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第1話 橋のたもとの代書屋

 聖マルタ橋の上を、朝の荷車が軋みながら渡っていた。


 川はまだ夜の色を少し残していた。

 町の屋根から落ちた霧が、水面の上で薄くほどけ、橋脚の石に触れては白く消えた。

 魚市場へ急ぐ男たちの声が、橋の下で湿って響いている。

 パン屋の煙はまだ細く、鐘楼の鐘は一度だけ鳴って、その余韻を町の屋根瓦のあいだに落とした。


 橋のたもとには、小さな机が一つ置かれていた。


 脚の一本が短いのか、板切れを噛ませてある。

 その上に、インク壺と砂入れと、角の擦り切れた書式帳があった。

 机の背後には、色の褪せた板看板が吊るされている。


 代書屋クラウゼ

 借用証、訴状、嘆願書、遺言書、婚姻契約

 その他、人生の失敗全般


 その下に、誰かが炭で落書きをしていた。


 口は悪い


 その文字を消すでもなく、男は机の前に座っていた。


 エルマー・クラウゼは、羽根ペンの先を舌で少し湿らせた。

 乾いた唇に黒いインクがついたが、気にもしなかった。

 年は三十を少し過ぎたころで、痩せているわけではないのに、頬のあたりに妙な鋭さがあった。

 髪は黒に近い褐色で、寝癖のように片側が跳ねている。

 着ている上着は古く、袖口にはインクの染みがいくつもあった。


 向かいには、肉屋の女房が座っていた。


 女房は丸い顔を赤くして、両手を膝の上で揉んでいる。


「だから、あの人は悪い人ではないんです。ただ、少し酒が入ると――」


「酒が入ると、借金が増える。酒が抜けると、言い訳が増える。で、あんたはその言い訳を俺に紙へ書けと言ってる」


 エルマーは、女房の言葉を最後まで聞かなかった。


「ち、違います。夫は親方に誤解されていて」


「誤解は便利だな。失敗した人間は、だいたい最初にそれを持ってくる」


「でも、本当に、あの人は店の金を盗んだわけでは――」


「盗んだんじゃない。勝手に使った。いい言葉がある。横領だ」


 女房の目に涙が溜まった。


 エルマーは黙って、机の端に置いていた布を取った。


「泣くなら左を向け」


「え?」


「紙が濡れる。紙はあんたの亭主より役に立つ」


 女房は怒るべきか泣くべきか迷ったような顔をした。結局、泣きながら左を向いた。


 エルマーは書いた。


 夫は軽率であった。

 酒席において公私の区別を失い、店の銀貨を一時的に流用したことは否定しない。

 しかし、その行為は逃亡または隠匿を目的としたものではなく、翌朝ただちに返済の意思を示した――


 筆は速かった。

 余計な飾りは一つもない。

 だが、どの言葉も逃げ道を潰しながら、同時に処刑台からは半歩だけ遠ざけるように置かれていた。


「ほら」


 エルマーは砂を振り、紙を乾かしてから女房に渡した。


「これを親方に出せ。泣き落としはするな。あんたが泣くと、亭主がもっと悪く見える」


「……ありがとうございます」


「感謝はいい。銅貨三枚」


 女房は財布から銅貨を出し、机の上に置いた。立ち上がってから、看板の落書きをちらりと見た。


「本当に、口が悪いんですね」


「評判に嘘がないのは珍しい。大事にしないとな」


 女房は、少しだけ笑いそうになって、それをこらえて去っていった。


 橋の上では、荷車がまた一台通った。車輪が石畳の継ぎ目に落ちて、鈍い音を立てた。エルマーはその音を聞きながら、インク壺の蓋を閉めようとした。


 その時、机の前に影が落ちた。


 客にしては、影がまっすぐだった。


 エルマーは顔を上げた。


 女が立っていた。


 年は二十を少し越えたくらいか。灰色がかった青の外套を着ている。生地はよいものだったが、袖口の縁は擦れていた。手袋は古く、何度も繕った跡がある。靴は磨かれていたが、底は薄くなっている。


