第十話 便利だな。不完全な時だけ、市に都合よく完全な羊皮紙が出てくる
市参事会文庫は、市庁舎の奥にあった。
広場から見れば、市庁舎は立派な建物だった。
高い切妻屋根、石の尖塔、壁面に掲げられた市章。
塔と秤。町の者は、それを見上げるたびに、ここには町の理性が詰まっていると思うのだろう。
だが、裏口に回れば違った。壁は湿り、雨樋は歪み、積まれた樽の陰には鼠の糞があった。
町というものは、正面から見ると立派で、裏から見ると人間に似ている。
エルマー・クラウゼは裏口の前で足を止めた。
「いい建物だ。正面で嘘をついて、裏で本当の顔をしてる」
アンネロッテ・フォン・メランは、彼の隣で市庁舎を見上げた。
「なぜ裏口から入るのですか」
「正面から入ると待たされる。裏から入ると怒られる。怒られる方が早い」
「あなたは、人に嫌われる道をよく知っていますね」
「何年もかけて磨いた技術だ」
彼は戸を叩いた。
しばらくして、小太りの小役人が顔を出した。エルマーを見るなり、鼻の上に皺を寄せる。
「クラウゼ」
「人気者は名前を覚えられて困るな」
「ここは市参事会の文庫だ。代書屋が来る場所ではない」
「元書記官補なら来てもいいか」
「もっと悪い」
「正直でいい。嫌いじゃない」
小役人は、アンネロッテに気づくと、慌てて姿勢を直した。
「メラン家のお嬢様」
「市参事会文庫に保管されている、聖マルタ橋に関する別紙乙二号の閲覧を願います」
小役人は眉を曇らせた。
「別紙乙二号……」
「知らないふりは三秒までだ。四秒目から下手な芝居になる」
エルマーが言った。
小役人は彼を睨んだ。
「評議員の許可が必要だ」
「評議員?」
「ラインハルト様だ」
「やっぱりな。鼠の穴に猫が座ってる」
「口を慎め」
「慎みを売ってる店を知らない。文庫にあるなら閲覧申請を出す」
小役人は扉を閉めかけた。
その時、奥から声がした。
「通しなさい」
静かな声だった。
扉の隙間から、ヴァルター・ラインハルトが姿を見せた。
黒い上着に、銀灰色の襟。昨日と同じように、隙のない服装だった。雨は上がっているのに、彼の周囲だけ湿り気を避けているように見える。
「ちょうどよかった。こちらからお招きしようと思っていたところです」
エルマーは笑った。
「嘘が早いな。朝食前に練習してるのか」
ヴァルターは表情を変えなかった。
「君も相変わらず、礼儀を節約している」
「礼儀は高い。俺は落ちぶれた代書屋だ」
「自覚があるなら、まだ救いがある」
「救われる気がない。無駄な心配だ」
ヴァルターはアンネロッテへ向き直った。
「メラン嬢。どうぞ。文庫の閲覧は、正規の手続きを踏めば可能です。ただし、文書の状態によっては、直接お手に取っていただけないものもあります」
「承知しております」
「では、こちらへ」
市参事会文庫は、修道院の書庫とは違っていた。
祈りの匂いはない。
埃と革と蝋の匂いは同じでも、ここにある紙は、もっと冷えていた。
棚は整っており、箱には番号が振られ、鍵も二重にかけられている。
人の記憶を守る場所というより、人の権利を閉じ込める場所だった。
奥の閲覧机に、一つの文箱が置かれた。
小役人が鍵を開ける。
中から、薄い羊皮紙の束が出てきた。
「聖マルタ橋、橋梁管理権確認。別紙乙二号」
ヴァルターが言った。
アンネロッテの指が、わずかに動いた。
エルマーは彼女より先に手を伸ばしかけたが、小役人がそれを止めた。
「触れないでください」
「食わない」
「あなたなら噛むかもしれない」
「いい教育を受けてるな」
羊皮紙は、机の上に広げられた。
そこには、整った筆致で文が書かれていた。
