第九話 塞がれた井戸と消えた道は、よく似てる。どちらも都合が悪い時に蓋をされるからな
橋番小屋を出ると、夕方の光が町に差し始めていた。
雨雲の裂け目から、薄い金色の光が落ち、聖マルタ橋の濡れた石を照らしていた。
欄干の古い紋章にも、その光が触れた。斜帯と三つ星と、小さな鍵。摩耗した線は、昼間より深く見えた。
エルマーは、橋を渡らず、西岸の裏道へ向かった。
「どこへ」
「南の柳の木があった場所だ」
「今からですか」
「今からだ。暗くなる前に見る」
「あなたは勤勉ではないと言っていました」
「嘘だ」
「嘘を嫌うのでは?」
「自分の嘘は例外だ。人間はそういうふうにできてる」
革なめし場の裏は、強い臭いがした。
水に浸した皮、腐りかけた肉、灰、油。アンネロッテは一瞬顔をしかめたが、何も言わなかった。
エルマーはその横顔を見て、意外そうに言った。
「帰るか」
「帰りません」
「上等だ。貴族の鼻も使い物になる」
裏道は狭く、石畳も崩れていた。
古い塀の根元に、切り株のようなものが残っている。
すでに朽ち、半ば土に埋もれていた。
「柳の木か」
エルマーはしゃがみ込んだ。
「これが?」
「たぶんな。太さがある。古い井戸はどこだ」
少し先に、丸く石を組んだ跡があった。今は板で塞がれ、その上に空き樽が置かれている。誰も気にしていない場所だった。
エルマーは樽をどかし、板を軽く叩いた。
「塞いでるな」
「危ないからでしょうか」
「それもある。だが、塞がれた井戸と消えた道は、よく似てる。どちらも都合が悪い時に蓋をされるからな」
彼は周囲を見た。
そこから丘へ向かう細い道が、かすかに残っていた。
今は物置や塀に塞がれているが、道の癖は消えきっていない。
町は変わる。
だが道は、人間の足の記憶をしぶとく残す。
「女道」
アンネロッテが呟いた。
「ここを、町の人々が逃げたのですね」
「歌が正しければな」
「正しいと思います」
「思うだけじゃ弱い」
「でも、思います」
エルマーは彼女を見た。
「強くなったな。証拠のない断言をするほど馬鹿に戻った」
「あなたに似たのかもしれません」
「それは重症だ」
夕暮れの光が、古井戸の板を照らしていた。
アンネロッテは、朽ちた柳の跡に触れた。
「橋は、町の人々を逃がすために造られた。なら、橋は町のものでもあるのでしょうね」
「そうだな」
「でも、メラン家の名が消されてよい理由にはなりません」
「そうだな」
「あなたが二度も素直に認めると、不安になります」
「俺もだ。熱があるかもしれない」
エルマーは立ち上がった。
「次は市参事会文庫だ。別紙乙二号。そこに何があるかで、話が変わる」
「見せてもらえるでしょうか」
「見せたくないだろうな」
「では、どうしますか」
「見たくないものを見せろと言う。俺の得意分野だ」
アンネロッテは、聖マルタ橋の方を見た。
橋は夕暮れの中にあった。
人々が渡り、荷車が通り、子供が欄干に手をついて川を覗いている。誰も、そこにあった古い歌を知らない。誰も、女道を知らない。誰も、メランの星が川を渡したと歌わない。
だが、知られていないだけだった。
消えてはいなかった。
アンネロッテは小さく言った。
「名は、人の口の中にある」
「婆さんの受け売りか」
「ええ」
「なら、口をこじ開けるしかないな」
「あなたらしい言い方です」
「上品に言うと通じない」
エルマーは、古井戸に置かれていた樽を元に戻した。
それから、橋の方へ歩き出した。
アンネロッテはその後を追った。
夕方の鐘が鳴った。
西の鐘は三つ鳴る。
さっき聞いた歌の一節が、どこかでまだ続いているようだった。町の屋根に、川面に、橋の石に、古い声が薄く残っていた。
エルマーは歩きながら言った。
「お嬢様」
「その呼び方は嫌いです」
「知ってる」
「では、なぜ」
「嫌いなものは、消えた時にわかる」
アンネロッテは、返す言葉を探した。
だが、何も言わなかった。
エルマーも、それ以上は言わなかった。
橋の上に、人々の足音が戻っていた。
百年のあいだ、誰も聞こうとしなかった音が、その下で静かに目を覚まし始めていた。




