第三話 雨の日の修道院はいい。修道士が逃げにくい
翌朝、聖マルタ橋には雨が降っていた。
大粒ではない。
細く、白く、音もなく町を濡らす雨だった。
橋の石畳は暗く沈み、通る荷車の轍に水が溜まった。
市場へ向かう女たちは頭巾を深くかぶり、魚売りはいつもより声を低くした。
川の水は鉛のようで、橋脚にぶつかるたび、鈍く泡を吐いた。
エルマー・クラウゼは、橋のたもとの机に座っていた。
看板は雨を吸って、いつもよりみすぼらしく見えた。
代書屋クラウゼ。
借用証、訴状、嘆願書、遺言書、婚姻契約。
その他、人生の失敗全般。
炭で書かれた落書きは、雨に濡れて少し滲んでいた。
口は悪い。
エルマーはそれを見て、鼻を鳴らした。
「雨にまで真実を広められるとはな。名誉だ。石鹸で洗いたくなった」
客は来ない。
雨の日に代書屋へ来る人間は少ない。人生に失敗した者でも、濡れるのは嫌がる。エルマーは古い外套を肩にかけ、机の下に置いた革鞄に目をやった。昨日、アンネロッテ・フォン・メランの訴状を入れたままだった。
美しい字。死んだ中身。
だが、妙な臭いのする死体。
彼は鞄から訴状を出し、もう一度読んだ。
聖マルタ橋は、古来メラン家の庇護により築かれ、百年前の包囲戦において、多くの市民を救いたるものなり――
「古来、庇護、救いたるものなり。三つ揃えば裁判所が眠る」
紙へ向かって言った。
ふと、雨の向こうから足音がした。
アンネロッテが来た。
昨日と同じ外套だった。
雨を吸って色が少し濃くなっている。
両腕には、布で包んだ何かを抱えていた。
従者はいない。
傘もない。
髪はきちんと結われていたが、こめかみのあたりに小さな雨粒がついていた。
エルマーは彼女を見上げた。
「濡れてるぞ、お嬢様。貴族は雨を避ける屋根くらい家名で呼び出せないのか」
「家名にその力があれば、あなたのところには来ません」
「少しは学習してるな」
アンネロッテは、机の上に布包みを置いた。
「持ってきました。祈祷書と、家に残っていた古い書きつけです」
「全部か」
「全部、と言いたいところですが、残っているものだけです」
「いい答えだ。全部という言葉を信じる奴は、帳簿を読んだことがない」
エルマーは布を解いた。
中には、古い祈祷書が一冊、革紐で縛った紙束が二つ、小さな銀印が一つ入っていた。
祈祷書の表紙は黒く、角が擦れている。
留め金は片方が壊れていた。
だが、粗末なものではない。
昔は大切に扱われていたのだろう。革の奥に、薄く金の型押しが残っている。
エルマーは祈祷書を開いた。
紙は厚く、少し波打っている。
祈りの文句は丁寧な写本で、赤い頭文字も残っていた。
いくつかの余白に、後の手で細かい書き込みがある。
「これを書いたのは?」
「祖母だと思います。いえ、一部はさらに前の代かもしれません」
「思います、かもしれません。いいな。証言としては病弱だが、嘘としては健康だ」
「いちいち刺さないと読めないのですか」
「刺しても読めない紙が多い。これはまだましだ」
エルマーは頁をめくった。
聖マルタの祝日に関する祈りの余白に、細い文字があった。
橋の石、聖女に捧ぐ。
洪水の年より三年後。
父上、東岸の人々を渡すため、銀器を売らる。
市は謝辞を述べ、鐘を鳴らす。
通行銭は取らず。
エルマーの指が止まった。
アンネロッテは、息を詰めるように彼を見ていた。
「何か」
「黙れ」
「……はい」
エルマーは、もう一度読んだ。
橋の石、聖女に捧ぐ。
銀器を売らる。
市は謝辞を述べ、鐘を鳴らす。
通行銭は取らず。
「これは、誰かの日記だな。祈祷書を帳簿代わりに使ってる。信心深いのか、不精なのか、どっちでもあるな」
「証拠になりますか」
「ならない」
アンネロッテの肩が落ちかけた。
エルマーは祈祷書を閉じなかった。
「だが、道にはなる」
「道?」
「寄進帳だ。聖女に捧げたなら、修道院か礼拝堂に記録がある。市が鐘を鳴らしたなら、鐘楼の記録か市参事会の議事録がある。通行銭を取らなかったなら、後に取るようになった時の台帳がある」
「つまり」
「紙は一枚で喋らない。群れにすると、たまに足を引っかける」
アンネロッテの顔に、かすかな色が戻った。
「では、修道院へ?」
「行く」
「今から?」
「雨の日の修道院はいい。修道士が逃げにくい」
エルマーは祈祷書を革鞄へ入れた。
アンネロッテは、ためらうように言った。