 貧しさは隠せない。だが、貧しさを見せまいとする姿勢だけは、橋の欄干より硬かった。


 女は、軽く顎を引いた。


「クラウゼ殿ですね」


「その殿はどこから拾ってきた。俺の机の下か」


 女は少しだけ眉を動かした。


「エルマー・クラウゼ殿では?」


「エルマー・クラウゼだ。殿は要らない。ここにあるのは机とインクと、失敗した人生だけだ。敬称をつけるほど高級なものじゃない」


「では、クラウゼさん」


「さんも高い」


「クラウゼ」


「よし。少し賢くなったな」


 女は黙った。


 普通なら、ここで踵を返す。

 少なくともエルマーはそう思った。

 町の女房や職人なら、怒鳴るか、泣くか、諦めるかのどれかだ。

 貴族なら、侮辱された顔をして、二度と来ない。


 しかし女は、去らなかった。


 外套の内側から、一束の紙を取り出した。

 綺麗に折られていた。

 紙質は悪くない。

 いや、悪くないどころではない。

 古い家で大切に残されていた紙だ。新しく買ったものではなく、使うべき時を待たされていた紙だった。


「これを見てほしいのです」


「恋文なら教会の裏へ行け。破談なら市場の角に女占い師がいる」


「訴状です」


 エルマーは、そこで初めてまともに女の顔を見た。


 白い顔だった。

 弱々しい白さではない。

 寒い朝に水で洗った磁器のような白さだった。

 目は淡い緑で、光の少ないところでも妙にはっきりしていた。


「訴状」


「ええ」


「誰を訴える」


「市参事会を」


「帰れ」


 エルマーは即座に言った。


 女は紙を差し出したまま、動かなかった。


「まだ中身を読んでいません」


「読む前に死体の臭いがする。市参事会を訴えるには金がいる。証拠がいる。後ろ盾がいる。あんたには外套と古い紙しかない。足りないものが多すぎる」


「証拠はあります」


「馬鹿は皆そう言う。だいたい証拠じゃなくて願望を包んで持ってくる」


「読んでください」


「嫌だ」


「なぜ」


「面倒だからだ」


 女は、そこで初めて、はっきりとエルマーを睨んだ。


「代書屋が、文書を読むのを面倒だと言うのですか」


「肉屋だって腐った肉は嫌がる」


「まだ腐っていると決まったわけではありません」


「いい返しだ。訴状よりは見込みがあるかもな」


 エルマーは渋々、紙を受け取った。


 女の字は美しかった。

 細く、整っていて、乱れがない。貴族の娘が礼拝堂で聖句を書き写す時のような字だった。線の終わりまで、教育と我慢が染みている。


 エルマーは三行読んだ。


 それから、紙を机に置いた。


「字は綺麗だな」


「ありがとうございます」


「褒めてない。棺桶に花を飾っても死体は死体だ。これは訴状じゃない。上品な遺書だ」


 女の顔色が変わった。


「無礼です」


「無礼なのは裁判所だ。あいつらは笑いもしないで捨てる。俺はまだ親切だ。笑ってやってる」


「わたしは真剣です」


「だから余計に悪い。真剣な馬鹿は手に負えない」


 女は唇を結んだ。だが、泣かなかった。


 エルマーは紙を指で叩いた。


「まず、何を求めているのかがぼやけている。橋を返せ? 管理権を返せ? 通行税を返せ? 記録を訂正しろ? 寄進証書の開示を求める? 全部違う。全部書くなら順番がある。あんたの文章は、怒りを綺麗に並べただけだ」


