第八話 メランの星
市法院を出ると、午後の光が広場に落ちていた。
雨上がりの町は、洗われたようには見えなかった。
ただ、汚れが新しく光っていた。市場の泥、馬糞、魚の水、葡萄酒のしみ。
雨はそれらを消すのではなく、薄く広げただけだった。
アンネロッテは、しばらく黙って歩いた。
エルマーは彼女に合わせず、いつもの速さで歩く。彼女が少し遅れると、振り返りもせずに言った。
「落ち込むなら歩きながらにしろ。立ち止まると邪魔だ」
「落ち込んではいません」
「なら考えてる顔か。似てるな。どっちも暗い」
「あなたは、何も感じないのですか」
「感じてる」
「何を」
「腹が減った」
アンネロッテは立ち止まりかけた。
「本当に、あなたという人は」
「怒るな。腹は大事だ。真実だけでは人間は動かない。パンもいる。ラインハルトの言ってることの、腹立たしいところはそこだ」
アンネロッテは、そこで何も言えなくなった。
エルマーは橋の方へ向かいながら、ふと思い出したように言った。
「橋番小屋に行く」
「橋番小屋?」
「マルタ婆さんがいる。昔の橋番の娘だ」
「記録を持っているのですか」
「たぶん持ってない。文字も怪しい」
「では、なぜ」
「歌だ」
「歌?」
「古い歌を覚えてるらしい。包囲戦の頃の歌だ」
アンネロッテは少し驚いた顔をした。
「歌が証拠になるのですか」
「ならない。歌で裁判に勝てるなら、吟遊詩人は全員判事だ」
「では」
「だが、歌には地名が残る。古い呼び名、人の名、祭礼、道順。紙に書く価値がないと思われたものが、歌には残ることがある」
「あなたが、歌を頼るとは思いませんでした」
「頼ってない。疑う材料にするだけだ。俺は何も信じない。便利だぞ。失望が少ない」
橋番小屋は、聖マルタ橋の西詰めにあった。
小さな石造りの小屋で、屋根は苔むしている。
かつて橋番が通行銭を集めていた場所だが、今はもう使われていない。
戸口には薪が積まれ、窓には古い布がかけられていた。
エルマーは扉を叩いた。
「婆さん。生きてるか」
中から、しわがれた声がした。
「死んでたら返事せんよ」
「そりゃ助かる。市法院より話が早い」
扉が開いた。
小柄な老女が顔を出した。
背は曲がり、白い髪を布でまとめている。
目だけは妙に明るかった。
マルタ婆さんはエルマーを見て、次にアンネロッテを見た。
「おや。きれいなお嬢さんを連れて。あんたにも、とうとう神様が罰を当てなすったか」
「罰にしては高くつきそうだ」
「口の悪い男だねえ。昔からだ」
「昔を知らないだろ」
「こういう男は、生まれた時から口が悪い」
マルタ婆さんは、アンネロッテを中へ招いた。
小屋の中は狭かった。
火鉢があり、乾かした薬草が梁から吊るされている。
壁には古い鍵束と、割れた徴収板がかけられていた。
窓の外には、橋の欄干が見える。
アンネロッテは丁寧に名乗った。
「アンネロッテ・フォン・メランです」
老女は、少し目を細めた。
「メラン様の」
「はい」
「そうかい。まだ、いなすったか」
その言葉は、昨日エルマーが言ったものと似ていた。
だが、響きがまるで違った。
死人を数える言葉ではなかった。
消えかけた火を見つけた時のような声だった。
アンネロッテは小さく頭を下げた。
「橋の古い歌をご存じだと聞きました」
「歌ねえ」
マルタ婆さんは火鉢のそばに座った。
「知ってるよ。子供の頃、父に聞かされた。橋番だったからね、うちの父は。もっとも、あの頃にはもう通行銭を取ってたけど」
エルマーが椅子に腰掛けた。
「歌え」
「人に物を頼む口かい」
「歌え、聖女のように」
「気持ち悪いね。普通に言われた方がましだよ」
老女は笑い、少し咳をした。
それから、低い声で歌い始めた。
東の岸に火がのぼる
西の鐘は三つ鳴る
メランの星は川を渡し
聖女の鍵は門を開く
子らは泣くな、母は急げ
白い橋には銭はいらぬ
南の柳を越えたなら
古井戸の道を忘るるな
歌は短かった。
だが、その歌が小屋の中に落ちた時、アンネロッテの顔色が変わった。
「メランの星」
彼女が呟いた。
「斜帯の三つ星です」
「聖女の鍵も、紋章にあるな」
エルマーが言った。
「それだけなら、ただの家名の歌だ。だが、南の柳と古井戸の道」
マルタ婆さんが頷いた。
「昔はね、橋を渡った先に柳の木があったそうだよ。今は市場の倉庫が建ってる。古井戸は、もう塞がれた」
「どこにあった」
「西岸の裏道さ。今の革なめし場の裏。昔はそこから丘へ逃げる道があったと聞いた」
エルマーは、目を細めた。
「東岸避難路」
「そう呼んでたかは知らないね。うちでは、女道って言ってたよ」
「女道?」
「戦の時、女や子供や年寄りを逃がした道だって。男どもは壁に残って、女らは橋を渡った。そう聞いた」
アンネロッテは、両手を膝の上で握っていた。
「祖母は、そんな歌を教えてくれませんでした」
マルタ婆さんは静かに言った。
「忘れたい人もいたんだろうね。助かった話は、助からなかった人の影も連れてくる」
エルマーは、珍しく何も言わなかった。
老女は、橋の方を見た。
「あの橋はね、昔から町のものだと言われてきた。でも父は、酒を飲むとよく言った。町のものになる前に、誰かの痛みでできた橋だ、ってね」
「誰かとは」
「さあ。父は名前を言わなかった。怖かったのか、忘れたのか。けど、メランの星が川を渡した、とは歌にある」
エルマーは立ち上がった。
「十分だ」
「証拠になるかい」
「ならない」
「だろうね」
「だが、地図になる」
マルタ婆さんは笑った。
「あんた、昔からそんな物言いかい」
「生まれる前からだ」
「母親が気の毒だ」
「よく言われる」
アンネロッテは、老女に深く頭を下げた。
「ありがとうございました」
「いいんだよ。あたしは歌っただけだ」
「その歌が、残っていたことがありがたいのです」
老女は少し黙り、それから優しく言った。
「お嬢さん。名を取り返すのは、物を取り返すより難しいよ」
「はい」
「物は、そこにある。でも名は、人の口の中にある。人は、言いたくない名をなかなか言わない」
アンネロッテは、静かに頷いた。
「それでも、言わせたいのです」
「なら、強くおなり」
エルマーが横から言った。
「やめろ。綺麗な助言をすると、俺の気分が悪くなる」
マルタ婆さんは声を立てて笑った。
「あんたも少しは優しくおなり」
「無理だ。持病だ」
「医者に見せな」
「医者が逃げる」
アンネロッテは、初めて小さく笑った。