「それは、わたしの家のものです」
「別に盗もうってんじゃない」
「信じてよいのですか」
「俺が盗むなら、もっと金になるものを選ぶ。古い祈祷書はただ重いだけだ」
「そういう問題ではありません」
「なら信じるな。見張ってろ。どうせ一緒に来るつもりだろ」
アンネロッテは少し黙り、それから頷いた。
「行きます」
「だろうな。没落貴族は暇と誇りだけは豊富だ」
「落ちぶれた代書屋は、暇と悪口だけは豊富なのですね」
エルマーは鞄を肩にかけた。
「いいぞ。雨の日に少し温まった」
聖マルタ修道院は、橋の上流にあった。
修道院といっても、巨大な建物ではない。
灰色の石壁と、小さな鐘楼と、薬草畑のある静かな場所だった。
町の騒ぎは川沿いの道で薄れ、門の前まで来ると、雨の音ばかりが聞こえた。
門番の修道士は、エルマーの顔を見るなり嫌そうな顔をした。
「クラウゼ」
「いい朝だな」
「雨です」
「だからいい。神が町を洗ってる。無駄な努力だが」
修道士はアンネロッテを見て、慌てて姿勢を正した。
「これは、メラン家の……」
「アンネロッテ・フォン・メランです。ベルトラム修道士にお目通りを願えますか」
「書庫ですか」
修道士はすぐに察した顔をした。
察しがいい人間は、たいてい面倒を避けるのも早い。
「ベルトラム様は本日、写本の整理でお忙しく」
「写本は逃げない」
エルマーが言った。
「人間は逃げる。だから人間から先に捕まえる」
修道士は口をつぐんだ。
やがて門の奥へ消えた。
雨に濡れた石畳の上で、アンネロッテは静かに立っていた。
修道院の門を見上げる横顔は、昨日橋の欄干を見ていた時と少し違った。
ここには、まだ彼女の家名を知る者がいる。
その事実が、彼女をわずかに支えているようだった。
エルマーは言った。
「嬉しそうだな」
「そう見えますか」
「見える。死んだ家名が、まだ墓石に残っていた時の顔だ」
「あなたは本当に、人の心に泥を投げるのが上手ですね」
「違う。泥がある場所を教えてるだけだ」
「それを人は、泥を投げると言います」
「言葉の勉強になったな」
門が開いた。
中から、痩せた修道士が現れた。
年は四十半ばほど。額が広く、鼻の上に丸い眼鏡をのせている。
指先にはインクが染みていた。
服は清潔だったが、袖に紙の粉がついている。
ベルトラム修道士だった。
「クラウゼ。君が来ると、たいてい書庫が荒れる」
「荒れてる書庫に俺が来るんだ。順番を間違えるな」
「相変わらずだ」
「悪化してる。年を取ったからな」
ベルトラムはため息をついたあと、アンネロッテへ丁寧に頭を下げた。
「メラン家のお嬢様。お久しゅうございます」
「ご無沙汰しております、ベルトラム様」
「ご祖母様には、昔よく薬草を届けていただきました」
「祖母も、こちらの書庫を大切にしておりました」
「ええ。たいへん、よく覚えております」
そのやり取りを、エルマーは横で聞いていた。
「思い出話は葬式でやれ。俺たちは紙を見に来た」
ベルトラムは眉を寄せた。
「君は、教会の門前では少し慎むべきだ」
「慎みで記録は出てこない。鍵を出せ」
「何の記録を探す」
エルマーは鞄から祈祷書を取り出し、該当の頁を開いて見せた。
ベルトラムの顔が変わった。
彼は眼鏡を指で押し上げ、細い文字を読んだ。
「これは……」
「聖マルタ橋に関する記述だ。橋の石を聖女に捧げた。銀器を売った。市が鐘を鳴らした。通行銭は取らず。覚えのある年か」
ベルトラムは黙った。
その沈黙で、エルマーは少しだけ笑った。
「いい沈黙だ。無知じゃない。怖がってる」
「クラウゼ」
「当たりか」
「書庫にあるかどうかは、見てみなければわからない」
「便利な言葉だ。見たことがある人間が、忘れたふりをする時にも使える」
アンネロッテが口を挟んだ。
「ベルトラム様。お願いします。聖マルタ橋が、どのように記録されているのか知りたいのです」
ベルトラムは、彼女を見た。
その目には、同情に似たものがあった。だが同情だけではなかった。古い紙を扱う人間が、燃え残った端を見つけた時のような、恐れも混じっていた。
「……わかりました。ただし、書庫の中では火を使わないでください。手袋を。紙には素手で触れないように」
「俺は紙を食ったりしない」
「君は紙より人を傷める」
「紙の方が文句を言わないからな」
ベルトラムは、二人を中へ案内した。




