未結6
未結6
本多の浮気が発覚した翌日、美月はいつもより早く目を覚ました。
シャワーを浴びるため、鏡の前で髪を高い位置にまとめる。両手を上げた瞬間、ふと本多に言われた言葉を思い出す。
「女の人が髪を高い位置で結ぶ仕草って、たまんないよね」
その記憶が脳裏をよぎり、美月の手が一瞬止まる。
浮気が発覚する前から、本多が女好きで軽薄な男だということくらいわかっていた。わかっていたはずなのに、こうして些細なことで思い出してしまう。
改めておもう。
自分の方が本多のことを好きだった。
認めたくはないが、それが事実だった。そして、いちいち本多を思い出してしまう自分にも嫌気が差す。
美月はシャワーの温度を二度上げた。
眠りが浅かったせいで頭がぼんやりしている。少し熱めの湯で無理やり目を覚ましたかった。それに、充血した目もどうにかしたかった。根拠はないが、熱いシャワーを浴びれば少しは元に戻るのが早い気がした。
今日は取引先との打ち合わせがある。
午前中には出発しなければならず、美月は急いで資料の印刷を始めた。いつもなら「昨日のうちに準備しておけばよかった」と反省するところだが、今日だけは少し焦っているくらいがちょうどよかった。
余計なことを考えずに済む。
コピー機の隣にあるプリンタの前で、美月は次々と印刷され、排出口に溜まっていく資料をぼんやり眺めていた。
一定のリズムで積み重なっていく紙の動きには、妙な催眠効果がある。単調な流れに意識を預けていると、自然と脳裏に本多と詩織の姿が浮かんできた。
いつからだったのか。
どれくらいの頻度だったのか。
どちらから近づいたのか。
……いや、どうせあいつ(本多)からだろう。
想像でしかない二人の関係を勝手に思い描き、美月は小さく息を吐いた。怒り、悲しみ、寂しさ――入り混じった感情は、誰にも気づかれないほど小さなため息になって喉の奥からこぼれ落ちる。
「後ろ通りますね」
突然かけられた声に、美月は一気に現実へ引き戻された。
「ご、ごめんなさいっ」
別に邪魔をしていたわけではない。それでも、完全に意識が外へ飛んでいたところに不意打ちで声をかけられ、美月は反射的に謝った。
声は自分の頭より高い位置から降ってきた。
美月は謝りながら、声の主を確認するため斜め上を見上げる。
男は美月の後ろを通り過ぎると、プリンタの隣にあるコピー機へ書類をセットした。メガネの奥で眉間に皺を寄せ、液晶画面を操作している。
隣の部署の片桐だった。
整った顔立ちをしているが、口数は少なく、これまでほとんど関わったことはない。仕事の評判は悪くないが、ときどき予測不能な行動を取るという噂が女性社員の間で流れており、美月は片桐に対し、なんとなく食わず嫌いに似た感情を抱いていた。
美月は印刷した資料を揃えるふりをしながら、横目で片桐の様子を窺った。
別に興味があるわけではない。ただ、もし変わった行動でも見れば、同僚とのランチのときの話題くらいにはなるだろう――その程度だった。
片桐は、コピー機の液晶画面を右手で操作したあと、そのままの手で額を擦る、という動作を繰り返した。
……あれ?
その仕草に、美月は妙な既視感を覚える。
どこかで見たことがある。
そう思って片桐を見ていると、
「篠崎さん」
「え? あ、はい!」
突然名前を呼ばれ、美月は肩を跳ねさせた。
自然に受け流そうと意識した結果、不自然な勢いで資料をプリンタの上に置き、妙に元気な返事をしてしまう。
「違ってたらごめんなさい」
片桐は美月と目を合わせないまま、コピーした書類を揃えながら言った。
「昨日、泣きました?」
「え??いや、まさか!ど、どうして??」
肌ツヤに敏感な同僚の女性職員にもバレていない昨夜の号泣を、あっさりと見抜かれ、美月は動揺する。
「泣いてないですよ!なんでですか??」
あからさまに動揺した口調ではあったが、このままだと浮気されたことすら見透かされそうな気がして、美月は必死に否定した。
「いや、根拠があるわけじゃないんですけど。なんとなく、そう見えただけです。違ってたらすみません」
片桐はそれだけ言うと、コピーした資料を抱え、自分の席へ戻っていった。その場に取り残されたような感覚のまま、美月も資料を持って席へ戻る。
だが、自分の顔が気になってしまい、すぐに席を立つとトイレへ向かう。
洗面台の鏡を覗き込み、自分の顔を確認した。
昨夜は入念にスキンケアをした。冷やしたタオルも当てた。泣き跡なんて残っていないはずだった。
それなのに…。
「あ、やばい!高橋さん待たせてる!」
外出のことを思い出し、美月はまた慌ただしくオフィスに戻っていった。
予測不能な体験は起きた。
だがそれは、ランチのときに美月が同僚に話せる内容ではなかった。




