第六話 いい顔だ。正義はだいたい鼻から欠ける
雨は昼前に上がった。
雲はまだ低く、町の屋根の上に鈍くかぶさっていた。
石畳の目地には水が残り、馬の蹄がそこを踏むたび、薄黒い飛沫がはねた。
聖マルタ橋の欄干も、市庁舎の尖塔も、濡れたまま黙っていた。
市法院は、広場の北側にあった。
古い石造りの建物で、正面の柱には天秤と剣を持つ女神の浮彫がある。
だが、女神の鼻は欠けていた。
片方の皿には鳩の糞がつき、剣の先も少し丸くなっている。
エルマー・クラウゼはそれを見上げて、鼻で笑った。
「いい顔だ。正義はだいたい鼻から欠ける」
アンネロッテ・フォン・メランは、少し遅れてその隣に立った。
「ここが市法院ですね」
「そうだ。町で一番、真実が紙にされて痩せる場所だ」
「あなたは本当に、ここに勤めていたのですね」
「俺にだって若くて馬鹿な時期があった。今は若さだけ失った」
広場には、訴訟人や商人や小役人が行き来していた。
鞄を抱えた男、証人として呼ばれたらしい農夫、黒い外套の弁論人。
誰もが急いでいるようで、実際には廊下で待たされるために急いでいた。
アンネロッテは市法院の扉を見ると、わずかに背筋を伸ばした。
それを見て、エルマーが言った。
「鎧を着るな」
「鎧?」
「その背中だ。貴族の娘です、侮らないでください、でも本当は金も後ろ盾もありません。全部背中に書いてある。読まれるぞ」
「では、どうすればよいのですか」
「普通にしろ」
「その普通が難しいのです」
「なら黙ってろ。黙ってる人間は、賢く見えることがある」
「あなたには無理ですね」
エルマーは一瞬だけ彼女を見て、口の端を上げた。
「いいぞ。少しずつ嫌な女になってきた」
「あなたの影響です」
「悪い師を選んだな」
二人は扉をくぐった。
中は湿った紙と蝋と古い木の匂いがした。
廊下の壁には、過去の判決文の写しや、罰金表、訴訟手数料の告示が貼られている。
どの紙も、町の人間に何かを命じる時だけは妙に立派な顔をしていた。
受付の若い書記が、顔を上げた。
そして、エルマーを見て固まった。
「クラウゼ……さん」
「その顔は何だ。幽霊でも見たか」
「いえ、その」
「安心しろ。幽霊ならもっといい服を着て出る」
若い書記は困ったように笑った。どう扱うべきか迷っている顔だった。
かつてここにいた男。だが今は追われた男。才能はあったが、面倒も起こした男。
市法院ではそういう人間は、死者より扱いに困る。
「フェルナー上席書記官に会いたい」
「お約束は」
「ない」
「でしたら」
「あると言ったら嘘になる。お前らは嘘を嫌う建物で働いてるんだろ。建前上は」
書記は顔を赤くした。
アンネロッテが静かに口を開いた。
「アンネロッテ・フォン・メランです。聖マルタ橋に関する古い通行税台帳について、確認を願いたく参りました。フェルナー様にお取り次ぎいただけますか」
書記は、彼女の名を聞いて少し態度を変えた。
「メラン家の……少々お待ちください」
書記は奥へ消えた。
エルマーは小さく舌打ちした。
「貴族の名前は便利だな。俺が言うと嫌な顔をされることが、あんたが言うと『少々お待ちください』になる」
「あなたは最初から嫌な顔をさせにいっているでしょう」
「結果は同じだ」
「過程が違います」
「過程に価値を見出すのは、暇な人間の趣味だ」
しばらくして、若い書記が戻ってきた。
「フェルナー様がお会いになります」
「珍しい。老い先が短いと勇敢になるのか」
「クラウゼさん」
「案内しろ。迷子になるほど懐かしくはない」
廊下を進む。
アンネロッテは、壁の棚に並ぶ台帳を見ながら歩いた。
そこには、町の生まれ、死、争い、借金、罰金、売買が積まれていた。
人間の暮らしは、こうして束ねられると妙に薄く見える。
紙一枚で土地が動き、印章一つで家が傾き、行の欠けた帳簿で百年の名が消える。
奥の部屋の前で、書記が立ち止まった。
「どうぞ」
扉が開く。
