第十三話 全部は勝てない。だが、相手の美談を折るくらいはできる
メラン家の屋敷は、町の西外れにあった。
屋敷と呼ぶには、少し痩せすぎていた。
かつては白かった壁は灰色にくすみ、窓枠の塗料は剥げ、庭の生垣はところどころ途切れている。
門柱にはメラン家の紋章が残っていたが、斜帯の三つ星は雨と風に削られ、下の鍵は、初めからなかったように浅くなっていた。
エルマー・クラウゼは門の前で立ち止まり、屋敷を見上げた。
「いい屋敷だな」
アンネロッテ・フォン・メランは、少しだけ怪訝な顔をした。
「あなたが褒めるとは思いませんでした」
「褒めてない。落ちぶれ方に統一感がある。趣味がいい」
「……やはりそういう意味でしたか」
「安心しろ。俺の机よりは上等だ」
アンネロッテは門を開けた。
蝶番が、低く軋んだ。
庭には濡れた土の匂いがあった。
薔薇の古木が一本、冬の骨のように立っている。
花の季節なら美しかったのかもしれない。
今は枝の刺だけが、過去の気位を保っていた。
玄関では、老女中のユッテが待っていた。
小柄で、髪はすっかり白い。腰は少し曲がっているが、目は鋭かった。彼女はエルマーを見ると、露骨に眉をひそめた。
「この方が、例の代書屋ですか」
「ええ。クラウゼです」
「口が悪いと聞いております」
エルマーは肩をすくめた。
「評判が先に着いてるなら、自己紹介が省けるな」
ユッテはさらに眉をひそめた。
「お嬢様、このような方を屋敷に入れてよろしいのですか」
「今さらだ。屋敷の方が俺より先に崩れそうだぞ」
「無礼な」
「正確だ」
アンネロッテは、二人の間に入るように静かに言った。
「ユッテ、父の保管箱を」
ユッテの顔から、わずかに表情が消えた。
「本当に、お開けになるのですね」
「ええ」
「旦那様は、生前それを嫌がっておいででした」
「知っています」
「なら」
「だからこそ、開けます」
その言葉に、ユッテは少し黙った。
古い屋敷には、死者の命令が生き残る。
それは時に、生きている者の足首を掴む。
ユッテは小さく頭を下げた。
「かしこまりました」
奥の書斎へ案内された。
書斎は冷えていた。
暖炉には火がなく、壁際の書棚も空きが目立つ。
売れる本は売ったのだろう。
残された本は、売っても金にならないものか、売るには痛すぎるものだった。
机の上に、鉄の金具がついた木箱が置かれた。
ユッテが鍵を差し、ゆっくりと回した。
乾いた音がした。
箱の中には、古い契約書、洗礼証書、婚姻契約、領地売却の控え、そして数通の封蝋付き文書が入っていた。
アンネロッテは、それを見て一瞬動けなくなった。
エルマーは、遠慮なく椅子を引いた。
「感傷に浸るなら後にしろ。紙は逃げないが、俺の忍耐は逃げる」
「あなたには、本当に何かを悼む気持ちがないのですか」
「ある。だから紙を読む」
アンネロッテは何か言い返そうとして、やめた。
エルマーは一通ずつ文書を見ていった。
古い日付。古い署名。古い印影。メラン家がまだ町の有力者と対等に契約していた頃の紙だった。
やがて、彼の手が止まった。
「これだ」
アンネロッテが身を乗り出した。
それは、橋が築かれる以前の領地売買に関する契約書だった。
末尾に、アードルフ・フォン・メランの署名がある。
そして印影には、はっきりと鍵があった。
斜帯に三つ星。
その下に、聖マルタの鍵。
エルマーは、市参事会文庫で見た別紙乙二号の写しと並べた。
鍵のある印。
鍵のない印。
アンネロッテは、息を詰めた。
「違います」
「違うな」
「別紙乙二号の印は、後のものです」
「おそらくな」
「おそらく、ではなく」
「お嬢様」
エルマーは顔を上げた。
「裁判では、おそらくを積み上げて、相手に断言できなくさせる。それが仕事だ。神様の前なら知らん。市法院には神様の席はない。あったとしても、手数料を取られる」
アンネロッテは、印影を見つめていた。
その横顔には、勝利の喜びではなく、もっと痛いものがあった。
「父は、これを見たのでしょうか」
「見たかもな」
「だから、橋は売っていないと」
「かもな」
「父は、なぜ訴えなかったのでしょう」
ユッテが、部屋の隅で小さく息を吸った。
アンネロッテは振り返った。
「ユッテ」
老女中は、しばらく黙っていた。
やがて、皺のある手を前で組んだ。
「旦那様は、訴えようとなさいました」
アンネロッテの目が揺れた。
「父が?」
「はい。奥様が亡くなられて少し後です。古い紙を出して、何度も見比べておいででした。聖マルタ橋のことを、もう一度調べると」
「なぜ、わたしに」
「お嬢様はまだお若かった」
「それだけ?」
ユッテは目を伏せた。
「市参事会から、お客様が来られました」
部屋の空気が、冷えた。
エルマーが言った。
「誰だ」
「ラインハルト様です」
アンネロッテは唇を結んだ。
「父に、何を」
「詳しいことは存じません。ただ、その後、旦那様は保管箱を閉じられました。そして、何もおっしゃらなくなった」
「脅されたのですか」
「わかりません」
ユッテの声は苦かった。
「けれど、旦那様はその晩、こう言われました。橋は売っていない。だが、橋で食べている子供たちを、わしは憎めない、と」
アンネロッテは、椅子の背に手を置いた。
その指が、少し白くなっている。
エルマーは、文書を見下ろしていた。
「ラインハルトは親子二代で同じ手を使ったわけか」
「同じ手?」
アンネロッテが訊いた。
「今日のパンだ。あいつはそれを武器にする。刃物よりよく切れる。相手が善人なら特にな」
「父は、黙ったのですね」
「黙らされたんだろ」
「それは同じことですか」
エルマーは少しだけ顔を上げた。
アンネロッテの声は震えていなかった。
けれど、震えない声の方が、かえって危うい時がある。
「違う」
エルマーは言った。
「だが、結果は似る」
アンネロッテは、父の文書に手を伸ばしかけ、途中で止めた。触れるのが怖いようだった。
「わたしも、黙るべきでしょうか」
「そうしたいなら、そうしろ」
「止めないのですか」
「止めない。俺はお前の家臣じゃない」
「冷たいのですね」
「違う。選ぶのはあんただ。人の口で正義を言うと、あとでそいつのせいにできる。便利で卑怯だ。やめろ」
アンネロッテは目を閉じた。
しばらく、暖炉のない部屋に沈黙が落ちた。
外では、風が古い窓を揺らしていた。屋敷全体が、遠い昔から眠っている獣のように、小さく軋んだ。
アンネロッテは目を開けた。
「橋は、町に残します」
ユッテが顔を上げた。
エルマーは黙っていた。
「父が憎めなかった子供たちを、わたしも憎みません。祖先が町を逃がすために橋を築いたのなら、その橋が今も町のために使われることを、わたしは否定しません」
彼女は、机の上の印影を見た。
「でも、名は戻します」
声は静かだった。
「橋が寄進されたという嘘を、そのままにはしません。橋の銘文を戻させます。記録を訂正させます。通行税の一部を、病院と孤児院と、避難路の維持に固定させます。メラン家が金を取るためではありません。橋が、何のために造られたかを、町が忘れないためです」
エルマーは、口の端を上げた。
「やっと訴状らしくなった」
「書けますか」
「書く」
「勝てますか」
「くどいな」
「聞きたいのです」
「全部は勝てない。だが、相手の美談を折るくらいはできる」
アンネロッテは頷いた。
「それでいいです」
「よくはない」
エルマーは立ち上がった。
「だが、百年遅れの喧嘩には似合ってる」




