第十一話 今の人のために、祖先を黙らせていいのかって話だ。答えは簡単じゃない。だから面倒なんだ
市庁舎を出ると、広場には夕方の光が斜めに差していた。
市場の片づけが始まり、野菜屑の匂いと、湿った麦わらの匂いが混じっている。遠くで子供が泣き、馬車の車輪が石畳を鳴らした。
アンネロッテは、黙って歩いていた。
エルマーは一度も振り返らなかった。
だが、橋へ向かう道を外れ、南の通りへ曲がった。
「どこへ行くのですか」
「病院」
「なぜ」
「ラインハルトが口にしたからだ」
「病院を?」
「ああ。橋の通行税が流れてるそうだ。見る」
「見る必要がありますか」
「ある。敵の正論は、殴る前に重さを量る。軽いと思って蹴ると、足の骨が折れる」
病院は、旧礼拝堂を改造した建物だった。
白い壁には、ところどころ修繕の跡がある。
窓は高く、清潔ではあるが、豊かではなかった。
中庭では、灰色の服を着た女たちが包帯を干している。薬草の匂いと、煮沸した布の匂いがした。
受付の老女はエルマーを見ると、顔をしかめた。
「クラウゼ。あんた、今度は誰を訴えるんだい」
「まだ決めてない。候補が多い」
「病人を怒らせるんじゃないよ」
「怒る元気があるなら治る見込みがある」
老女は呆れながらも、奥へ通してくれた。
病室には、怪我をした職人、熱を出した子供、咳をする老人がいた。
寝台の数は多くない。
だが、どれも壊れたものではなく、布も洗われている。窓際には、小さな棚があり、薬瓶が並んでいた。
アンネロッテは、そこで言葉を失った。
貧しい。
だが、確かに使われている。
橋の金がここに流れているなら、それは無意味ではなかった。
若い看護女が、エルマーへ言った。
「橋税のおかげで、今年は冬の薪を少し多く買えたんです」
「そうか。薪は偉いな。人間より正直に燃える」
「またそういうことを」
看護女は苦笑した。
アンネロッテは、小さな寝台に横たわる子供を見た。頬が赤く、眠っている。そばには母親らしい女が座り、濡らした布を替えていた。
その母親が、アンネロッテの外套を見た。
貴族だと気づいたのだろう。少し身を固くした。
アンネロッテは、何も言わず、ただ小さく頭を下げた。
外へ出ると、空気が少し冷たかった。
アンネロッテは病院の白い壁を振り返った。
「本当に、使われているのですね」
「そうだな」
「孤児院も、同じなのでしょうか」
「たぶんな」
「では、わたしが橋を返せと言えば、あの子たちの薪を奪うことになるのですね」
「そうなる可能性はある」
「あなたは、否定してくれないのですね」
「否定すると気持ちいいか」
「少しは」
「なら、やめておく。気持ちいい嘘は高くつく」
アンネロッテは、目を伏せた。
「わたしは、何をしているのでしょう」
「調べてる」
「それだけですか」
「今はそれだけだ」
「でも、調べた先に、誰かが困るかもしれない」
「調べなくても、もう誰かは困ってる」
アンネロッテは顔を上げた。
エルマーは病院の壁を見ていた。
「あんたの家だ。死人も含めてな」
「死者も、困るのですか」
「困る。少なくとも、俺はそう思ってる。死人は口が利けない。だから生きてる奴が、勝手に美談へ縫い込む。橋を寄進した、町のためだった、だから今の使い方でいい。死んでるから反論できない」
「祖先のために、今の人を困らせるのは」
「逆だ」
エルマーは彼女を見た。
「今の人のために、祖先を黙らせていいのかって話だ。答えは簡単じゃない。だから面倒なんだ」
アンネロッテは、病院の窓を見た。
中で、看護女が子供の布を替えている。
その手は確かで、迷いがなかった。
「橋は、返さない方がいいのかもしれません」
「かもな」
「あなたは、驚かないのですね」
「昨日からそうなると思ってた」
「なら、なぜ言わなかったのですか」
「自分で気づいた方が痛い。痛い方が忘れない」
「本当に、性格が悪い」
「今さらだ」
アンネロッテは、少しだけ笑った。
その笑いは寂しかった。だが、崩れてはいなかった。
「でも、名は戻したい」
「なら、そう書け」
「橋は町のものとして残す。けれど、メラン家が築いた事実を記録に戻す。通行税の使途を、橋が造られた時の志に近いものへ縛る。そういう訴えは、できますか」
エルマーの顔が、わずかに変わった。
「できる」
「勝てますか」
「知らん」
「また」
「だが、戦える。橋を返せ、よりはずっと筋がいい。町の財布を丸ごと奪い返すんじゃない。町の喉に刺さった骨を、抜けと言うんだ」
「骨」
「百年飲み込んだふりをしてる骨だ。痛くないわけがない」
アンネロッテは、深く息を吸った。
「では、それを書いてください」
「まだ早い」
「なぜ」
「別紙乙二号を潰す。あれが生きてる限り、こっちの訴えは弱い」
「偽物だと証明できますか」
「証明は難しい。だが、正真正銘の本物だと相手に言わせない程度には傷をつけられる」
「それで十分なのですか」
「裁判なんてそんなもんだ。神の前で真実を選ぶ場所じゃない。人間の前で、相手の嘘をどこまで不格好にできるか競う場所だ」
アンネロッテは、また病院を見た。
「美しいものではありませんね」
「美しいものが欲しければ詩を読め。訴状は泥の中で書く」
「あなたは、詩を読まないのですか」
「読む。悪口の参考になるからな」
アンネロッテは、今度ははっきり笑った。
エルマーは少し不機嫌そうに目を逸らした。