「聖マルタ橋は、メラン家のものです」


「証拠は」


「橋の欄干に、我が家の紋章が残っています」


「石に犬が彫ってあるからって、犬に橋は相続できない」


「犬ではありません」


「そこに怒るな。大事なのは犬かどうかじゃない。石に彫ってあるものだけじゃ、所有権は返ってこないって話だ」


 女は紙を取り戻そうとしなかった。


 かわりに、静かに言った。


「アンネロッテ・フォン・メランです」


 エルマーは目を細めた。


「メラン」


「ええ」


「まだ残ってたのか」


 言った瞬間、女――アンネロッテの目が冷たくなった。


「その言い方は、死人を数える時のものです」


「違う。死人の方が面倒を起こさない。残っている方が厄介だ」


「あなたは、いつもそういう言い方を?」


「だいたいな。たまにもっと悪い」


 アンネロッテは、深く息を吸った。


 怒りを飲み下したのがわかった。

 喉がかすかに動いた。

 古い家名を着て生きている人間は、怒る時にも手順を踏む。

 エルマーはそういう手順が嫌いだった。

 だが、彼女が今、その手順で自分を支えていることも見えた。


「メラン家は、聖マルタ橋を市へ寄進していません」


「市の記録では、寄進したことになってる」


「だから訴えるのです」


「市の記録が相手だぞ。相手は紙だ。紙は喋らない。泣かない。謝らない。しかも市法院は紙の味方をする。昔の同僚だからよく知ってる」


 アンネロッテは、わずかに目を伏せた。


「あなたが、元市法院の書記官だったと聞きました」


「書記官補だ。偉そうに言うな。偉くなる前に腐った」


「腐った?」


「そう。才能が少しあって、忍耐がなく、口を閉じる知恵もなかった。そういう人間は、だいたい橋のたもとに流れ着く」


「では、わたしはちょうどよい場所へ来たのですね」


 エルマーは、少しだけ黙った。


 アンネロッテは続けた。


「わたしも流れ着いた身です。メラン家の屋敷は、もう屋敷と呼ぶには古すぎます。父は死にました。母もいません。家臣もほとんど残っていません。残っているのは、祈祷書と、銀印と、祖母の話と、橋の欄干に彫られた紋章だけです」


「感動的だな。教会に行けば涙を売れる」


「橋を売った覚えはありません」


 その言葉だけは、静かだった。


 だが、エルマーはそこに初めて、紙の端を燃やすような熱を見た。


 彼はもう一度、訴状に目を落とした。


 聖マルタ橋は、古来メラン家の庇護により築かれ、包囲戦の折には多くの市民を救ったるものなり――


 古い言い回しだ。法廷では役に立たない。だが、嘘だけではない。少なくとも、彼女は自分の家に残る言葉を、そのまま信じてここまで来た。


「祈祷書と言ったな」


「はい」


「そこに何がある」


「余白に古い書き込みが。祖母は、それが橋に関わるものだと言っていました」


「祖母は死んだのか?」


「十年前に」


「便利だな。死人は反対尋問に答えなくて済む」


 アンネロッテの手が動いた。


 平手が飛んでくるかと思ったが、彼女は外套の端を握っただけだった。


「死者を愚弄しないでください」


「愚弄してない。死者を証人にするなと言ってる。死んだ人間の言葉を使うなら、紙か石か骨を持ってこい。裁判所は幽霊に椅子を出さない」


「だから、あなたに頼んでいるのです」


「俺は霊媒師じゃない」


「代書屋でしょう」


「代書屋だ。奇跡は扱ってない」


「なら、文書を扱ってください」


 橋の上を、今度は修道院へ向かう小さな鐘運びの少年たちが通った。

 彼らの肩に担がれた箱から、金属の触れ合う澄んだ音がした。

 朝の光が少し強くなり、橋の石が灰色から白へ移った。


 エルマーは、その光を横目で見た。


「欄干の紋章を見に行く」


 アンネロッテは一瞬、言葉を失った。


「では」


「勘違いするな。あんたを信じたわけじゃない。字の綺麗な死体に、少しだけ妙な臭いがする。それを確かめるだけだ」


「それでも構いません」


「構う。俺がな。面倒が増える」

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