聖マルタ橋は、包囲戦の後、メラン家より市に寄進されたるものと確認す。
以後、維持管理および通行税徴収権は市参事会に属す。
市は聖女の慈悲に則り、橋を公共の用に供するものなり。
末尾には、複数の署名と印影があった。
その中に、メラン家の名もあった。
アンネロッテの顔から色が引いた。
「そんな……」
小役人が、勝ち誇ったように顎を上げた。
ヴァルターは穏やかに言った。
「ご覧の通りです。メラン家のご先祖は、町のために橋を寄進された。これは恥ずべきことではありません。むしろ、誇るべき篤志です」
アンネロッテは、羊皮紙を見つめたまま動かなかった。
エルマーは黙っていた。
いつものようにすぐ噛みつかない。
それがかえって、部屋の空気を重くした。
彼は羊皮紙の端、印影、署名の順に見ていった。
目だけが動いている。人間を見る時とは違う目だった。
紙に残った癖を、紙の奥にいる死者の指を、静かに追っている。
「なるほど」
ようやくエルマーが言った。
「綺麗な文書だ」
ヴァルターはわずかに目を細めた。
「君が素直にそう言うとは珍しい」
「褒めてない。綺麗すぎる」
「どういう意味だ」
「百年前の文書にしては、死に方が上品すぎる。傷も少ない。折り目も浅い。保管がよかったと言えばそれまでだが、俺は善意と保管状態の良さを信じない」
小役人がむっとした。
「文庫を侮辱するのか」
「安心しろ。侮辱される価値はある」
エルマーは羊皮紙の署名を指さした。
「この署名。メラン卿のものか」
アンネロッテは、顔を上げた。
羊皮紙には、アードルフ・フォン・メランの名があった。彼女の祖先。橋を築いたとされる当主。
「はい……おそらく」
「おそらく、じゃ弱い。家に署名の残った文書はあるか」
「父の保管箱に、古い契約書が何通か」
「後で見る」
ヴァルターが口を挟んだ。
「クラウゼ。君は何を疑っている」
「全部だ」
「それでは話にならない」
「話にならない文書を見せたのはそっちだ」
「これは正式な確認文書だ」
「なら、なぜ市法院の台帳には議決番号がない。なぜ通行税が市一般財源に移る前、石材償還寄付という名目がある。なぜ寄進後五年も経って、メラン家が修繕費を拠出している」
ヴァルターの笑みが、少し薄くなった。
「古い時代の処理だ。記録が不完全なこともある」
「便利だな。不完全な時だけ、市に都合よく完全な羊皮紙が出てくる」
小役人が声を荒げた。
「言いがかりだ」
「違う。言いがかりなら、もっと気分よく言う」
エルマーは羊皮紙の下部にある印影を見た。
メラン家の印。
斜帯に三つ星。
だが、鍵がない。
エルマーの口元が動いた。
「お嬢様」
アンネロッテは彼を見た。
「今のメラン家の印は、鍵を省いていると言ったな」
「はい。祖父の代に簡略化したと」
「この印にも鍵がない」
アンネロッテは、息を呑んだ。
彼女は身を乗り出し、羊皮紙の印影を見つめた。
「……ない」
エルマーは、ヴァルターへ顔を向けた。
「百年前の文書なのに、後の代の印が押されてる」
文庫の中が、静かになった。
ヴァルターの表情はまだ崩れていない。だが、目の奥だけが硬くなった。
「印章は、後に確認のため押し直された可能性がある」
「それなら、その注記がいる。ないな」
「失われたのかもしれない」
「また失われた。便利な町だ。都合の悪い紙はよく迷子になる」
アンネロッテは羊皮紙を見ていた。
さっきまで彼女を押し潰していた文書が、今は別の顔をしている。完全な証拠ではない。
だが、疑う隙間はあった。
エルマーはさらに言った。
「それと、もう一つ」
「まだあるのか」
ヴァルターの声は穏やかだったが、わずかに低くなった。
「字が若い」
「字?」
「百年前の市法院や市参事会の書記は、もっと線が重い。この文書の手は新しい。いや、全部じゃない。本文は古い手に似せてる。だが末尾の確認文が違う。筆が滑りすぎてる」
「君の主観だ」
「そうだ。俺の主観だ。だが、俺の主観はお前の礼儀よりは当たる」
ヴァルターはしばらく黙った。
それから、アンネロッテへ静かに言った。
「メラン嬢。古い家に伝わる記憶を大切に思われるお気持ちは、よくわかります。しかし、疑いだけで町を騒がせるのは危険です。聖マルタ橋は今、町の暮らしに欠かせない。市場も、病院も、孤児院も、あの橋の収益に支えられている」
また、その言葉だった。
今日のパン。
アンネロッテの顔が揺れた。
ヴァルターは続けた。
「あなたのご先祖が橋を築いたのなら、その志は町のためだったはずです。であれば、現在の橋のあり方も、その志に適うものではありませんか」
静かで、正しいように聞こえる声だった。
エルマーが笑った。
「上手いな。死人の志まで代筆する気か」
「クラウゼ」
「ご先祖様は町のためを望んでいたはずです。だから黙ってろ。便利な死者だ。反論しないからな」
アンネロッテは、羊皮紙から目を離した。
「ラインハルト様」
「はい」
「橋が町のために使われていることは、理解しています」
「それは何よりです」
「けれど、町のためなら、誰の名を消してもよいのでしょうか」
ヴァルターは、すぐには答えなかった。
アンネロッテの声は震えていなかった。
「祖先が橋を町のために造ったのなら、なおさら、その事実を消す理由はないはずです」
「消したわけではありません。寄進として記録されている」
「その寄進の記録が、疑わしいのです」
小役人が何か言いかけた。
ヴァルターが手で制した。
「では、あなたは何を求めるのです」
アンネロッテは、少しだけ沈黙した。
その問いは、彼女の胸の奥へ直接落ちた。
橋を返せ。昨日までなら、そう言えた。だが今は、その言葉が以前ほどまっすぐ出てこない。
橋は町の人間が毎日渡っている。
通行税が病院や孤児院に流れていることも、おそらく事実だ。ならば、自分は何を取り戻したいのか。
エルマーは何も言わなかった。
珍しく、助け舟を出さなかった。
アンネロッテは、自分の声で答えた。
「まずは、正しい記録を」
ヴァルターの目が細くなった。
「記録」
「はい。聖マルタ橋が、どのように築かれ、どのように市の管理へ移ったのか。その経緯を、正しく知りたいのです」
「知って、どうなさる」
「それは、知った後で決めます」
エルマーが、少し笑った。
「いいな。訴状よりずっとましだ」
アンネロッテは彼を見なかった。
ヴァルターは羊皮紙を小役人に戻させた。
「閲覧は以上です。写しの作成には、市参事会の許可が必要となります」
「許可しないんだろ」
エルマーが言った。
「審議する」
「市参事会の言う審議は、墓穴を掘るのと似てる。結果が先に決まってる」
「君の悪口は、町を動かさない」
「そうだな。だから紙を書く」
ヴァルターはエルマーを見た。
「まだ書くつもりか」
「仕事だからな。落ちぶれた代書屋にも、紙とインクくらいはある」
「なら、覚えておくといい。町は個人の怒りで動くほど軽くない」
「知ってる。町は重い。盗んだ橋の分だけな」
小役人が顔を赤くした。
ヴァルターは静かに言った。
「今日はお引き取りを」
エルマーは背を向けた。
アンネロッテは一度だけ、閉じられた文箱を見た。
そこにある羊皮紙は、彼女の家を押し潰す石のようにも見えた。だが同時に、石の表面に細い亀裂が入ったようにも見えた。
亀裂は、まだ細い。
けれど、そこから光が入ることもある。




