩倉さんはこちらを見た。
「はい。向かいですからね。工事が始まる前に、現場の方が挨拶に来てくださいました。しばらく音が出ます、と」
「昨日も工事は?」
「ありました。午後から作業が入っていたはずです」
「はず、というのは?」
「大まかな日程表はいただいていましたが、細かい内容まではわかりませんから。ただ、昨日も昼過ぎから、何度か木を叩くような音がしていました。夕方にはだいぶ落ち着いていましたけど、風で養生シートがばさっと鳴る音はしていましたね」
養生シート。
その言葉で、灰色の布のようなものが頭の中に広がる。
工事中の建物を覆う、半透明に近い灰色。風を受けるたび、建物が薄い皮膚を震わせるように鳴る。
「その改装中のビルへ、男女二人が入ったんですね」
春日井さんが、低い声で話の流れを戻した。
「はい。女性のほうは、私も知っている方でした。あのビルの関係者です。商店街の人間なら、顔を知っている方も多いと思います」
絹子さんが小さくうなずいた。
その反応からすると、絹子さんにも心当たりがあるらしい。けれど、名前は出さなかった。春日井さんも聞かなかった。
ここは、そういう場所だ。
必要以上に誰かの名前を広げない。謎は預かるけれど、秘密を雑に扱わない。
「男性のほうは、見覚えがありませんでした。紺色のスーツを着て、銀縁の眼鏡をかけていました。左手には、黒い薄型の鞄を持っていて」
「会社員風?」
菜穂が言った。
「そうですね。少し緊張しているようにも見えました。女性の後ろを、半歩くらい遅れて歩いていましたから」
半歩遅れて。
その距離が、少しだけ目に浮かぶ。
親しい人の距離にも見える。気まずい人の距離にも見える。私には、まだどちらとも決められなかった。
「二人が入ったあと、どのくらいで女性が出てきたんですか?」
真鍋さんが聞いた。
「十五分くらいでしょうか。五時前だったと思います」
「そのとき、男性はいなかった」
「はい。女性だけでした」
「女性の様子は?」
絹子さんが聞いた。
「急いでいる感じではありませんでした。普通に、というか……何か大きな揉め事があったようには見えませんでした」
見えませんでした。
その言い方は慎重だった。
人の心の中で何が起きているかなんて、外からはわからない。けれど、岩倉さんは少なくとも、自分に見えた範囲だけを話そうとしているように感じられた。
「それで、男性は出てこなかった。でも、その少しあとに、お店へ来た」
松尾さんが言った。
「はい。五時十分くらいだったと思います。予約のお客様が五時ちょうどにいらっしゃって、その対応が終わったあとでした。だから、時間はそれほどずれていないと思います」
岩倉さんの話は、思ったより細かかった。
けれど、その細かさのせいで、かえって妙だった。
時間。天気。店の位置。ビルの入口。
どれも、男性が普通に出てきたなら、岩倉さんの目に入りそうなものばかりだった。
「ひとつ、いいですか?」
真鍋さんが、膝の上の布バッグにそっと指を置いたまま言った。
「はい」
「その方は、本当に同じ男性だったんでしょうか」
奥の席の空気が、ほんの少し動いた。
人違い。
それは、最初に考えやすい答えだった。
スーツ姿の男性。銀縁の眼鏡。黒い鞄。遠目に見れば、似た人はいくらでもいるのかもしれない。
「私も、あとからそう考えました」
岩倉さんは素直にうなずいた。
「でも、店に来た方は、やはり同じ人だったと思います」
「どうして?」
菜穂が聞いた。
「少し特徴のある鞄だったんです。黒い鞄なんですが、中央に太いオレンジ色の線が入っていて。ああいう鞄は、今まで見たことがありませんでした」
岩倉さんは、自分の左手を少し持ち上げた。
「ビルへ入るときも、店へ来たときも、その鞄を左手に持っていました。それに、紺色のスーツも、銀縁の眼鏡も同じでした。ネクタイの柄まで見比べたわけではありませんが、三十分ほどのあいだに、あれだけ特徴の重なる別人が現れたとは考えにくくて」
「では、顔だけが似ていたというわけではないんですね」
真鍋さんが確認した。
「はい。服装も持ち物も同じでした。店へ入ってきたとき、私はすぐに、さっきの人だと思いました」
