第十二話 退屈な文書ほど通る、か。あの老いぼれ、たまに正しいから腹が立つ
その夜、エルマーの代書机には灯りがあった。
橋のたもとの小さな机。昼間は人の失敗が積まれる場所も、夜になるとただの板切れに戻る。
川の上には霧が出ていた。
橋を渡る人影は少なく、たまに夜警の槍先が灯りを拾った。
エルマーは一人で座り、羊皮紙に写した記録を並べていた。
修道院の祭礼記録。
切り取られた寄進帳の写し。
通行税台帳の写し。
石材償還寄付。
メラン家の修繕費拠出。
別紙乙二号の内容を書き取った覚え書き。
鍵のない印影。
彼は羽根ペンを持ったまま、しばらく動かなかった。
そこへ、足音が近づいた。
「夜に来るな。客なら明日にしろ。刺客ならもう少し静かに歩け」
「君を刺すには、まず口を塞がねばならん。手間が多すぎる」
オットー・フェルナーだった。
上席書記官は、黒い外套をまとい、橋の霧の中から現れた。市法院にいる時より、少し年老いて見えた。
エルマーは顔を上げた。
「老後の散歩か。悪趣味だな」
「君ほどではない」
「何の用だ」
オットーは机の上の紙を見た。
「別紙乙二号を見たか」
「見た。よくできた死体だった」
「偽造だと思うか」
「全部とは言わない。一部は古い。古い文書を土台に、都合よく手を加えた。そう見える」
「証明できるか」
「今は無理だ」
「なら口にするな」
「俺から口を取ったら何が残る」
「才能だ」
エルマーは一瞬、黙った。
それから笑った。
「気持ち悪いことを言うな。老い先短いからって善人ぶるなよ」
「君は昔から、褒め言葉を受け取るのが下手だ」
「使い道がないからな」
オットーは、机の上に小さな紙片を置いた。
「何だ」
「申請書の雛形だ」
「俺を馬鹿にしてるのか。申請書くらい書ける」
「市参事会文庫の写し作成請求ではない。市法院経由の、文書真正確認の申請だ」
エルマーの目が細くなった。
オットーは続けた。
「別紙乙二号の印影に疑義がある場合、市法院は比較対象の提出を命じることができる。メラン家に古い印章文書が残っているなら、それを添えろ」
「フェルナー」
「私は何も助けていない。一般的な手続きの説明をしただけだ」
「便利な一般論だ」
「手続きは便利だ。使い方を知っていれば」
エルマーは紙片を取った。
「なぜ教える」
オットーは橋を見た。
聖マルタ像は夜霧の中に薄く立っている。燭台を持つ石の手だけが、わずかに白かった。
「昔、君は文書の余白に書いたな。この証文の日付は証人より若い、と」
「ああ。あれで落ちた」
「愚かな行為だった」
「知ってる」
「だが、間違ってはいなかった」
エルマーは何も言わなかった。
オットーは言葉を続けた。
「あの時、私は君を守らなかった」
「守れなかった、じゃなくてか?」
「守らなかった」
夜霧が川から上がる。
遠くで、水鳥が鳴いた。
「制度を守るためだと言った。市法院の秩序を守るためだと。だが、半分は自分の椅子を守るためだった」
「今さら懺悔か。教会なら上流だ」
「懺悔ではない。忠告だ」
「何の」
「ラインハルトは、私よりうまくやる。彼は町のためという言葉を、本気で信じている。だから強い」
エルマーは紙片を見下ろした。
「信じてる嘘が一番厄介だ」
「そうだ」
「で、あんたは何を信じてる」
オットーは答えるまでに、少し時間を置いた。
「紙だ」
エルマーは顔を上げた。
「紙は嘘をつくぞ」
「知っている。君に教えたのは私だ」
「なら、なぜ」
「人間よりは、あとで問い直せる」
エルマーは笑わなかった。
オットーは背を向けた。
「メラン家の古い契約書を探せ。鍵のある印影が残っていれば、別紙乙二号は揺らぐ」
「あんたがそれを言っていいのか」
「私は何も言っていない」
「便利だな」
「君ほどではない」
オットーは去っていった。
エルマーは机に残された雛形を見た。
市法院経由の文書真正確認申請。
退屈で、堅苦しく、恐ろしく有効な紙だった。
エルマーは羽根ペンを取った。
「退屈な文書ほど通る、か」
彼は小さく舌打ちした。
「あの老いぼれ、たまに正しいから腹が立つ」
橋の向こうで、夜警の鐘が鳴った。
エルマーは書き始めた。
原告予定者アンネロッテ・フォン・メランは、聖マルタ橋に関する橋梁管理権確認文書、通称別紙乙二号につき、その印影および成立時期に疑義あるため――
言葉は、夜の水のように黒く紙へ流れた。
訴状ではない。まだ刃ではない。
だが、刃を研ぐ音がした。




