第五話 町は自分の財布に触る人間を敵と呼ぶ。たとえその財布が元が盗品でもな
修道院を出る頃には、雨は少し弱まっていた。
ベルトラムは、写しを作ることを約束した。
ただし、原本を外へ出すことはできないと言った。
エルマーは当然のように文句を言ったが、最後には引き下がった。
紙を守る者の頑固さだけは、彼も嫌いではなかった。
門を出て、川沿いの道を歩いた。
アンネロッテは、しばらく黙っていた。
外套の裾が濡れ、靴に泥がついている。
昨日より疲れて見えた。
だが、昨日より弱くは見えなかった。
「なぜ、怒ったのですか」
彼女が言った。
「何に」
「寄進帳の頁が切られていた時です」
「俺はいつも怒ってる。新鮮味がないだろ」
「そういう怒りではありませんでした」
エルマーは足を止めなかった。
「紙が嫌いなんだ」
「紙が?」
「いや、違うな。紙に手を出す奴が嫌いだ」
「文書を改竄する者が?」
「そうだ。人間は嘘をつく。貴族は名誉のため、商人は金のため、役人は椅子のため、善人は善人でいるために嘘をつく。そこまではいい。汚いが普通だ」
「普通なのですか」
「普通だ。まともな人間はそこから目を逸らす。俺は性格が悪いから見る」
橋が見えてきた。
聖マルタ橋は雨に濡れて、朝より黒く見えた。
橋の上には人が戻り始めていた。
市の馬車も、荷車も、魚売りも、女たちも、いつも通りだった。
誰も、修道院の書庫で欠けた頁のことなど知らない。
エルマーは続けた。
「紙に書いた奴は、たぶん死んでる。切った奴も死んでるかもしれない。だが、切られた穴だけは残る。穴は喋らない。だが、そこに言葉があったことはわかる」
「それが、許せないのですか」
「許す許さないの話じゃない。単に不愉快だ」
「あなたは、何でも不愉快で片づけますね」
「便利だからな。優しさとか正義とか言い出すと、人間はすぐ飾り始める。不愉快なら飾らずに済む」
アンネロッテは、橋を見た。
「あの橋は、町の人々を救うために造られたのですね」
「そう書いてある紙は一枚出た。まだ足りない」
「でも、祖母の言葉が少しわかった気がします。私たちの橋ではない。けれど、私たちの名がなければならない橋」
「昨日の訴状よりは進歩したな」
「あなたに褒められると、不快です」
「安心しろ。褒めてない」
アンネロッテは、小さく息を吐いた。
「橋を返せとだけ言えば、わたしは町の敵になるのでしょうね」
「なるだろうな。町は自分の財布に触る人間を敵と呼ぶ。たとえその財布が元が盗品でもな」
「では、名を戻せと言えば?」
「町はもっと嫌がるかもしれない」
「なぜ」
「金を払う方が楽だからだ。名を戻すということは、昔の話を言い直すことだ。人間は財布より、自分の美談を手放したがらない」
アンネロッテは黙った。
橋の中央に、聖マルタ像が立っている。
雨水がその顔を伝い、涙のように見えた。
だが石像は泣かない。ただ濡れるだけだ。
その時、橋の反対側から、黒塗りの馬車が来た。
昨日と同じ、市参事会の紋章をつけた馬車だった。
馬車は二人の前で静かに止まった。
扉が開き、ヴァルター・ラインハルトが降りてきた。
雨の中でも、彼は濡れた感じがしなかった。
外套は深い黒で、襟元だけが銀灰色だった。
顔には穏やかな笑みを浮かべている。
町の有力者にふさわしい、礼儀正しく、柔らかく、相手の逃げ道を塞がないようで塞ぐ笑みだった。
「メラン嬢」
ヴァルターは丁寧に頭を下げた。
「お足元の悪い中、修道院へ?」
アンネロッテは、姿勢を正した。
「少し、古い記録を見に」
「ご熱心なことです。ご祖母様も、古いものを大切になさる方でした」
「祖母をご存じで?」
「ええ。町への寄付も、薬草の施しも、よく覚えております。メラン家は、昔から市民に心を配ってくださった」
柔らかい言葉だった。
アンネロッテの顔に、わずかな困惑が浮かんだ。
礼を言うべきか、警戒すべきか迷ったのだろう。
エルマーは横から言った。
「いい舌だな、ラインハルト。油でも塗ってるのか?」
ヴァルターの視線が、静かにエルマーへ移った。
「クラウゼ。久しいな」
「俺は毎日橋のたもとにいる。久しいと思うなら、あんたが避けてたんだろ」
「相変わらずだ」
