前起1
前起1
美月は憂鬱だった。
母親が用意してくれた朝ごはんも、今日は喉を通らない。大好きな卵焼きですら、味気なかった。
美月が通っていた中学は、市内でも三番目に古い学校だった。
もっとも古い学校は数年前に建て替え工事が完了しており、二番目に古い学校も、建て替えこそされていなかったものの、耐震工事を含めた修繕が行われていた。
つまり、美月の通う中学が、市内で一番古い校舎だった。
教室は夏は暑く、冬は寒い。先輩たちが何年も使い続けた机は傷だらけで、下敷きを使わずにプリントに書くと、シャーペンの先が机の穴に引っかかり、紙に穴が開くこともあった。
何より、美月が許せなかったのはトイレだった。
掃除をしても消えない独特の臭い。よくわからない模様のタイル。そして和式の便器。
美月は、このトイレに三年間耐えてきた。
だからこそ、高校は妥協したくなかった。
自分では選ぶことのできなかった中学生活を耐えた分、選ぶことのできる高校…いや、トイレは譲れなかった。
通学可能な範囲にある高校をいくつか見学し、その中で最も校舎が新しく、そしてトイレが綺麗な学校を選んだ。
これからは、綺麗なトイレを使える。
そんな期待を胸に、意気揚々と迎えた入学初日。
そこで美月は、あることに気づいた。
自分の中学から、その高校へ進学したのは美月だけなのである。
いや、それ自体は事前に先生から聞いていた。
ただ、美月はそのことの意味を深く考えていなかった。
知り合いが一人もいない。
友達がいない。
完全な一からのスタート。
その現実を、美月は入学してから初めて実感した。
教室では、初日からすでに女子グループがいくつかできていた。
「校長の話長〜い」「部活どうする?」
「初めまして」ではない会話が飛び交い、楽しそうな笑い声が響いている。同じ中学から来た生徒同士で、すでに関係ができていた。
完全なアウェイ。
出来上がった輪の中へ、自分から入っていく勇気はない。結果、美月は入学してから三日間、ほとんど声を発することなく過ごした。
休み時間にすることは、トイレに行くことと、次の授業の準備だけ。
昼休み。
楽しそうに弁当を囲むグループを横目に、美月は一人、窓の外を眺めながら昼食を食べた。
まだ入学して数日。
それでも美月にとっては、この先ずっと続くように思えるほど長く、辛い時間だった。
入学してから最初の金曜日。
美月は自分のクラスの教室へ入った。
「おはよう」と声をかける相手はいない。
俯きながら、自分の席へ向かう。
窓際の席だったため、教室の入り口から自分の机まで歩く距離がやけに長く感じた。
クラスメイトがいる中を横切らなければならないことも、美月にとっては小さな苦痛だった。
席に着くと、手に持っていたバッグから今日使う教科書、ノート、筆箱を取り出し、バッグは机の横のフックにかける。
そこまでにかかった時間は、三分もかからなかった。
あとは担任が来るのを待つだけ。
美月は今日も、窓の外を眺め続けるしかなかった。
また長くて辛い一日が始まる…と思った瞬間。
「あっ、色違いじゃん」
斜め上から突然声をかけられ、美月の肩が跳ねる。
驚きながら声がした方を見ると、そこには肩まで伸びた茶色い髪の女の子が立っていた。
その子は自分のバッグの端を、美月へ向けて見せる。そこには、灰色の猫のキーホルダーが付いていた。貴族のような風貌の猫が、優雅にワイングラスを持っている。
「ひゃっ……」
ここ最近ほとんど声を出していなかったせいか、美月の口から本人も予想していなかった声が漏れる。
美月の筆箱にも、同じデザインのキーホルダーが付いていた。ただし、美月の猫は黒色。黒猫の貴族が、ワイングラスを持っている。
「黒もあるんだね」
そのクラスメイト、高倉詩織は歯を見せて笑った。




