第七話 救った人間は、たいてい請求書を書く前に死ぬ。生き残った奴が領収書を偽造する
閲覧室は細長い部屋だった。
窓は高く、外の光が斜めに差し込んでいる。
机は四つ。
どれも傷だらけで、過去に何人もの訴訟人がここで怒りや不安を爪で削った跡があった。
若い書記が、重い台帳の写しを二冊運んできた。
「こちらです。閲覧のみ。筆写が必要な場合は、申請を」
「申請なら後で書いてやる。たぶんお前よりうまい」
書記は反応に困った顔で去っていった。
エルマーは椅子に座り、台帳を開いた。アンネロッテは向かいに座った。
紙の上には、細かい数字と名前が並んでいた。
聖マルタ橋。
通行銭。
荷車一台につき銅貨一枚。
徒歩の者は無税。
冬季減免。
市修繕費へ繰入。
橋番給金。
夜警費補填。
エルマーは、頁を追う速度を少しずつ落とした。
「おかしいな」
「何がですか」
「最初の数年、通行銭がほとんどない」
「祈祷書にも、通行銭は取らず、とありました」
「そうだ。だが、完全にゼロじゃない。商人ギルドの荷だけ記録がある。しかも名目が通行銭じゃない」
「何と?」
「石材償還寄付」
アンネロッテは眉を寄せた。
「寄付?」
「橋の建設費を補うための名目だな。市の税じゃない。誰かに返す金だ」
「メラン家に?」
「たぶん。だが名前がない」
エルマーは指で行を追った。
石材償還寄付。
東岸荷組合。
西市魚商。
羊毛商人組。
鍛冶屋連合。
「面白い。最初は橋の費用を返すために金を集めてる。つまり、市は橋を自分のものとして扱ってない」
「では」
「待て。ここで喜ぶと転ぶぞ」
数頁進む。
ある年から、名目が変わっていた。
石材償還寄付、という言葉が消え、かわりにこうある。
聖マルタ橋通行税。市一般財源へ。
アンネロッテが息を呑んだ。
「ここで、変わったのですね」
「そうだ」
「なぜ?」
「そこが空白だ」
エルマーは前後の頁をめくった。
通常なら、税目の変更には市参事会の議決番号か、寄進証書の参照が付く。
だが、この年だけ、それがない。
ただ、次の年から当然のように市の税として記録されていた。
「市の手続きにしては雑だな」
「雑なのですか」
「雑だ。泥棒でももう少し丁寧に戸締まりする」
アンネロッテは台帳を覗き込んだ。
「この年に、何があったのでしょう」
「メラン家に何かあったか」
「祖母の話では、包囲戦のあと、当主は傷がもとで亡くなったと。残された家族も、領地を失い、借財を抱えたと聞いています」
「死んだか。いい時期だな」
「いい?」
「奪う側にとってはな。金を出した本人が死に、家は弱り、町は橋を必要としてる。そこで市民一同の篤志が登場する。美談は死体の上に建つと長持ちする」
アンネロッテの顔が白くなった。
「祖先は、町を救ったのに」
「救った人間は、たいてい請求書を書く前に死ぬ。生き残った奴が領収書を偽造する」
「そんな言い方を」
「綺麗に言えば、きれいな嘘になる」
エルマーは台帳をさらに調べた。
橋番の給金。
石材の修繕費。
欄干補修。
洪水後の橋脚補強。
ある記録で、彼の指が止まった。
「見ろ」
アンネロッテは身を乗り出した。
橋脚南側、修繕。費用一部、メラン家より拠出。
年は、通行税が市一般財源に移った五年後だった。
「寄進した橋に、なぜメラン家が修繕費を出してる」
エルマーの声は低かった。
「それは」
「寄進が成立していたなら、市が負担する。名誉のための寄付という言い訳はできる。だが、通行税を市の収入に入れたあとも、メラン家が修繕費を出している。しかも『寄付』じゃない。拠出だ」
「拠出、という言葉には意味があるのですか」
「ある。義務に近い。少なくとも、ただの善意より重い」
アンネロッテは、台帳のその行を見つめた。
小さな文字だった。
誰かが、ただ事務的に書いた一行。
だが、その一行の中で、死んだ家が少しだけ息をした。
「父は、これを見つけたのでしょうか」
「かもな」
「だから、橋は売っていないと」
「かもな」
「あなたは、なぜいつも断言しないのですか」
「断言は気持ちいい。だから危ない」
エルマーは台帳を閉じかけ、ふと手を止めた。
最後の頁に、別紙参照、とだけ書かれた行があった。
橋梁管理権確認。別紙乙二号参照。
「別紙乙二号」
彼が呟くと、アンネロッテが顔を上げた。
「それが、寄進証書ですか」
「かもしれない」
「また、かもしれない」
「だが、匂いは濃くなった」
エルマーは立ち上がった。
その時、閲覧室の扉が開いた。
オットーが入ってきた。
「別紙乙二号は、ここにはない」
「聞き耳か。趣味が悪いな」
「君の声が大きい」
「俺の声じゃない。嘘が騒いでる」
オットーは台帳を一瞥した。
「その別紙は、保管庫ではなく、市参事会文庫に移されている」
「なぜ市法院の参照文書が市参事会にある」
「当時、財政記録と一括して移管された」
「便利な偶然だな。泥棒の家に鍵の写しが移されたわけだ」
「言葉を選べ」
「選んでる。もっと悪い言葉が三つ浮かんだ」
オットーは、アンネロッテへ視線を移した。
「メラン嬢。今日見たものだけで訴えを起こすのは危うい。だが、請求の形は見えてきた」
「請求の形」
「橋の所有権返還ではなく、まずは記録開示請求。市参事会文庫にある別紙乙二号の閲覧、ならびに橋梁管理権移転の根拠確認」
エルマーは笑った。
「言い方が退屈だが、悪くない」
「退屈な文書ほど通る」
「だから市法院は眠いんだ」
オットーは返事をしなかった。
かわりに、低い声で言った。
「クラウゼ。ラインハルトには気をつけろ」
「心配してくれるのか。気持ち悪いな。薬でも飲んだか」
「彼は町を守る男だ」
「それは敵だという意味か」
「町を守る男は、町のためなら記録を守らないことがある」
エルマーは、少しだけ黙った。
オットーは続けた。
「君は、記録のためなら町を傷つける。彼は、町のためなら記録を傷つける。どちらも危うい」
「俺とあいつを並べるな。虫唾が走る」
「似ているとは言っていない。衝突すると言っている」
オットーは台帳を閉じた。
「今日はここまでだ」
「もう少し見せろ」
「駄目だ。これ以上は申請を通せ」
「申請書なら三分で書く」
「通るまで三日かかる」
「腐った手続きだ」
「手続きとはそういうものだ」
エルマーは舌打ちした。
アンネロッテは、台帳の閉じられた表紙を見つめていた。
橋はまだ返らない。
名もまだ戻らない。
だが、橋を覆っていた白い布の端が、ほんの少しめくれた。




