第二話 橋を見に行く
エルマーは立ち上がり、机の上の紙を重ねた。
インク壺に蓋をし、書式帳を革紐で縛る。
看板はそのままにしておいた。どうせ盗まれない。盗むほどの価値がない。
二人は橋へ向かった。
聖マルタ橋は、町の中央を流れる川にかかっていた。
石造りの古い橋で、欄干はところどころ欠けている。
橋の中央には、小さな聖女像が据えられていた。
片手に燭台を持ち、もう片方の手で衣の裾を押さえている。
顔は風雨に削られ、表情はほとんど残っていない。
橋を渡る人々は、誰もその像を見なかった。
商人は荷の数を数え、女たちは市場の値を話し、徒弟は親方に怒鳴られながら走った。
橋は、あまりにも日常の中にあった。日常に食われたものは、たいてい名前を失う。
アンネロッテは欄干の一角で立ち止まった。
「ここです」
エルマーは身を屈めた。
石の表面は摩耗していた。苔が薄くつき、ところどころに水の跡がある。
そこに、確かに何かが彫られていた。
盾形。斜めに走る帯。三つの星。下部に、小さな鍵のような意匠。
「これがメラン家の紋章か」
「はい。斜帯に三つ星、下に聖マルタの鍵。古い形です。今の家印では、鍵は省かれています」
「なぜ」
「祖父の代に、簡略化したと聞いています」
「貧しくなると、紋章まで節約するのか?」
「あなたは本当に、黙っていられないのですね」
「黙ってたら市法院に残れた。つまり俺の人生で一番高価な悪癖だ」
エルマーは指先で石の溝をなぞった。
古い。
少なくとも近年の悪戯ではない。
線の沈み方が違う。
後から彫ったものなら、石の古傷と噛み合わない。
しかしこれは、欄干そのものの年齢と近い。
橋の端には、市参事会の印が新しく嵌め込まれていた。
鉄の輪の中に、市の塔と商人ギルドの秤がある。
こちらは堂々としている。
手入れもされている。
人間は、自分が信じたいものだけ磨く。
「ふん」
エルマーは欄干を見たまま、鼻で笑った。
「何かわかりましたか」
「石工は嘘が下手だ」
「石工?」
「この紋章は古い。少なくとも、後から市の目を盗んで彫ったものじゃない。欄干と一緒に年を取ってる」
アンネロッテの顔に、わずかな明るさが差した。
「では」
「勝てない」
その明るさを、エルマーは即座に踏み潰した。
「なぜですか」
「古い紋章がある。それだけだ。昔、メラン家が金を出したのかもしれない。工事を監督したのかもしれない。名誉のために彫らせただけかもしれない。あるいは、市が礼として刻んだだけかもしれない。裁判所は言い訳を愛してる。市参事会なら、もっと愛してる」
「では、どうすれば」
「紙だ」
「紙?」
「寄進帳。通行税台帳。修繕記録。市参事会の議事録。橋番の任命書。石は喋らない。紙も喋らない。だが、紙の方が失言する」
アンネロッテは、欄干の紋章を見つめた。
「わたしは、橋を取り戻したいのです」
「だろうな。没落貴族は、失ったものを数えるのが得意だ」
「あなたは違うのですか」
エルマーは、顔を上げた。
アンネロッテは、今度は目を逸らさなかった。
「あなたも失ったのでしょう。市法院の席を。書記官としての未来を。人から敬われる場所を」
「痛いところを探すのがうまいな。訴状より才能がある」
「なら、わかるはずです」
「何を」
「失ったものを、ただ諦めろと言われることが、どれほど腹立たしいか」
風が吹いた。
川の匂いが上がってきた。
水と苔と、魚の血と、朝のパンの匂いが混ざっていた。
町は生きている。
生きているものは、だいたい少し臭う。
エルマーは欄干から手を離した。
「いいか、お嬢様」
アンネロッテの眉が少し動いた。呼び方が気に入らないのだろう。
「橋を取り戻すのは難しい。百年は長い。盗品でも、百年も人の手を渡れば家宝みたいな顔をする。市はこう言う。これは公共の橋です。通行税は市場と病院と孤児院に使われています。昔の家名のために、今の市民を困らせるのですか、とな」
アンネロッテは黙って聞いていた。
「その時、あんたは答えられるか」
「……わかりません」
「正直だな。訴状に書いたら負けるが、今はいい」
「では、あなたならどう答えるのですか」