部屋の中には、白髪の男がいた。
オットー・フェルナー。市法院上席書記官。
細い銀縁の眼鏡をかけ、背筋をまっすぐ伸ばして机の奥に座っている。
年は六十に近い。だが、紙を扱う指先はまだ鋭かった。
机の上には、寸分違わず揃えられた書類と、蝋で封じた文箱があった。
部屋そのものが、この男の性格を写していた。
乱れがない。
そのせいで、息が詰まる。
「クラウゼ」
オットーは言った。
「まだ生きていたか」
「おかげでな。あんたがくれた退職祝いの泥水は、意外と栄養があった」
「私は退職を勧めただけだ」
「そうだな。扉を開けて、背中を押して、下に階段がないことを黙ってただけだ」
オットーは顔色を変えなかった。
「君は相変わらず、自分の転落を他人のせいにするのが下手だ」
「自分のせいだと知ってるからな。だから腹が立つ」
アンネロッテは、二人の間にある空気を感じ取っていた。
これは単なる元同僚の会話ではない。
師弟とまでは言えない。
だが、かつて同じ紙を見て、同じ嘘を嗅ぎ、違う道を選んだ者同士の、古傷のようなものがあった。
オットーは彼女へ向き直った。
「メラン嬢。お父上には、以前一度だけお目にかかったことがあります」
「父を?」
「ええ。静かな方でした。だが、文書を見る目はありました」
アンネロッテは少しだけ表情を動かした。
「父は、橋のことを調べていたのでしょうか」
「あるいは、調べようとしていた」
オットーは、指を組んだ。
「君たちが何を求めて来たかは、おおよそ察しがつく。聖マルタ橋の通行税台帳だな」
「話が早い。老いぼれにしては耳がいい」
「君の無礼は、廊下に響く」
「建物が懐かしがってるんだろ」
「建物は口答えしない。君より賢い」
エルマーは肩をすくめた。
オットーは小さく息を吐いた。
「台帳は閲覧に制限がある。とくに古い通行税に関する記録は、市参事会の財政記録にも関わる」
「出たな。便利な制限」
「手続きだ」
「手続きってのはいい。悪事を椅子に座らせると、だいたいその名前になる」
「君は、真実を棍棒のように振り回す」
「そっちは手続きで真実を干物にする」
二人はしばらく睨み合った。
アンネロッテが、静かに口を開いた。
「フェルナー様。橋の所有権を、今すぐ争いたいのではありません」
エルマーはちらりと彼女を見た。
オットーも、目を細めた。
「ほう」
「知りたいのです。メラン家の名が、いつ、どのように橋から消えたのかを」
部屋の空気が、ほんの少し変わった。
オットーは彼女を見ていた。
「名を戻したい、と」
「はい」
「所有ではなく」
「今は、まだ」
その言葉は正直だった。
橋を欲しい気持ちが消えたわけではない。
だが、それだけではないということを、彼女自身が掴みかけている声だった。
オットーはゆっくりと頷いた。
「閲覧室でなら、古い台帳の写しを見ることはできる。原本ではない」
「写し?」
エルマーが眉を上げた。
「都合がいいな。写しは嘘を着替えるのに向いてる」
「原本は保管庫だ。誰にでも出せるものではない」
「俺は誰にでも、の中に入るか」
「君はむしろ、誰にも、の中に入る」
「懐かしい扱いだ」
オットーはベルを鳴らした。
若い書記が入ってくる。
「旧通行税台帳、聖マルタ橋、包囲戦後三十年分の写しを閲覧室へ」
「はい」
書記が去ると、オットーは低く言った。
「クラウゼ」
「何だ」
「これは遊びではない」
「知ってる。遊びならもっと気分がいい」
「町の財政に触れる。市参事会が黙っていない」
「ラインハルトがもう匂いを嗅ぎつけた」
「なら慎重に動け」
「俺に慎重を求めるな。魚屋に祈祷書を売らせる方がまだましだ」
「だから君は落ちた」
エルマーは笑った。
「そうだな」
その笑いは、いつもの毒よりも少し乾いていた。
「俺は落ちた。あんたは残った。で、残ったあんたは何を守ったんだ、フェルナー」
オットーは答えなかった。
その沈黙を、アンネロッテは聞いた。