「なるほどね」
百合子さんが、ぽつりと言った。
「特徴的なかばん、同じようなスーツ、眼鏡……三つ揃えばね……」
真鍋さんが百合子さんを見て、少しだけ目元をやわらげたように見えた。
それ以上は何も言わなかった。けれど、その沈黙は、前よりずっと近いところにあるように感じられた。
「じゃあ、人違いの線は薄いわね」
絹子さんはあっさり言った。
「似たスーツの人が、同じ眼鏡をかけ、同じ鞄を同じ手に持って、同じ店へ現れる。そんな偶然があったら、それはそれで別の謎よ」
「それはそれで、見てみたいですけどね」
菜穂が言う。
「見なくていいよ。謎が増える」
私が返すと、菜穂は少し残念そうに口を閉じた。
「では、出てきた瞬間を見落とした可能性は残るかな」
松尾さんが、ゆっくりと口を開いた。
人違いよりも、ずっと現実的だ。
人は、いくら見ているつもりでも、すべてを見ているわけではない。箱を折る。レジを打つ。予約の品を渡す。
たったそれだけのあいだに、人ひとりが出ていくことはある。
「もちろん、絶対に見落としていないとは言えません。何度か大工さんらしい方が平たい資材箱を抱えて出入りしたりしていましたが、すべてを見ていたわけではありませんから」
岩倉さんは言った。
その話し方は、言い張るというより、ひとつひとつの事実を棚へ戻していくようだった。
「私は、入口を見張っていたわけではないですし」
「ですよね。お店番をしながら向かいをずっと凝視していたら、それはそれでお客さんが怖い」
菜穂がうなずく。
「三沢さんなら、どうされますか?」
春日井さんが聞いた。
「私はたぶん、ケーキを見ます」
「でしょうね」
「即答」
菜穂が少しだけ肩をすくめる。
そのやり取りで、張りつめかけていた空気がわずかにほどけた。岩倉さんも、少し笑ったように見えた。
「ただ、女性が出てきたときは、すぐに気づいたんです」
「どうしてですか?」
私が聞いた。
「入口が開くと、養生シートの端が少し動くんです。昨日は風がありましたから、扉が開くたびに、ばさっと音がして。その動きで、自然と目が向きました。女性が出てきたときも、それで気づいたんです」
「男性が出てきたときも、同じように気づいたはずだと」
松尾さんが言う。
「はい。少なくとも、スーツ姿の男性が出てきたなら、気づいたと思います」
スーツ姿の男性が出てきたなら。
正しい言葉が、いつも十分な言葉とは限らない。
そこまで考えて、私は自分の思考をいったん止めた。
まだ早い。
何かを決めるには、まだ足りない。
「うーん」
菜穂が、フォークを持たないままモンブランをじっと見ていた。
「食べたいなら、食べていいんだよ」
私が言うと、菜穂は首を横に振った。
「今食べたら、栗に全部持っていかれる気がする」
「栗、強いからね」
「うん。かなりの強敵」
菜穂はそう言ってから、岩倉さんを見た。
「ねえ、岩倉さん」
「はい」
「そのときのこと、もう一度、最初から思い浮かべてもらっていいですか?」
「最初から、ですか?」
「はい。私たちも、一緒に見ているつもりになるので。岩倉さんのお店に立っているつもりで。ショーケースがあって、向かいに改装中のビルがあって、風でシートが鳴っていて」
そこで菜穂は、自分の言葉が少し大げさになったと思ったのか、小さく笑った。
「そこに、その男の人が入っていくところから」
菜穂は、たぶん本当に思いつきで言ったのだと思う。
けれど私は、その言葉に従って、岩倉さんが見た景色を頭の中に置き直してみた。
ショーケース。白い箱。夕方の光。向かいのビル。灰色の養生シート。風の音。紺色のスーツを着た男性。女性の後ろを、半歩遅れて歩く足取り。
見えていたもの。
見ていたはずのもの。
そして、見ようとしていたもの。
その三つが、まだ同じ場所に並んでいない気がした。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
さて、みなさま…食べたくなってきたでしょう……あれが。
そう、モンブランです!
私も明日買ってきます!
まだもうちょっと毎日投稿いたします。20時です。
どうぞよろしくお願いいたします。