「俺ならこう言う。盗んだ銀貨でパンを買って子供に食わせたからといって、銀貨が盗品でなくなるわけじゃない」
「それで勝てますか」
「勝てない」
「では」
「だが、相手の顔は歪む」
アンネロッテは呆れたように見た。
「あなたは勝つために戦うのではないのですか」
「勝つために戦う奴は多い。俺は、相手が気持ちよく勝つのを邪魔する方が好きだ」
「最悪ですね」
「よく言われる。たいてい正しい」
アンネロッテは、ほんの少しだけ笑った。
笑ったといっても、唇の端がわずかに緩んだだけだった。
だが、エルマーにはそれで十分見えた。
彼女は怒りだけでここに来たのではない。
絶望を礼儀で包み、諦めを外套の下に押し込め、それでも橋のたもとまで歩いてきた。
こういう人間は面倒だ。
エルマーは面倒な人間が嫌いだった。
だが、面倒な嘘はもっと嫌いだった。
「祈祷書を持ってこい」
「今からですか」
「今からじゃない。明日の朝でいい。俺は勤勉じゃない」
「わかりました」
「あと、その訴状は置いていけ」
「なぜ」
「死体でも、解剖すれば役に立つ」
「あなたに預けて大丈夫でしょうか」
「大丈夫な男が橋のたもとで代書屋をやってると思うか」
アンネロッテは少し考え、訴状をエルマーに渡した。
その時、橋の向こうから、市参事会の紋章をつけた馬車が近づいてきた。
黒塗りの車体に、市の塔と秤が金で描かれている。
馬車は橋の中央で一度速度を落とした。
窓の内側から、男がこちらを見ていた。
四十を過ぎた、整った顔の男だった。
髪は薄い金色で、顎髭は短く整えられている。
服装は派手ではないが、仕立てがよかった。無駄のない金の使い方を知っている男の服だった。
男はアンネロッテを見た。
それから、エルマーを見た。
窓越しに、かすかに会釈した。
アンネロッテの肩が強張った。
「あれは?」
エルマーが聞くと、アンネロッテは低く答えた。
「ヴァルター・ラインハルト。市参事会の評議員です」
「町の財布を握ってる男か」
「ええ」
「いい顔だ。嘘をつく時に便利そうな顔だな」
「まだ何もしていません」
「何かしてからじゃ遅い」
馬車は橋を渡りきり、市庁舎の方へ消えていった。
エルマーは、馬車の去った方をしばらく見ていた。
ラインハルトは、こちらに気づいた。
アンネロッテが橋の紋章を見ていたことにも、おそらく気づいた。
あの手の男は、見たいものを見落とさない。見たくないものは、見なかったことにする。
「面倒になった」
エルマーは言った。
「やめますか」
アンネロッテの声は、予想より静かだった。
エルマーは彼女を見た。
「やめてほしいのか」
「いいえ」
「なら聞くな。弱気は伝染する」
エルマーは訴状を上着の内側に入れた。
橋の上では、いつも通り人々が行き交っていた。
誰も欄干の古い紋章を見ない。
誰も、市の印の下に沈んだ古い線に気づかない。
百年とは、そういうものなのだろう。
人は覚えているふりをしながら、都合の悪いものから順に忘れていく。
忘れたあとで、忘れたことさえ美徳にする。
町の歴史とは、たぶんそうやって白く塗られた壁のようなものだ。
近づけば、下から染みが浮いている。
エルマーは欄干をもう一度見た。
斜帯に三つ星。小さな鍵。
消えかけているが、まだ消えてはいない。
「お嬢様」
「その呼び方はやめてください」
「嫌だね。似合ってる。古くて、重くて、金にならない」
アンネロッテは睨んだ。
「明日、祈祷書を持ってこい。ついでに、メラン家に残ってる紙を全部持ってこい。手紙、帳簿、遺言、洗礼記録、虫食いの紙切れ、読めない落書き。何でもいい」
「わかりました」
「期待はするな」
「しません」
「それも腹が立つな」
アンネロッテは、今度こそ少し笑った。
エルマーは橋を下り、自分の机へ戻った。
机の上には、さっきの肉屋の女房が置いていった銅貨が三枚、朝の光を受けて鈍く光っていた。看板の落書きも、そのままだった。
口は悪い。
エルマーは炭の文字を見て、鼻で笑った。
「足りないな」
そう呟いて、机に座った。
そして、アンネロッテの訴状を開いた。
美しい字が並んでいた。
中身は、やはり死んでいた。
だが死体の胸の下で、何かがまだ微かに動いている気がした。