「お前らは皆それを言う。ほかに語彙はないのか」
ヴァルターは笑みを崩さなかった。
「メラン嬢に、妙な期待を持たせていないだろうね」
「期待は毒だ。俺は扱わない」
「ならよいが」
ヴァルターはアンネロッテへ向き直った。
「古い記録を調べることは、もちろん悪いことではありません。ただ、町には町の暮らしがあります。聖マルタ橋は、今や多くの市民の生活を支える公共の橋です。通行税は、市場の整備、夜警、病院、孤児院にも使われている」
アンネロッテは、静かに聞いていた。
「百年前の名誉は、尊ぶべきものです。しかし、今日のパンもまた軽くはありません。どうか、そのことだけはお忘れなきよう」
雨が細く降っていた。
エルマーは笑った。
「出たな。今日のパン」
ヴァルターは眉を動かした。
「何か?」
「盗んだ銀貨でパンを買ったら、銀貨は盗品じゃなくなるのか考えてた」
「乱暴な比喩だ」
「礼儀正しい嘘よりはましだ」
「君は、いつも人を怒らせる言い方を選ぶ」
「違う。怒る人間が多すぎるだけだ」
ヴァルターは少しだけ沈黙した。
その笑みはまだ残っていた。だが目だけが冷えた。
「市参事会は、メラン家の歴史を尊重している」
「尊重は便利だ。返す必要のないものに使える」
「クラウゼ」
「何だ」
「君が昔、市法院にいた頃から思っていたが、真実は君の玩具ではない」
エルマーは目を細めた。
「安心しろ。あんたらほど上手に遊べない」
ヴァルターは、アンネロッテへ再び会釈した。
「また改めて、お話しする機会をいただければ幸いです」
「……ええ」
「雨にお気をつけて」
馬車の扉が閉まった。
黒い車体は、橋の向こうへ静かに去っていった。
アンネロッテはその背を見送っていた。
「彼の言うことは、間違っていません」
「そうだな」
エルマーはすぐに答えた。
アンネロッテは驚いたように彼を見た。
「認めるのですか」
「認める。橋の金は町に使われてる。病院も孤児院も本当だろう。嘘つきは全部を嘘にしない。九割本当で、一割の腐った芯を隠す。上等な嘘ほどそうだ」
「では、わたしは」
「揺れろ」
「え?」
「揺れない人間は危ない。自分が正しいと信じてる奴は、他人の首を踏んでることに気づかない。揺れろ。吐きそうになるまで考えろ。その上で、まだやるなら来い」
アンネロッテは、橋の欄干に手を置いた。
その指の下には、古いメラン家の紋章があった。雨に濡れた石の溝に、細い水が溜まっていた。
「わたしは、橋が欲しいのではないのかもしれません」
「昨日より頭が働いてるな」
「でも、名は欲しい」
「だろうな」
「それは、醜いことでしょうか」
「醜いさ」
エルマーは言った。
「でも、名前を消した奴らの方がもっと醜い。安心しろ。底にはまだ下がある」
アンネロッテは、笑わなかった。
ただ、雨の橋を見つめていた。
エルマーは革鞄を握り直した。
中には祈祷書と、ベルトラムが急いで作った祭礼記録の写しが入っている。
十分ではない。
だが、穴は見つかった。
切り取られた頁。削られた行。市民一同の篤志。
死体は、少しずつ喋り始めていた。
「次は市法院だ」
エルマーが言った。
「市法院?」
「通行税台帳を見る。寄進された橋なら、いつから市の収入になったか記録がある。そこに嘘が出る」
「見せてもらえるのですか」
「普通は無理だ」
「では」
「俺には嫌われてる元上司がいる」
「嫌われているのに、頼れるのですか」
「人間関係は単純じゃない。嫌われてるからこそ、俺が何をしでかすか怖がる」
アンネロッテは、少しだけ呆れた顔をした。
「あなたは、本当に最低ですね」
「褒め言葉として受け取る」
「褒めていません」
「だろうな」
雨は、まだ降っていた。
橋の上を人々が通っていく。
誰も、欄干の古い紋章を見ない。
誰も、書庫で切り取られた頁を知らない。
誰も、百年前に銀器を売った男の名を口にしない。
ただ橋だけが、いつものように川の上にかかっていた。
エルマーは、その橋を見て呟いた。
「百年も黙ってたんだ。もう少し喋らせてやる」
アンネロッテは彼を見た。
「誰に言ったのですか」
「紙だ」
「紙?」
「石でもいい」
エルマーは橋を渡り始めた。
「人間相手より、まだ話が通じる」




