表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/16

第十四話 町のためという言葉で、名を消さないでください。町のためであるなら、なおさら、町は正しい名を知るべきです

 市法院の審理室は、広くはなかった。


 正面に判事席があり、その下に書記席、左右に当事者の席が置かれている。

 壁は白く塗られていたが、ところどころに古い染みがある。

 天井の梁には、煤が残っていた。


 その日、聖マルタ橋の文書真正確認に関する審理が開かれた。


 町の者も何人か傍聴に来ていた。

 橋の話は、すでに噂になっていた。

 没落したメラン家の娘が橋を取り戻そうとしている。

 落ちぶれた代書屋がそれを焚きつけている。

 市参事会が隠し事をしている。

 いや、メラン家が昔の栄光にすがっているだけだ。


 噂は、事実より足が速い。

 そして、たいてい泥足で走る。


 アンネロッテは、濃紺の古いドレスを着ていた。

 新しくはない。

 だが、丁寧に手入れされている。

 胸元には小さな銀の留め具があり、そこに斜帯と三つ星の紋章が刻まれていた。


 エルマーは、いつもの黒ずんだ上着だった。


 アンネロッテは低く言った。


「もう少しまともな服はないのですか」


「ある」


「なぜ着ないのです」


「まともな服は、まともな人間に譲った」


「あなたは本当に……」


「落ち着いたか?」


 アンネロッテは言葉を止めた。


 エルマーは前を見たまま言った。


「人の服に文句を言えるなら、まだ大丈夫だ」


「……そういうつもりでしたか」


「違う。服がみすぼらしいのは本当だ」


 アンネロッテは、少しだけ笑った。


 反対側には、ヴァルター・ラインハルトが座っていた。

 彼の隣には、市参事会付きの弁論人がいる。

 ヴァルターは落ち着いていた。静かで、礼儀正しく、町の安定そのものの顔をしていた。


 判事が入室した。


 オットー・フェルナーは書記席にいた。彼はエルマーを一度だけ見たが、何も言わなかった。


 審理が始まった。


 市参事会側の弁論人は、滑らかに話した。


 聖マルタ橋は、百年前、メラン家より市へ寄進されたもの。別紙乙二号にその確認がある。以後、橋は公共の用に供され、通行税は町の福祉、治安、修繕に充てられてきた。これを今さら疑うことは、市政の安定を損ねる。


 美しい言葉だった。


 エルマーは退屈そうに聞いていた。


 判事が問うた。


「クラウゼ。申立人側の主張を」


 エルマーは立った。


 その立ち方には、礼儀がなかった。

 だが、不思議と卑屈でもなかった。


「市参事会側の話は立派だ。橋は公共のもの。金は病院や孤児院へ。町は善良。死んだメラン家は篤志。今さら騒ぐな。よくできた物語だ。子供に聞かせれば眠る」


 傍聴席がざわついた。


 判事が眉をひそめた。


「クラウゼ。言葉を選べ」


「選んでる。まだ半分も出してない」


 オットーが書記席で目を閉じた。


 エルマーは続けた。


「問題は、別紙乙二号だ。市参事会はこれを根拠に、聖マルタ橋がメラン家より寄進されたと主張している。だが、この文書には疑義がある」


 彼は、まず通行税台帳を出した。


「橋の初期記録では、通行銭は取られていない。商人ギルドなどから集められた金は『石材償還寄付』と記されている。市の一般財源ではない。誰かに、石材費を返す性質の金だった」


 次に、修繕費の記録。


「市が橋の管理権を得たとされる後も、メラン家は橋脚修繕費を『拠出』している。寄付ではない。拠出だ。自分のものでもない橋に、なぜ義務に近い形で金を出す?」


 市参事会側の弁論人が立った。


「名誉ある家が、町のために追加の善意を示したとも考えられる」


「善意は便利だな。証拠の穴を埋める漆喰になる」


「侮辱だ」


「違う。漆喰への侮辱だ」


 判事が机を叩いた。


「クラウゼ」


「はいはい」


「はいは一度だ」


「はい」


 アンネロッテは、隣で少しだけ目を伏せた。笑ってはいけないと思っている顔だった。


 エルマーは、メラン家の古い契約書を出した。


「そして印影だ。別紙乙二号には、メラン家の印がある。だが、その印には聖マルタの鍵がない。一方、同時代の確実なメラン家文書には、斜帯三つ星の下に鍵がある。鍵が省かれるのは後の代だ」


