表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/16

第四話 紙を削るな

 書庫は、冷えていた。


 窓は小さく、雨の日の光はほとんど入らない。

 壁一面に棚があり、羊皮紙の束、革表紙の帳簿、木箱に入れられた巻物がぎっしり詰まっていた。

 湿気と、埃と古い革の匂いがした。

 それは腐敗の匂いではない。長く息を潜めてきたものの匂いだった。


 アンネロッテは、自然と声を低くした。


「ここに、あるのですね」


「あるかもしれない、だ」


 エルマーは答えた。


「古い書庫は墓場と同じだ。探している死体が入っているとは限らない。別の死体が出てくることはある」


 ベルトラムは棚の前で立ち止まり、台帳の束を探し始めた。


「聖マルタ橋に関する寄進であれば、おそらくこのあたりです。洪水後の三年、となると……」


「洪水の年は?」


「町の記録では、百二年前です」


「なら橋は九十九年前か」


「おそらく」


「百年前の包囲戦とは時期が合うな」


 ベルトラムは返事をしなかった。


 エルマーはその横顔を見た。


「包囲戦の話は嫌いか」


「嫌いではありません。ただ、町では多く語られますから」


「語られすぎた話は、だいたいどこかが腐ってる」


「町を救った戦いです」


「町を救った話が好きな奴は多い。誰が救われなかったかを聞く奴は少ない」


 アンネロッテは、棚の隅に置かれた木箱を見ていた。


 その蓋には、薄く聖マルタの燭台が彫られていた。


「それは?」


 ベルトラムが振り向く。


「古い祭礼記録です。橋とは直接関係がないかもしれません」


「直接関係ないものから関係あるものが出る。関係ある箱には、たいてい誰かが先に手を入れてる」


 エルマーは勝手に木箱へ手を伸ばした。


「待ちなさい」


 ベルトラムが慌てて止めた。


「許可なく開けないでください」


「許可してくれ」


「順番が逆です」


「人生はだいたいそうだ」


 ベルトラムは深いため息をつき、鍵束から小さな鍵を選んだ。


 箱が開いた。


 中には、祭礼の費用帳や、蝋燭の寄進記録、鐘を鳴らした日の記録などが入っていた。


 エルマーの目が細くなる。


「鐘の記録があるな」


 彼は一枚ずつ見ていった。


 聖女祭。洪水鎮魂。市参事会の祈願。商人ギルドの献灯。

 そして、一枚の紙で手が止まった。


 鐘三度。

 東岸避難路の完成に際し、市民感謝のため。

 メラン卿、銀燭台二基を売り、石材を購う。

 通行銭は取らず、聖女の慈悲に属す。


 アンネロッテが、声を失った。


 ベルトラムも黙っていた。


 エルマーは紙を机の上へ置いた。


「一枚目」


「証拠に、なりますか」


 アンネロッテの声は震えていた。


「なる。だが弱い」


「これでも?」


「鐘を鳴らした記録だ。橋そのものの所有権ではない。メラン卿が石材を買ったことは示せる。だが、市は言うだろう。ありがたい寄進でした、と」


 アンネロッテは唇を噛んだ。


「寄進ではありません」


「だから寄進帳を見る」


 ベルトラムは、重い帳簿を一冊、棚から取り出した。


 革表紙は黒ずみ、背の部分が少し割れていた。金具は錆びている。彼はそれを慎重に机へ置いた。


「この時期の寄進帳です」


 エルマーは座った。


 アンネロッテも、少し離れて立ったまま帳簿を見つめた。


 ベルトラムが頁をめくった。

 羊皮紙の擦れる音が、雨よりも大きく聞こえた。


 修道院への小麦の寄進。

 蝋燭代。

 聖マルタ像の修理。

 病者のための寝台布。

 石工への支払い。


 そして、年号が変わるところで、ベルトラムの指が止まった。


 頁がなかった。


 正確には、綴じ糸の根元に細い切れ端だけが残っていた。

 誰かが、そこを切り取っている。

 破れたのではない。鼠でもない。

 ――刃物だった。


 アンネロッテは、息を飲んだ。


「……ない」


 ベルトラムは青ざめていた。


「これは」


 エルマーは、静かに頁の根元を見た。


 彼の顔から、いつもの薄笑いが消えていた。


「刃が入ってる」


「古い損傷かもしれません」


 ベルトラムが言った。


「修道士。お前、自分の眼鏡を飾りだと思ってるのか」


「クラウゼ」


「破れた紙は繊維が乱れる。鼠なら噛み跡が残る。湿気なら波打つ。これは切ってある。しかも一枚だけじゃない。前後の頁に圧が残ってる。抜いたあとで、帳簿を閉じて重しを乗せたな」


 ベルトラムは黙った。


 アンネロッテは、帳簿の欠けた部分を見つめていた。


「そこに、あったのですか」


「可能性は高い」


「橋の記録が」


「可能性は高いと言った。証拠が死んでる時に断言するな」


 エルマーは、切れ端に指を近づけた。触れはしなかった。


 そして低く言った。


「紙を削るな」


 書庫の空気が、少しだけ重くなった。


「死人の口を塞ぐな」


 ベルトラムは目を伏せた。


 アンネロッテはエルマーを見た。

 彼の横顔には、怒りがあった。だがそれはアンネロッテのための怒りではなかった。

 メラン家のためでも、橋のためでもない。

 もっと狭く、もっと暗く、もっと根の深い怒りだった。


 紙を切った者への怒り。


 何かを書き残した人間を、後から黙らせた者への怒り。


「誰が」


 アンネロッテは呟いた。


「誰が、こんなことを」


「人間だ」


 エルマーは答えた。


「狼でも悪魔でもない。人間が刃物で切った。たいてい一番嫌な犯人はそれだ」


「いつ切られたのでしょう」


「そこを見る」


 エルマーは帳簿を閉じなかった。前後の頁を調べ、インクの色、手の癖、余白の汚れ、綴じ糸の緩みを見た。


「古い。少なくとも最近じゃない。だが帳簿が作られた直後でもない。何年か経ってから抜いてる」


 ベルトラムは小さく言った。


「それは、どうしてわかるのです」


「前の頁に埃の沈みがある。後ろの頁にもある。抜かれた跡の断面だけ、埃の色が違う。帳簿がしばらく使われた後で切られた。つまり、誰かが後になって、この頁が邪魔だと気づいた」


「邪魔」


 アンネロッテの声は冷たかった。


「メラン家の名が、邪魔だったのですね」


「かもしれない」


「まだ、かもしれない、ですか」


「そうだ。怒るな。怒りは裁判で役に立たない。役に立つ時は、相手の失言を誘う時だけだ」


 アンネロッテは何か言いかけ、やめた。


 ベルトラムは、もう一冊の帳簿を棚から取った。


「写しがあるかもしれません。大きな寄進については、年ごとの要約を別に作ることがあります」


「早く出せ。神が待ってる。たぶん暇だ」


「神を急かさないでください」


「俺は神じゃなくて、お前を急かしてる」


 ベルトラムは帳簿を開いた。


 年ごとの要約。

 そこには、聖マルタ橋の記述はなかった。


 ただ、一つだけ不自然な空白があった。


 東岸避難路に関する謝辞。

 その下の行が、削られて薄くなっている。上から別の文句が書かれていた。


 市民一同の篤志により、石橋成る。


 エルマーは、その一文を見た瞬間、笑った。


 乾いた、嫌な笑いだった。


「出た」


「何がです」


「美談だ」


 彼は頁をアンネロッテに向けた。


「市民一同の篤志。いい言葉だな。誰も責任を取らなくていい。誰の金かも言わなくていい。誰の名を消したかもわからなくていい。美談は便利だ。汚れた手を洗わずに白い手袋をはめられる」


 アンネロッテは、その一文を見ていた。


「メラン家の名がありません」


「ないな」


「父が、言っていました。橋は売っていないと。祖母も、言っていました。あれは私たちの橋ではない、けれど私たちの名がなければならない橋だと」


 エルマーは彼女を見た。


「面白いな」


「何がですか」


「あんたの祖母は、橋を返せとは言ってない」


 アンネロッテは黙った。


「私たちの橋ではない。けれど名がなければならない橋。いい言葉だ。訴状の百倍ましだ」


「祖母の言葉です」


「だろうな。あんたより訴訟の筋がいい」


 アンネロッテは怒らなかった。


 ただ、欠けた寄進帳を見ていた。


 切り取られた頁。

 薄く削られた行。

 上から塗られた、市民一同の篤志。


 雨の音が、書庫の窓を細かく叩いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