 審理室の空気が変わった。


 ヴァルターは静かに聞いていた。


 弁論人が言った。


「後年、確認のために押印し直された可能性がある」


「そうだな」


 エルマーはすぐに認めた。


「可能性はある。だが、押印し直したなら注記がいる。ない。成立時の印なのか、後年の確認印なのか、文書から判別できない。つまり、市参事会はこの文書を、百年前の正式な寄進確認文書として断言できない」


 判事は書類を見比べた。


 オットーが、その横で静かに記録を取っている。


 エルマーは、少し声を低くした。


「寄進帳の該当頁は切り取られている。祭礼記録には、メラン卿が銀燭台を売り、橋の石材を購ったとある。市が鐘を鳴らした記録もある。橋番の古歌には、メランの星が川を渡したと残る。歌は証拠じゃない。知ってる。だが、歌以下の文書を根拠にされるよりはましだ」


 弁論人が顔を赤くした。


「市参事会文庫の正式文書を、歌以下と」


「そうだ。歌は少なくとも、鍵を消してない」


 傍聴席が、ざわめいた。


 ヴァルターが、初めて口を開いた。


「クラウゼ。君の主張は、町の百年を疑うものだ」


「違う。町の百年に混ざった嘘を疑ってる」


「町は橋を守ってきた。修繕し、通行を保ち、収益を市民に返してきた」


「盗んだ銀貨でパンを買った話なら、もう聞いた」


「言葉が過ぎる」


「事実が過ぎてるんだ。言葉は追いついてない」


 ヴァルターは、判事へ向いた。


「聖マルタ橋の収益は、現に病院と孤児院を支えております。市場の維持も夜警も、橋税なしには成り立ちません。仮に百年前の記録に不備があったとしても、今の市民生活を揺るがすべきではありません」


 それは、強い言葉だった。


 傍聴席にいた者たちの表情が揺れた。

 病院。孤児院。夜警。市場。

 どれも町の暮らしの中にある。メラン家の古い名より、今日の灯りとパンの方が近い。


 判事も、その重さを無視できない顔をした。


 その時、アンネロッテが立った。


 エルマーは彼女を見た。


「アンネロッテ・フォン・メラン。発言を許します」


 判事が言った。


 アンネロッテは、ゆっくり頭を下げた。


「わたしは、聖マルタ橋の所有権を、ただちにメラン家へ返せとは申しません」


 審理室が静かになった。


 市参事会側の弁論人が、意外そうに顔を上げた。ヴァルターも、目を細めた。


 アンネロッテは続けた。


「橋は、今の町の人々が渡るものです。病院や孤児院に使われている収益を、わたしは奪いたくありません。百年前、メラン家の当主が橋を築いたのが、町の人々を逃がすためであったなら、その橋が今も町を支えることを、わたしは否定しません」


 声は澄んでいた。


 だが、その中には冷たい芯があった。


「けれど、だからこそ、嘘の上に置かれてはなりません」


 アンネロッテは、聖マルタ橋の欄干に残る紋章の写しを出した。


「メラン家の名が不要であったなら、最初から橋に紋章など刻まれなかったはずです。祖先が橋を町に捧げたのなら、その事実を正しく記録すればよい。もし奪ったのであれば、奪ったとまでは言えずとも、少なくとも、寄進という美しい言葉で覆うべきではありません」


 彼女は一度、息を吸った。


「求めるのは三つです。

 一つ、聖マルタ橋の建設にメラン家が主要な費用を拠出したことを、市の公式記録に追記すること。

 二つ、別紙乙二号について、成立時期および印影に疑義ありと記録すること。

 三つ、聖マルタ橋の通行税の一部を、病院、孤児院、避難路維持の基金として固定し、その基金にメラン家の名を付すこと」


 エルマーは、黙って聞いていた。


 彼女は橋を取り戻すのではない。

 橋に名を戻すのだ。


 ヴァルターの顔は、かすかに硬くなっていた。


 所有権を求める相手なら、町の生活を盾に押し返せる。

 だが、町の生活を守ったまま、記録の訂正だけを求める相手は厄介だった。


 アンネロッテは最後に言った。


「町のためという言葉で、名を消さないでください。町のためであるなら、なおさら、町は正しい名を知るべきです」


 静寂が落ちた。


 エルマーは小さく呟いた。


「訴状より、ずっとましだ」


 アンネロッテは彼を見なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